神道は祭天の古俗(明治24年)・・8
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
神道に人鬼を崇拜せず
神道に人鬼を崇拜することは古書に絶えてなきことなり。伊勢大神宮は固より大廟に非ず。忍穂耳尊社の豐前香春にあるハ後に辨ずべし。次て瓊々杵尊の日向可愛山陵(えのみささぎ、はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・ 鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山を「可愛山陵」と指定)、彦火火出見尊の日向高屋山陵。鸕鷀草葺不合尊の日向吾平山陵は。並に延喜式に無とありて。又〔神代三陵。於山城國葛野郡田邑陵南原祭之。其兆域東西一町。南北一町(延喜式諸陵寮(927撰上)に、 「神代三陵 山城国葛野郡田邑陵南原に於いて之を祭る。其兆域東西一町南北二町」)とあり。是は何代に築かれしにや。日向の遠隔なるを以て。陵代を作りて祭られし故に。日向三陵は守戸もなく。終に其處も知れぬ樣に移果たり。(可愛山陵は薩摩穎娃郡に、高屋山陵は同國阿多郡加世田郷鷹屋に在べきなり、)且田邑陵は神社には非ず。墓祭りをなす所なり。是神道の風なるべし。故に神武帝の畝傍山陵にも神社を建てず。綏靖帝以後歴代の天子を神社に祠りたることなし。八幡大菩薩を神功皇后應神天皇といふは。佛説の入たる後の事なり。是は別に説あり。續日本後紀・承和七年五月藤原吉野の議に。〔山陵猶宗廟也。縱無宗廟者。臣子何處仰〕といへり。此の如く。天子に神社を建たる例なきに。臣下には神社を建て。朝廷より祭らるゝことは。斷々あるべき理に非ず。あるハ後世の神社に祭神を附會したるより誤られ。終に神社ハ人鬼を崇拜する祠堂の如く思ひたるのみ。近比に至り攝津住吉社を埃及波斯(エジプト・ペルシャ)の塚穴堂に類すといふ説あり。其は古史を知らぬ人の誤想なり。住吉の三神は筑紫博多を本社とす。神功皇后征韓の還りに務古水門(今の神戸附近)に建られ、仁徳帝の比、墨江には創建せり。(史學會雑誌に詳か也)。三神社を並へ祠たる形の墓堂に似たるも此地に表・中・底筒男の墓あるべきに非ず。余往年信濃上諏訪社に詣り、寶殿の樣を見るに。甚墓堂に似たり。されども諏訪は健御名方命の領國にて上諏訪社にて湖東を治め。下諏訪社にて湖西を治めたる跡にて。其社を神名帳に南方富神社(みなかたとみじんじゃ)とあり。富は刀賣なり。健南方命の其女をして天神を齋かせしめしに因て稱するならん。建築の樣を望みて墓穴の堂と思ふは僻見なり。(後に奧津棄戸の風俗を述ふると并せ考ふべし)
神道に宗廟なし。大神宮を大廟と稱するは甚しき誤謬なれども、世にかりそめに此く唱へる人もあり。韓土にも之に似たることあり。東國通鑑(1484年に徐居正等によって編纂された韓国の三国時代から高麗時代末までの歴史書.)に〔百濟始祖十七年(漢元壽元年といふ、西暦紀元前二年)立國母廟〕とあるを熟考するに。我大神宮の如き宮と思はるれども。高麗の末になりてハ。此く誤解したるならん。我諸神社にも是に似たる誤解は甚多し。大國魂社・大神社(おおみわやしろ)等は大已貴其人を祭るに非ず。大已貴命國を造り其地に建たる社殿なり。すべての天社國社も同例なり。故に國造を國の宮つみと云。此は歴史の考究に甚肝要なることにて。古代國縣の分割。造別受領の跡を徴すべし。例へば豐前國香春神社は神名帳に、田川郡辛國息長大姫大目命神社・忍骨神社・豐比咩命神社(からくにおきながおおひめおおじ・おしほね・とよひめ)とある三座にて。辛國は韓國なり。息長大姫大目命は以前の領主にて。忍穂耳尊新羅より渡り此を行在として西國を征定せられ。後に豐姫の受領せし地と思はる。(史學會雜誌第十一號星野氏の論説を参考)社殿は其政事堂也。土佐香美郡に天忍穂別神社あり。別は造別の別なり。紀景行帝の條に。〔當今之時。謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉〕とあるにて知るべし。此も忍穂耳尊豐前より上洛の途次に。暫駐蹕ありし地なるべし。凡神社は古時國縣の政事堂なり。神名帳大和に添御縣坐神社・葛木御縣神社・志貴御縣坐神社・高市御縣神社(そうのみあがたにいますじんじゃ・かつらぎみあがたじんじゃ・しきのみあがたいますじんじゃ・ たけちのみあがたじんじゃ)等あり。猶後世の郡家の如し。美濃に又比奈守神社(厚見郡)あり。比奈守は紀の景行帝の條に〔巡狩筑紫國。始到夷守。(中略)乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守還來而諮之。曰諸縣君泉媛〕(日向諸縣郡。十八年(ととせあまりやとせ)春三月(やよひ)、天皇京(みやこ)に将向(むかはむとし)、 以(も)ちて筑紫国(つくしのくに)を巡狩(めぐりめします)。 始めに夷守(ひなもり)に到り、是の時、[於]石瀬河辺(いはせのかはへ)に人(ひと)衆(あまた)聚集(あつまり)、
於是(ここに)天皇遙(はるか)に望み[之]、左右(もとこ)に詔(のたまはく)[曰]
「其の集まれる者(ひとども)は何人(なにびと)なる也(や)、若(もしや)賊(あた)乎(か)。」とのたまひ、 乃(すなはち)兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の二人を遣はし覩(み)令(し)む。 乃弟夷守、還来(かへりまゐき)て[而]諮(まをさく)[之][曰]
「諸県(むらかた)の君(きみ)泉媛(いづみひめ)、大御食(おほあへ)を献(まつ)らむとするに依(よ)りて[而]其の族(うがら)会(あつま)れり[之]。」とまをす。)とある夷守に同し。魏志に〔到對島國。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。云云。至一支國。(壹岐)官亦曰卑狗。副曰卑奴母離(魏志倭人伝に「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。」)とあり。卑狗は彦なり。卑奴母離は比奈守なり。彦は後の荘司地頭の如く。比奈守は荘下司地頭代の如し。是某彦・某姫社、若くは夷守社等は、領主の建たる祭政一致の政事堂にて某縣社・某縣坐神社と其義一なり。又倭文(しず)・物部・服部・兵主(ひょうず)・楯縫(たてぬい)・玉造・鏡作・等の神社は。各伴部の地に建たる社にて久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などと謂か如く後世の荘衙に同し。前にもいふが如く。宗像社は筑前風土記に據るに天照大神の三女、筑紫に身形部を領し鏡玉を表として。韓土往返の津に建たる三社なり。大和石上坐布留御魂神社ハ。垂仁帝の時に建られたる武庫にて。中に 韴霊宝剣(ふつぬしの靈寶劍〕をも納めたれば。之を神體として。石上社を建たり。前條に擧たる天香山社は。神を祭る瓮を造る土を出す山なるを以て。往古より祠られたる社なり。常陸風土記に。鹿島郡の鐵礦を鹿島社領として採掘を停めたるも。同し政略なるを知るべし。總て上古の神社は。皆此の如き原由にて。神魂・高魂社を始め神代に國土を開きたる人の創建したる社と見れば。神名帳諸社の起りは氷釋すべし。盡く祭天の堂に外ならず。然るを其社號に泥みて祭神の名と誤るより天神地祇の混雜を生じ、人鬼を祭る靈廟にまぎれ神道の主旨亂れて遂に謀叛人の藤原廣嗣を松浦社に祭り、大臣の菅原道眞を天滿宮と崇めて天子も膝を屈め給ふ。歴代の天子ハ一も神社に祭ることなきに。却て補佐大臣より一郡一邑の長までも神に化するは冠履倒装の甚しきなり。末世の拘忌( こうき )より狐を祠りて稻荷とし、蛇を祠りて市杵島姫とし、鼠を崇めて大已貴神と謂ふが如きは、凡下流俗の迷ひにて。論ずるに足らざれども。其獘端を啓きたるハ天神より強て地祇を別ちて遂に人鬼を混淆し此く亂れたるなり。佛法の入らぬ以前。陵墓に厚葬の風はあれども人鬼を崇拜することなく。宗廟の祭もなく惟大神を祭るを神道とす。是日本固有の風俗なり。
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
神道に人鬼を崇拜せず
神道に人鬼を崇拜することは古書に絶えてなきことなり。伊勢大神宮は固より大廟に非ず。忍穂耳尊社の豐前香春にあるハ後に辨ずべし。次て瓊々杵尊の日向可愛山陵(えのみささぎ、はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・ 鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山を「可愛山陵」と指定)、彦火火出見尊の日向高屋山陵。鸕鷀草葺不合尊の日向吾平山陵は。並に延喜式に無とありて。又〔神代三陵。於山城國葛野郡田邑陵南原祭之。其兆域東西一町。南北一町(延喜式諸陵寮(927撰上)に、 「神代三陵 山城国葛野郡田邑陵南原に於いて之を祭る。其兆域東西一町南北二町」)とあり。是は何代に築かれしにや。日向の遠隔なるを以て。陵代を作りて祭られし故に。日向三陵は守戸もなく。終に其處も知れぬ樣に移果たり。(可愛山陵は薩摩穎娃郡に、高屋山陵は同國阿多郡加世田郷鷹屋に在べきなり、)且田邑陵は神社には非ず。墓祭りをなす所なり。是神道の風なるべし。故に神武帝の畝傍山陵にも神社を建てず。綏靖帝以後歴代の天子を神社に祠りたることなし。八幡大菩薩を神功皇后應神天皇といふは。佛説の入たる後の事なり。是は別に説あり。續日本後紀・承和七年五月藤原吉野の議に。〔山陵猶宗廟也。縱無宗廟者。臣子何處仰〕といへり。此の如く。天子に神社を建たる例なきに。臣下には神社を建て。朝廷より祭らるゝことは。斷々あるべき理に非ず。あるハ後世の神社に祭神を附會したるより誤られ。終に神社ハ人鬼を崇拜する祠堂の如く思ひたるのみ。近比に至り攝津住吉社を埃及波斯(エジプト・ペルシャ)の塚穴堂に類すといふ説あり。其は古史を知らぬ人の誤想なり。住吉の三神は筑紫博多を本社とす。神功皇后征韓の還りに務古水門(今の神戸附近)に建られ、仁徳帝の比、墨江には創建せり。(史學會雑誌に詳か也)。三神社を並へ祠たる形の墓堂に似たるも此地に表・中・底筒男の墓あるべきに非ず。余往年信濃上諏訪社に詣り、寶殿の樣を見るに。甚墓堂に似たり。されども諏訪は健御名方命の領國にて上諏訪社にて湖東を治め。下諏訪社にて湖西を治めたる跡にて。其社を神名帳に南方富神社(みなかたとみじんじゃ)とあり。富は刀賣なり。健南方命の其女をして天神を齋かせしめしに因て稱するならん。建築の樣を望みて墓穴の堂と思ふは僻見なり。(後に奧津棄戸の風俗を述ふると并せ考ふべし)
神道に宗廟なし。大神宮を大廟と稱するは甚しき誤謬なれども、世にかりそめに此く唱へる人もあり。韓土にも之に似たることあり。東國通鑑(1484年に徐居正等によって編纂された韓国の三国時代から高麗時代末までの歴史書.)に〔百濟始祖十七年(漢元壽元年といふ、西暦紀元前二年)立國母廟〕とあるを熟考するに。我大神宮の如き宮と思はるれども。高麗の末になりてハ。此く誤解したるならん。我諸神社にも是に似たる誤解は甚多し。大國魂社・大神社(おおみわやしろ)等は大已貴其人を祭るに非ず。大已貴命國を造り其地に建たる社殿なり。すべての天社國社も同例なり。故に國造を國の宮つみと云。此は歴史の考究に甚肝要なることにて。古代國縣の分割。造別受領の跡を徴すべし。例へば豐前國香春神社は神名帳に、田川郡辛國息長大姫大目命神社・忍骨神社・豐比咩命神社(からくにおきながおおひめおおじ・おしほね・とよひめ)とある三座にて。辛國は韓國なり。息長大姫大目命は以前の領主にて。忍穂耳尊新羅より渡り此を行在として西國を征定せられ。後に豐姫の受領せし地と思はる。(史學會雜誌第十一號星野氏の論説を参考)社殿は其政事堂也。土佐香美郡に天忍穂別神社あり。別は造別の別なり。紀景行帝の條に。〔當今之時。謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉〕とあるにて知るべし。此も忍穂耳尊豐前より上洛の途次に。暫駐蹕ありし地なるべし。凡神社は古時國縣の政事堂なり。神名帳大和に添御縣坐神社・葛木御縣神社・志貴御縣坐神社・高市御縣神社(そうのみあがたにいますじんじゃ・かつらぎみあがたじんじゃ・しきのみあがたいますじんじゃ・ たけちのみあがたじんじゃ)等あり。猶後世の郡家の如し。美濃に又比奈守神社(厚見郡)あり。比奈守は紀の景行帝の條に〔巡狩筑紫國。始到夷守。(中略)乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守還來而諮之。曰諸縣君泉媛〕(日向諸縣郡。十八年(ととせあまりやとせ)春三月(やよひ)、天皇京(みやこ)に将向(むかはむとし)、 以(も)ちて筑紫国(つくしのくに)を巡狩(めぐりめします)。 始めに夷守(ひなもり)に到り、是の時、[於]石瀬河辺(いはせのかはへ)に人(ひと)衆(あまた)聚集(あつまり)、
於是(ここに)天皇遙(はるか)に望み[之]、左右(もとこ)に詔(のたまはく)[曰]
「其の集まれる者(ひとども)は何人(なにびと)なる也(や)、若(もしや)賊(あた)乎(か)。」とのたまひ、 乃(すなはち)兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の二人を遣はし覩(み)令(し)む。 乃弟夷守、還来(かへりまゐき)て[而]諮(まをさく)[之][曰]
「諸県(むらかた)の君(きみ)泉媛(いづみひめ)、大御食(おほあへ)を献(まつ)らむとするに依(よ)りて[而]其の族(うがら)会(あつま)れり[之]。」とまをす。)とある夷守に同し。魏志に〔到對島國。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。云云。至一支國。(壹岐)官亦曰卑狗。副曰卑奴母離(魏志倭人伝に「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。」)とあり。卑狗は彦なり。卑奴母離は比奈守なり。彦は後の荘司地頭の如く。比奈守は荘下司地頭代の如し。是某彦・某姫社、若くは夷守社等は、領主の建たる祭政一致の政事堂にて某縣社・某縣坐神社と其義一なり。又倭文(しず)・物部・服部・兵主(ひょうず)・楯縫(たてぬい)・玉造・鏡作・等の神社は。各伴部の地に建たる社にて久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などと謂か如く後世の荘衙に同し。前にもいふが如く。宗像社は筑前風土記に據るに天照大神の三女、筑紫に身形部を領し鏡玉を表として。韓土往返の津に建たる三社なり。大和石上坐布留御魂神社ハ。垂仁帝の時に建られたる武庫にて。中に 韴霊宝剣(ふつぬしの靈寶劍〕をも納めたれば。之を神體として。石上社を建たり。前條に擧たる天香山社は。神を祭る瓮を造る土を出す山なるを以て。往古より祠られたる社なり。常陸風土記に。鹿島郡の鐵礦を鹿島社領として採掘を停めたるも。同し政略なるを知るべし。總て上古の神社は。皆此の如き原由にて。神魂・高魂社を始め神代に國土を開きたる人の創建したる社と見れば。神名帳諸社の起りは氷釋すべし。盡く祭天の堂に外ならず。然るを其社號に泥みて祭神の名と誤るより天神地祇の混雜を生じ、人鬼を祭る靈廟にまぎれ神道の主旨亂れて遂に謀叛人の藤原廣嗣を松浦社に祭り、大臣の菅原道眞を天滿宮と崇めて天子も膝を屈め給ふ。歴代の天子ハ一も神社に祭ることなきに。却て補佐大臣より一郡一邑の長までも神に化するは冠履倒装の甚しきなり。末世の拘忌( こうき )より狐を祠りて稻荷とし、蛇を祠りて市杵島姫とし、鼠を崇めて大已貴神と謂ふが如きは、凡下流俗の迷ひにて。論ずるに足らざれども。其獘端を啓きたるハ天神より強て地祇を別ちて遂に人鬼を混淆し此く亂れたるなり。佛法の入らぬ以前。陵墓に厚葬の風はあれども人鬼を崇拜することなく。宗廟の祭もなく惟大神を祭るを神道とす。是日本固有の風俗なり。