福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

霊的本能主義(和辻哲郎)・・最終回

2013-08-05 | 法話
「絶対に物質を超越し絶対に霊に執着せよ」との主義はあまりに漠然たるものである。絶対の物質超越は死に至る。吾人は死を辞せない、死を恐れない。ただ霊的執着のために此世に活き此界に動く。ゆえに吾人の生活は心霊の光彩を帯びなければならぬ。生活の困難に嘆かず黄金に屈服せざるは死を恐るる人にできる事でない。しかしながら吾人は生きるために食物を要する、食物のためには働く義務がある。世人がすべて仙人となり隠者となってははなはだ迷惑だ。トルストイ伯はかるがゆえに半農主義を唱えた、すでに半農主義ある以上半商主義も可なり、半教師主義もよし。否、余裕があるなら全農も全商もよい。要は「人間の本領」を失わない事である。この決心のもとに虚栄と獣性と罪悪との渦巻く淵を彼岸に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリースの弔いの鐘に胸を砕かれてこの淵に躍り入った。フロレンスの門の永久に彼に向かって閉じられてよりはさらに荒き浮世の波に乗る。彼の魂は世の汚れたる群れより離れて天堂と地獄に行く。この不覊の魂を宿したる骸は憂き現うつし世の鬼の手に落ちた。


Yea, thou shalt learn how salt his food who bdres
Upon another's bread, ― how steep his path
Who treads up and down another's stairs.


とは烈しき迫害に逢うて霊が思わずもあげたる悲痛の叫びである。されどダンテはいかなる迫害にも堪えた。この「不覊なる想いと繋がれたる意志」との二様生活こそダンテの真髄である。ヴェロナにありて、森の奥深くさまよいては栄はえある天堂を思い、街を歩みては「あれこそ地獄より帰りし人よ」と指さされる。この悲境にあって詩人は深厳なる人世の批評をなしつつ断乎として悪を斥けた、黄金と虚栄とを怒罵の下に葬った。吾人はこの自信と信念とを渇仰する。
 吾人の生活にかくのごとき信念を与うる者は芸術である。芸術は吾人を瑣細なる世事より救いて無我の境に達せしめる。枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し世の煩いを離れたる時、人は初めてその本体に帰る。本体に帰りたる人は自己の心霊を見神を見、向上の奮闘に思い至る。かの芸術が真義愛荘の高き理想を対象として「人生」を表現するはこれがためである。吾人はこの真義愛荘を通じて「全き者」を見たい。「全能」なるある者に接したい。荘厳なる華厳の滝万仞の絶壁に立つ時、堂々たる大蓮華が空を突いて聳だつ絶頂に白雲の皚々がいがたるを望む時、吾人の胸はただ大なる手に圧せらるるを覚ゆ。これ吾人の心胸にひそむ「全き人格」の片影がその本体と共鳴するのである。しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審美の情なき者は自然の大景よりこの啓示を得ない。彼らには滝は珍であり山は奇たるにとどまる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵となるものは芸術である。芸術はかくして吾人の渇仰を充たすべきものである。
 宇宙の森羅万象の根底にひそむ悲哀を悟得し芸術にその糧を得て現世の渦中に身を置く。信念の下に働けば事業は尊い。かくして二十世紀の今日に確乎たる二様生活を行なわんがため、霊的本能主義は神により感得したる信念とその実行とをまっこうに振りかざし堂々として歩むものである。実行は霊的興奮により自然に表わるる肉体の活動である。吾人の渇仰する天才力ーライルは三階の屋根裏からはるかに樽の中の蛇を眺めながら星とともに超越していた。しかも彼には星とともに下界を輝てらす信念がある。「身に近き義務と信ぜらるるものをまずなし果たせ。第二義務は直ちに明らかならん。霊的解脱はここにあり。かくてすべての人が漠然として欲求し、茫然として不可達に苦しむ理想の境はたちまちにして汝の前に開かれん。汝のアメリカはここにあるのみ、他にあらざるなり。実に汝が今立てる地はすなわち理想の郷たるべき地なり。」という。このアメリカはワシントンが豚の焼き肉をうまそうに食った時代、リップ・ヴァン・ウィンクルが妻君に牛耳られて山に逃げ込んだ時代のアメリカである。この美しい理想郷を得るは「自覚」の下に立てばやすい事だと狂気のように力ーライルは説く。一生懸命のけんか腰で説く。霊的本能主義はここに出発点を得たのである。
 吾人は自らの人格を想い、自らの行為を省み慨嘆に堪えないものである。されどこの主義の下に奮闘するは辞するところでない。吾人の胸には親愛義荘の権化たる「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなし果たさん事を思う。かくて吾人は厳々乎として現実の社会を歩みたい。
 吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒てらい正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。
 吾人はこの例を一高校風に適用し得べしと思う。吾人の四綱領は武士道の真髄でありソシアリティの変態であろう。しかれどもこの美名の下に隠れたる「美ならざる」者ははたして存在せざるか。向陵の歴史は栄あるものであろう。しかれどもこの影に潜める悪習慣を見よ! 吾人はあえて一二の例を取る。そもそもかのストームは何であるか。かつて初めて向陵の人となり今村先生に醇々として飲酒の戒を聞いたその夜、紛々たる酒気と囂々たる騒擾とをもって眠りを驚かす一群を見て嫌悪の念に堪えなかった。ああ暴飲と狂跳! 人はこれを充実せる元気の発露と言う。吾人は最も下劣なる肉的執着の表現と呼ぶをはばからぬ。さらにまたかの卑猥なる言語を弄して横行する一群を見る時、吾人は一高校風の前途を危ぶまざるを得ない。校風の暗黒面にみなぎる悪思潮は門鑑制度、上草履制度の無視ではない、尊き心霊に対する肉的侮辱である。吾人は口に豪壮を語る輩が女々しく肉に降服せるを見て憐れまざるを得ない。吾人は社会に罪悪の絶えぬ以上校友の思想に欠点あるを怪しまぬ。ただ願わくばこの悪潮流が光栄ある四綱領を汚さざらん事を望むのである。(終)


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