福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

霊的本能主義(和辻哲郎)・・その3

2013-08-04 | 法話
現代の因襲的道徳と機械的教育は吾人の人格に型を強いるものである。「人」として何らの霊的自覚なく、命ぜらるるがままに右に向かい左に動く。かくて忠も孝も無意味なる身体の活動となる。徳の根底に横たわるべき源泉なくして善といい悪と呼ぶがゆえに反哺の孝と三枝の礼は人生の第一義だと言われる。烏と鳩とに比べらるるのは吾人の耻である。吾人は自覚ある「人」として孝たるを欲す。愛なき孝は冷たき虚礼に過ぎぬ。人格の共鳴なき信は水の面の字である。犠牲心なき忠は偽善である。
 現代の道徳は霊的根底を超越して偽善を奨励す。冷ややけき顔に自ら「理性の権化」と銘する人はこの偽善を社会に強い、この虚礼をもって人生を清くせんとす。人生は厳格である。人間の向上はまじめなる努力を要する。仮面に精髄を抜き去ったる肉骸を覆うてごまかさんとするは醜の極みである。血なき大理石の像にも崇高と艶美はある。冷たきながらも血ある「理性権化」先生は蝦蟇と不景気を争う。この道徳の上に立つ教育主義は無垢なる天人を偽善の牢獄に閉じこむ。人格の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を彩どる東天の色は病毒の汚濁である。
 日本民族が頭高くささぐる信条は命を毫毛の軽きに比して君の馬前に討ち死にする「忠君」である。武士道の第一条件、二千五百年の青史はあらゆるページにこの華麗なる波紋の跡を残す。君は絶対の権威を持ってその前には人間の平等なく思想の自由がない。肉体に黄金に狂的執着なす者も「君のため」にはこれを超越した。そこに義の人ができる。しかしながら因襲的道徳に鋳られし者が習慣性によって壕の埋め草となり蹄の塵となるのは豕が丸焼きにされて食卓に上るのと択ぶところがない。吾人はこの意味なき「忠君」に敬意を表したくない。同じく人としてこの世に実在するならば吾人の霊的出発点は一つである、神の前に同じ権威を有する精霊である。君主と高ぶり奴隷と卑しめらるるは習慣の覊絆に縛されて一つは薔薇の前に据えられ他は荊棘の中に棄てられたにほかならぬ、吾人相互の尊卑はただ内的生命の美醜に定まる。心霊の大なるものが英傑である。幾千万の心霊を清きに救いその霊の住み家たる肉体を汚れより導き出すために誠心の興奮は吾人の肉骸を犠牲に供す。「愛国心」はこの見地に立つ。「愛国心」は変体して忠君となった。
 忠君の血を灑そそぎ愛国の血を流したる旅順には凶変を象かたどる烏の群れが骸骨の山をめぐって飛ぶ。田吾作も八公も肉体の執着を離れて愛国の士になった。烏は績いさおを謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永とこしえに烏には知らさないでいたい。
 孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心して躍り上がったという。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいとて狂的に奮闘せる一青年は一念のために江知勝を超越しカフェーを超越す。菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮である。吾人は「愛」に重きを置く、公爵家の若君は母堂を自動車に載せて上野に散策し、山奥の炭焼きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の社会にはわからぬ。親の酒代のために節操を棄て霊を離るる女が孝子であるならば吾人はむしろ「孝」を呪う。
 八犬伝は「浜路が信乃のもとへ忍ぶ」個所などを除く時、トルストイの芸術観に適合する作物となるそうである。現代徳育の理想もまた八犬士の境地である。この理想はよい。よいには相違ないがこの理想によって「虚栄を根本より覆せ」と叫ぶものは過激だとお叱りを蒙る。「不徳の人間を社会より放逐せよ」と言うと僭越だとてお目玉を頂戴する。「すべての不正を打破して社会を原始の純粋に返せ」と叫ぶ者は狂人をもって目せらる。姑息なる思想! 安逸に耽る教育者! 見よ汝が造れる人の世は執着を虚栄の皮に包んだる偽善の塊に過ぎぬじゃないか。要するに現代の道徳は本義として「物質的超越と霊的執着とをもって自ら処決せよ」と求む。言い変うれば「利己」を脱して精神的自覚の上に立ち汝の義務をなし果たせというにある。しかるに外面に表われたる道徳は形式と因襲に伝えられてその精神を忘れ去った。
 現代にもたとえば「家庭」のごとく比較的清きものがある。あの大きなストーブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれて昔話に興をやる。夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい小説である。愛なく情なく血なく肉なくしてただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルジは過去現在未来の幽霊に引っ張り回されて一夜の間に昔の夢のようなホームの楽しさと冷酷なる今と身近く迫れる暗き死の領とを痛切に見せられた。翌朝はクリスマスである。スクルジはなんとなく愉快でたまらぬ。犬がころげてもおかしい、子供が通っても嬉しい。スクルジは黄金の執着を脱して perfect life of love and peacefulness(Dante)に一歩踏み入った。現代に清きはただ家庭である。暖かき円満なる家庭を有するものは人生に幾分の同情を有し悲哀の興趣を味わい自己を自覚せる人である。多くの富豪や華族は真に「家庭」と呼び得べき者を有せぬ。彼らは経済学の見地に立てば社会の宝玉である。精神的観察よりすれば社会の悪毒である。皮相なる形式的道徳は「金持ち」にとって最も破りやすい。金持ちはついに人道を踏みはずす。吾人は自覚ある平和な農夫の家庭のむしろ尊きを思う。
 かくのごとく一二の例外を除いて現代の道徳はすべて混沌、すべて闇濁、最も悲観すべき半面を有す。文明の発達に従いて肉の欲望はますます大となり、虚栄の渇仰はいよいよ強となる。吾人は浅薄なる皮相の下に真精神を発見したい。時代思潮に革命を起こし新時代の光明を彼岸に認めねばならぬ。「吾人は絶対に物質を超越し絶対に心霊に執着せざるべからず」。これを名づけて霊的本能主義と言う。(続)
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