原文
「第三の行人得益分に二有り。人・法是れなり。(だいさんのぎょうにんとくやくぶんにふたつたり。にん・ぽうこれなり。
初めの人に七有り、前の六、後の一なり。(はじめのにんにななつあり、まえのむつ、のちのいつなり。
乗の差別に随って、薩埵に異有るが故に。(じょうのしゃべつにしたがって、さったにいあるがゆえに。
また薩埵に四有り。愚・識・金・智、是れなり。(またさったによつあり、ぐ・しき・こん・ち、これなり。
次に、また法に四有り、謂く、因・行・証・入なり。(つぎに、またほうによつあり、いわく、いん・ぎょう・しょう・にゅうなり。
般若は、即ち能因能行、無礙離障は、即ち入涅槃、(はんにゃは、すなわちのういんのうぎょう、むげりしょうは、すなわちにゅうねはん、
能証の覚智は、即ち証果なり。(のうしょうのかくちは、すなわちしょうかなり。
文の如く思知せよ。(もんのごとくしちせよ。
頌に曰く、
じゅにいわく
行人の数は是れ七
ぎょうにんのかずはこれななつ
重二彼の法なり
じゅうにかのほうなり
圓寂と菩提と
えんじゃくとぼだいと
正依何事か乏しからん
しょうえなにごとかとぼしからん
訳・・心経を五章に分けたその三番目の「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。」のところは「行人得益分(修行者とその益)」といい、修行者と教えの内容(法)を説いている。
はじめに、修行者には七種ある。前に述べた華厳(建)・三論(絶)・法相(相)・声聞・縁覚(二)・天台(一)の六とこれから後にのべる一つ、真言乗の修行者の計七種である。
それは、教えの違いにしたがって、修行者(菩薩)も異なるからである。
また修行者(菩薩)には四種ある。愚童凡夫(愚童薩埵)、声聞・縁覚(有識薩埵)、法相・三論・真言(金剛薩埵)、天台・華厳の四家薩埵(智薩埵)、がそうである。
つぎに、教えの内容(法)に四種ある。さとりを求める原因(因)とさとりに向かう修行(行)、さとりのあかし(証)と悟りに入る(入)である。
その中で、「依般若波羅蜜多故」のところでいえば、般若は智慧そのものであるからさとりの「因」であり、しかも「依般若波羅蜜多故」という「行」でもある。
次の「心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃」のところは、般若の智慧をもとに般若を行じることにより、心に罣礙するところがなくなり、恐怖や迷いから離れて涅槃の境地に「入」ることができるとするものである。
「三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提」では、三世の諸仏が般若波羅蜜多によって悟りを得るとかいており、これが「證」にあたる。
詳しくは、『般若心経』の文章にしたがって、かんがえるべきである。
頌にいう。
修行者の数は、華厳(建)・三論(絶)・法相(相)・声聞・縁覚(二)・天台(一)・真言乗の計七種類ある。
この修行者の修すべき内容は、因・行・証・入の四種の法である。
この四法の中の円寂(涅槃)と菩提(智慧)すべては、
修行主体の身体・仏身とその拠り所としての国土・浄土いずれにもそなわっており、どこにも欠けたところがない。
(最後の国土と修行者は一体であるというところは私が以前から大変目からうろこの気持ちで読んでいるところです。維摩経にも「衆生清きがゆえに国土清し、という有名な句があり、これが地球を救う原理になると思うからです)
「第三の行人得益分に二有り。人・法是れなり。(だいさんのぎょうにんとくやくぶんにふたつたり。にん・ぽうこれなり。
初めの人に七有り、前の六、後の一なり。(はじめのにんにななつあり、まえのむつ、のちのいつなり。
乗の差別に随って、薩埵に異有るが故に。(じょうのしゃべつにしたがって、さったにいあるがゆえに。
また薩埵に四有り。愚・識・金・智、是れなり。(またさったによつあり、ぐ・しき・こん・ち、これなり。
次に、また法に四有り、謂く、因・行・証・入なり。(つぎに、またほうによつあり、いわく、いん・ぎょう・しょう・にゅうなり。
般若は、即ち能因能行、無礙離障は、即ち入涅槃、(はんにゃは、すなわちのういんのうぎょう、むげりしょうは、すなわちにゅうねはん、
能証の覚智は、即ち証果なり。(のうしょうのかくちは、すなわちしょうかなり。
文の如く思知せよ。(もんのごとくしちせよ。
頌に曰く、
じゅにいわく
行人の数は是れ七
ぎょうにんのかずはこれななつ
重二彼の法なり
じゅうにかのほうなり
圓寂と菩提と
えんじゃくとぼだいと
正依何事か乏しからん
しょうえなにごとかとぼしからん
訳・・心経を五章に分けたその三番目の「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。」のところは「行人得益分(修行者とその益)」といい、修行者と教えの内容(法)を説いている。
はじめに、修行者には七種ある。前に述べた華厳(建)・三論(絶)・法相(相)・声聞・縁覚(二)・天台(一)の六とこれから後にのべる一つ、真言乗の修行者の計七種である。
それは、教えの違いにしたがって、修行者(菩薩)も異なるからである。
また修行者(菩薩)には四種ある。愚童凡夫(愚童薩埵)、声聞・縁覚(有識薩埵)、法相・三論・真言(金剛薩埵)、天台・華厳の四家薩埵(智薩埵)、がそうである。
つぎに、教えの内容(法)に四種ある。さとりを求める原因(因)とさとりに向かう修行(行)、さとりのあかし(証)と悟りに入る(入)である。
その中で、「依般若波羅蜜多故」のところでいえば、般若は智慧そのものであるからさとりの「因」であり、しかも「依般若波羅蜜多故」という「行」でもある。
次の「心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃」のところは、般若の智慧をもとに般若を行じることにより、心に罣礙するところがなくなり、恐怖や迷いから離れて涅槃の境地に「入」ることができるとするものである。
「三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提」では、三世の諸仏が般若波羅蜜多によって悟りを得るとかいており、これが「證」にあたる。
詳しくは、『般若心経』の文章にしたがって、かんがえるべきである。
頌にいう。
修行者の数は、華厳(建)・三論(絶)・法相(相)・声聞・縁覚(二)・天台(一)・真言乗の計七種類ある。
この修行者の修すべき内容は、因・行・証・入の四種の法である。
この四法の中の円寂(涅槃)と菩提(智慧)すべては、
修行主体の身体・仏身とその拠り所としての国土・浄土いずれにもそなわっており、どこにも欠けたところがない。
(最後の国土と修行者は一体であるというところは私が以前から大変目からうろこの気持ちで読んでいるところです。維摩経にも「衆生清きがゆえに国土清し、という有名な句があり、これが地球を救う原理になると思うからです)