今日、2月14日は智泉大徳の誕生日であり同時に入滅された日です。智泉大徳は大師の甥で大師十大弟子のひとりです。延暦8年2月14日(789年3月15日)生まれで天長2年2月14日(825年3月25日)に入滅されています。同じ2月14日に生まれてなくなっているのです。入滅の時は、手を洗い、口を漱ぎ、塔印を結び、五字明を誦され、五彩の息をはきつつ寂せられた、といいます(真言宗大徳伝)。「智泉大 徳一千百年忌に就て、(高尾隆心)」によると「大徳は延 暦八年二月十四日誕生。翌九年二月十五日に至て忽然として言を発し父に向て謂て日く「阿爺知ら すや 、今日は是れ佛涅槃の日なり。須く倶に誓て來果を樂ふべし。我れも亦 出家 して衆生を利濟すべし。」とおしゃったということですから強い仏縁があったとおもわれます。大師の入唐に随い、帰朝後は先の「智泉大 徳一千百年忌に就て、(高尾隆心)」によると「大 同 の末 河 内國 高 貴 寺 に佳す 。 干時 橘皇 后嘉 智 子 の方 密 か に皇 子 を得 んこと を 祈 り、 是 れ を大徳 に依託 せら れ、山 城 國 相樂 郡 に於 て 一宇 を創 立 し 、報 恩寺 と號 し 、之 れ に大徳を住 せし め祈 念 を請 ふ。 然 るに 一日 物品 飄 忽 とし て虚 室 より墜 ち 來 る . 之 れを 視 る に 一軸の法華曼荼 羅 なり。 大徳 怪 み て之 れ を高雄 山 の大師 に奉 問 せら る。 大師 教答 せら れ て 日く 「斯 の輕 は 是 れ普 賢菩 薩 の所 護 な り。須 く靈 木 を用 て其 像 を造 り以 て 之 れを 所 ら は必 ず靈 験 あ る べし 。 」依 て大 徳其靈 材 を得 んが 爲 め日 夜繋念 す 。時 に夢 に人 あ り、 謂 て日く 。 「是 れよ り南 三 里 許り に古樹 あり。微 風時 々扇 て異 香 恒 に薫 し幹 條交 加 して瑞 光照 耀す 。 汝 往 て之 れを探 れ と告 く。覺 め了 て早曉 之れを南方 に尋 ぬ。果 して 一木 に値 ふ。 不 思議 な るかな 、夢 中 に見 るが如 く 、即 ち伐 て之 れを 折 るに材 理條然 と して天然 に寳威 徳 上 王佛 の六 字を 成 す。 大 徳 大 に驚 喜 す。 恰 も好 し、佛 工椿 井 の隻 法眼 な る者來 り會す 。 切 に助 刻 を乞 ふ。 許 し て共 に彫 刻す 。 不日 にし て成 効威儀 眞 佛 の如 し。 大徳點 眼供 養 し日 々丹 誠を盡 して祈祷 す 。其 靈験 室 しから す 、弘 仁 元年 呈子果 し て降誕 し玉 ふ、仁 明 帝 是 れな り。
爾 來社 會 の尊崇 益厚 、世 の人皆 神 僧 と稱 す 。威 徳 の 一般 是 れを 以 て知 る べきな り。」とあります。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(当時は夫人)が大徳の祈願により無事皇子誕生(後の仁明天皇)となったので時の人は大徳を神僧とあがめたということです。
私が行をした真別所も智泉大徳の開基で、また高野山伽藍の東塔より東へ少し行くと智泉廟があります。大徳の崩御に際して大師はことのほか嘆かれ「亡弟子智泉が為の達嚫文」を『性霊集』巻八にのこされています。「金 剛 子智泉 は俗家 には我 れを舅 と謂 ひ、道 に入 ては卸 ち長子 な り。 孝心 吾 れ に事 るこ と今 に二紀 な り。恭 敬 して法 を稟 け、両 部遺 す こ と無 し。 (中畧 ) 影 の如 く に随 て離 れす 、股肱 の如 く相 從 ひ、吾 れ飢 れは汝 も 亦飢 え、吾 れ樂 めは汝 共 に樂 む。 ( 中 畧 ) 豊 に圖 んや棺榔 を吾 が車に請 ふとは。 右働 を吾 が懐 に感 せし めんとは 。 哀哉 哀哉 、哀 中 の哀 、悲 哉悲 哉 、悲 中 の悲 ( 中畧 )然
とも猶夢 夜 の別 れ不畳 の涙 に忍 びざ ら んや と」。
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