福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日2月25日は天神様の日です。

2024-02-25 | 法話

今日2月25日は天神様の日です。
1、道真公は延喜3年(903年)2月25日に59歳で大宰府で薨去されました。その後道真公を讃えるべく多くの神社ができています。日本三大天神は防府天満宮・太宰府天満宮・北野天満宮。また江戸市中で道真公を祭る25社は「江戸二十五天神(亀戸天神 、深川天神 、楓川天神、飯倉天神、茅野天神、花城天神、福吉天神、平河天神 、中坂天神、牛天神、櫻木天神、湯島天神、下谷天神、渡江天神、化用天神、富坂天神、子安天神、大橋天神、高田天神、西向天神、谷保天神)。このうち「湯島天神」「亀戸天神社」「谷保天満宮」を関東三天神と称されることが多いといいます。
2、 (ご本地)天満大自在天神、日本太政威徳天と称されることがありますが、自在天や大威徳明王と、それぞれ習合したとされます。本地は十一面観音菩薩、不動明王、金輪、薬師如来、愛染明王、慈恵大師、阿弥陀如来、毘沙門天、大聖歓喜天、大弁才天神とされ、別当寺ではそれぞれのご本尊をお祀りしています。たとえば湯島天神の別当寺心城院は元禄7年湯島天神別当職の天台宗喜見院第3世宥海大僧都が、大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため、宝珠弁財天堂として開基したとされます。
3、 (霊験)塙保己一は34才で『群書類従』の出版を決心した時、北野天満宮に『般若心経』100巻を千日間あげて完成を祈願しました。そして41年かけて見事、文政2年(1819)74才で『群書類従』全670冊を刊行しています。
4、また新渡戸稲造も湯島天神に祈願していました。
文京区作成の旧湯島三組町の町名紹介掲示板には「新渡戸は、数えの9歳で叔父の養子となり上京、翌年旧南部藩の脇慣義塾(三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水垢離をとった。けなげな稲造を見て神官が声を掛け、説教会に呼んだ。『自分自身が光明で自分の信ずる道を進め』という教えは、一生の指針となった。」とあります。ルーズベルトにも影響を与え日露戦争を有利に運び日本を守った「武士道」はこのとき以来の湯島天神のお導きで書かれたのかもしれません。この掲示板の記述の典拠は新渡戸の自伝「幼き日の思い出」だろうと思います。そこには「・・1873年から74年にかけての冬、たまたま次兄道郎が病気ばかりしていた・・私は兄の病気が癒えるまで毎朝6時に社の井戸で斎戒沐浴を行おうと自分に誓った。・・ところが数日してたまたま一人の神官が朝の散歩で井戸の方へふらふらとやってきた、・・私は感情に動かされやすかったが決して狂信的ではなかった。また私の家では宗教的な儀式は殆どおこなわれなかった・・父は懐疑論者で母の信仰といえばご先祖を祀ることにあったと思う。いかにも残念なことである。・・・くだんの神官は‥神社で講じられていた説教に私を招いてくれた。あの精神的に不毛の時代に、これは緑のオアシスであった。人間は誰しも皆自分自身の光であって、またそうあらしめる能力もあるのだ、という講義に私は特に啓発された。さらにもい自分自身光を辱めぬように暮らせば何事も自在にできる(という教えであった)。・・」とありました。
この湯島天神における講義の影響は「武士道」のなかに「・・・人の心の本来善にして神の如くなる清浄なるを信じ神託の宣べらるべき至誠所としてこれを崇め貴ぶ・・」とあるところなどに出ているようです。いずれにしろ湯島天神様の導きで「武士道」も書かれたとしか思えません。

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