福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第四章

2013-11-04 | 諸経
外見と中身を、別に見ているときは、
中身は云うまでもなく、外見も見えていない。
外見が見えるから、本質が見えないのではない。
外見をみとめるから、本質を認められるのである。

外見と中身を、別のものに見ているときは、
外に見えているものを、内に見とめていない。
本来、合理でないものは、何ひとつないのだが、
合理をみとめようとすると、合理に見えなくなる。

外見と中身が、別のものに見ているときも、
実際の所は、現実の表裏に過ぎないのである。
不合理と合理が、同時に存在している不合理は、
不合理を外にみとめて、合理を内にみとめている。

外見が生まれるから、中身が埋まれている。
内に認めるものは、外に見えるものではなく、
外にみとめるものは、内に見えるものではない。
それでいながら、外見と中身は別のものではない。

中身のないものが、外見になることはない。
外に生れるからには、内に埋れるものがある。
即ち、外が変わるのは、内が現れるからであり、
無かったものが、偶然に、生じている訳ではない。

原因が埋まれるから、結果が生まれてくる。
結果が埋まれていくと、原因が生まれてくる。
すなわち、原因と結果は、全く同じ物ではない。
それでいて、原因と結果は、全く違う物ではない。

色蘊、物の存在についての考察は、以上である。
受蘊、想蘊、行蘊、識蘊についても、同様である。

ところで、空を用いて、論破をする人がいる。
空とは、すべてに実体がない、ということだが、
それを言ったら、何も論破できていないのである。

さらには、空を用いて、反論をする人がいる。
空とは、すべてに実体がない、ということだが、
組み立てられた論には、打ち壊す論が必要である。


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