今週の通勤用図書はユニクロ(ファースト・リテイリング)の柳井会長の「一勝九敗」
どうせ成功者の自慢話だろうと思って関心の外においていたが、知人が結構面白いというので、厚さや文字数も通勤向けでもあり読んでみた。
一言で言えば「常に考えつづける事」の大事さを説いている。
ライターを使っているらしく、切り口上の表現や自慢口調などもあるが、結局それを徹底させる事が大事だ、ということはよくわかる。
知らなかったのは、柳井氏は「柳井商店」という洋品店を父親から引き継いだというので「商店街の個人営業の小さな洋品店」をイメージしていたが、父親は土建業で地元の自民党後援会長という名士で、洋品店も従業員の何人かいるそこそこの規模だったらしい。
「ゼロからの起業」ではなくちょっとしたジャンプ台はあったわけだ。
柳井会長は会社の規模に応じて自分より優秀な人間に経営者として来てもらう、ということを言っているし、実際にそうして会長という立場になった。
ただ、あくまでもファースト・リテイリングは柳井氏にとっては「自分の会社」だが、専門職としての経営者がどこまで「自分の会社」として昼夜を分かたず自分のこととして考え続けられるかというのは難しいところだと思う。
そこは会社と一蓮托生という「覚悟」であり、「愛情」の世界かもしれない。
ただオーナー経営者から雇われ経営者に切り替わったときにはそこが問題になるんじゃないか。
オーナー会長がいる会社では、社長といえどもいつクビになるかわからないので、腰が据わらない、という部分もあると思う(この辺になると信頼関係の問題)。
当時の沢田副社長が社長就任を打診されたときに、自分の会社を起業したいといって退職したのは、(人間関係のもつれ等がないとしたら)やはり真に愛着をもてるのは「自分の会社」だという意識があったのではないか。
それにくらべて既存の大企業の経営者は「オーナー」でない割りにオーナー感覚だったり、プロの経営者としても地位には愛着を持つが、覚悟が足りない人が多いように思える。
最近「企業防衛セミナー」という名の「現経営陣防衛セミナー」花盛りなのが何りの証拠
そんなことのまえにやるべきことがある、というのは以前書いた
野口悠紀雄氏のいう「1940年体制」論によれば、現在の大企業のしくみができた1940年の国家総動員体制以来、資本の論理と経営の論理はずっと一致していて、つまりコーポレート・ガバナンス自体が必要ないまま、株主資本は持ち合いとメインバンク制による銀行・企業への集約で、経営陣の安定が保証され、各企業で経営者は「生え抜き」の内部昇格者が就任してきた。
なので、今の大企業の(年配の)経営者は「俺の会社」という意識が根底にあるのも仕方ないかもしれない。
ただ、自分は大株主ではないから、株価や配当の増減の本人への影響は少ない。あくまでも雇われの身なので、地位を退いたら会社がその後繁栄してもメリットを受けない。
極端な話、業績より自分の地位の安定をはかる方にインセンティブがあることになる。
そこでコーポレート・ガバナンスが効かないと、経営者の独善を許す事になる。
では、アメリカのように高年俸で転職マーケットが充実している世界なら、経営者は必死にパフォーマンスをあげようとするかもしれない、それでもエンロンのように今度は粉飾決算や取締役を懐柔するのに精力を費やす連中も出てくる。
そう考えるとベンチャーから大企業になる、大企業が経営者が代替わりしながら継続的に発展するというのはなかなか難しい。
だからこそ、コーポレート・ガバナンス論がにぎやかな所以なのだろうが、
アメリカ流が必ずしもいいとはいえない。
日本流もデメリットが目立つようになってきた。
大株主が目を光らせる、といっても、持ち合いに走ったり逆にM&A合戦の結果少数株主を不当に犠牲にしかねない
というところで、なかなか決め手がないのだろう。
今回のライブドアvsフジテレビ問題は、コーポレートガバナンスについて考える一つのいい機会だろう。
どうせ成功者の自慢話だろうと思って関心の外においていたが、知人が結構面白いというので、厚さや文字数も通勤向けでもあり読んでみた。
一言で言えば「常に考えつづける事」の大事さを説いている。
ライターを使っているらしく、切り口上の表現や自慢口調などもあるが、結局それを徹底させる事が大事だ、ということはよくわかる。
知らなかったのは、柳井氏は「柳井商店」という洋品店を父親から引き継いだというので「商店街の個人営業の小さな洋品店」をイメージしていたが、父親は土建業で地元の自民党後援会長という名士で、洋品店も従業員の何人かいるそこそこの規模だったらしい。
「ゼロからの起業」ではなくちょっとしたジャンプ台はあったわけだ。
柳井会長は会社の規模に応じて自分より優秀な人間に経営者として来てもらう、ということを言っているし、実際にそうして会長という立場になった。
ただ、あくまでもファースト・リテイリングは柳井氏にとっては「自分の会社」だが、専門職としての経営者がどこまで「自分の会社」として昼夜を分かたず自分のこととして考え続けられるかというのは難しいところだと思う。
そこは会社と一蓮托生という「覚悟」であり、「愛情」の世界かもしれない。
ただオーナー経営者から雇われ経営者に切り替わったときにはそこが問題になるんじゃないか。
オーナー会長がいる会社では、社長といえどもいつクビになるかわからないので、腰が据わらない、という部分もあると思う(この辺になると信頼関係の問題)。
当時の沢田副社長が社長就任を打診されたときに、自分の会社を起業したいといって退職したのは、(人間関係のもつれ等がないとしたら)やはり真に愛着をもてるのは「自分の会社」だという意識があったのではないか。
それにくらべて既存の大企業の経営者は「オーナー」でない割りにオーナー感覚だったり、プロの経営者としても地位には愛着を持つが、覚悟が足りない人が多いように思える。
最近「企業防衛セミナー」という名の「現経営陣防衛セミナー」花盛りなのが何りの証拠
そんなことのまえにやるべきことがある、というのは以前書いた
野口悠紀雄氏のいう「1940年体制」論によれば、現在の大企業のしくみができた1940年の国家総動員体制以来、資本の論理と経営の論理はずっと一致していて、つまりコーポレート・ガバナンス自体が必要ないまま、株主資本は持ち合いとメインバンク制による銀行・企業への集約で、経営陣の安定が保証され、各企業で経営者は「生え抜き」の内部昇格者が就任してきた。
なので、今の大企業の(年配の)経営者は「俺の会社」という意識が根底にあるのも仕方ないかもしれない。
ただ、自分は大株主ではないから、株価や配当の増減の本人への影響は少ない。あくまでも雇われの身なので、地位を退いたら会社がその後繁栄してもメリットを受けない。
極端な話、業績より自分の地位の安定をはかる方にインセンティブがあることになる。
そこでコーポレート・ガバナンスが効かないと、経営者の独善を許す事になる。
では、アメリカのように高年俸で転職マーケットが充実している世界なら、経営者は必死にパフォーマンスをあげようとするかもしれない、それでもエンロンのように今度は粉飾決算や取締役を懐柔するのに精力を費やす連中も出てくる。
そう考えるとベンチャーから大企業になる、大企業が経営者が代替わりしながら継続的に発展するというのはなかなか難しい。
だからこそ、コーポレート・ガバナンス論がにぎやかな所以なのだろうが、
アメリカ流が必ずしもいいとはいえない。
日本流もデメリットが目立つようになってきた。
大株主が目を光らせる、といっても、持ち合いに走ったり逆にM&A合戦の結果少数株主を不当に犠牲にしかねない
というところで、なかなか決め手がないのだろう。
今回のライブドアvsフジテレビ問題は、コーポレートガバナンスについて考える一つのいい機会だろう。
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