一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

鳥居

2007-10-10 | よしなしごと

歩いていたら珍しくこんなものを見かけました。

昔(僕の子供の頃)は鳥居のマークだけで「立小便禁止」の記号として(かろうじて)機能していたのですが、最近はほとんど見かけなくなりました。
(ご存じない若い方はWikipediaの解説をご参照ください)


一方でこんなニュースもありました。

「鳥居で首つりやめて」映画に抗議 神社関係者「冒涜」
(2007年10月07日08時00分 朝日新聞)  

全国約8万の神社でつくる神社本庁も、ソニーなど製作委に「誰もが安心して気持ちよくご覧になれる映画の方がよろしいのではないか」と申し入れた。同庁は朝日新聞の取材に「表現の自由も大事だが、関係者がどう受け取るかも考える必要があるのではないか」と話した。  

製作委は関係者に「不快感を与えたことは申し訳ない」と謝罪、広く一般の人が見る機会のある予告編、ポスター、チラシは作り直した。  

これをみて考えたのが「関係者がどう受け取るかも考える必要がある」という「関係者」という集団として認識されるかどうかにひとつのポイントがあるのではないかということ。  

映画や文章で何かを(冒涜まではいかなくても)無価値なもの、マイナスイメージがあるものとして表現したり戯画化するということはよくあります。 
その作品の中に個人的に受け入れがたく感じる部分が多いとその作品は人気が出ません。
これはマーケティングの問題です。 
一方、特定の部分への言及・表現について受け入れがたく感じる、逆に言えば特定の価値観を守りたいという人々が集団(上で言う「関係者」)としてまとまると、社会問題になります。
それが特定の人々の宗教的価値感に触れる場合は宗教問題になるわけです。 

このように、集団としてまとまって異議を述べるということは、ある価値観を守るということを表明すること、つまり守られるべき客体としての価値を社会に対して明示することを意味します。 
逆に言えば、そのようにして社会的な意味を持つことになった客体としての価値観は、表現において批評や暗喩や戯画化の対象になりやすくなる、というわけです。

何をぐるぐる言っているかというと、ある集団としてクレームを申し入れること自体の中に、自らの守るべき価値観が他の価値観と衝突する可能性についての認識が内在しているはず(べき)ではないか、ということです。 
つまり宗教という存在自体他の集団との対立を前提としているわけで、その中で仲良くやっていくというのが知恵であり倫理ということなのでしょうか。 

なので、上の「文句を言う人」と「不愉快と感じたなら謝る、と謝罪する人」との間のやり取りは健全なことなのだと思います。  
これが排斥運動とか「どこが悪い」という開き直りになると、「原理主義的対立」「不寛容」になってしまうわけです。 


ただ、実はもっと怖いのは、「世論」というような獏とした形(マーケティングの世界の力)で、ある表現なり主張を排斥するやりかたです。 

それは反論しようにもその対象がない攻撃、「鳥居」の世界でなく「こっ○りさん」の世界ですので・・・

コメント (2)
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