『金融システムを考える』の貸金業の上限金利問題に関してこういう記述があります。
・・・日栄・商工ローン問題のころ、銀行経営者からは、しばしば、「(当時の法上限金利である)40%の金利をとってちゃんとワークしているなら、5%以下で貸すわれわれの世界との感に、ミドルリスク・無ドルリターンのマーケットがあるはずだ」といった声が聞かれました。その後、実際にそういう貸付を指向したり、ミドルリスクを標榜して新たに銀行を施設立する人もいますが、あまりうまくいっているとは聞きません。
その理由はおそらく、マーケットとは、すでに「ある」のを発見するものではなく、「つくる」ものだという認識が足りないためではないかという気がします。社会問題となった商工ローンのマーケットは、腎臓売れという取立てにより、あるいはあらかじめ保証人からの改修を前提とすることにより、あるいは強制執行メカニズムを組織的に組み込むことにより、あるいは金融行政の元責任者を顧問に招いて社会的体裁を整えることにより、ワークするように「つくった」のであって「あった」のではありません。
そして「新たに設立された銀行」のひとつが「あまりうまくいっていない」どころか「かなりまずい」ことが明らかになりました。
新銀行東京 融資後破綻2300社 焦げ付き総額285億円
(2008年3月8日(土)08:47 産経新聞)
新銀行は、民事再生法適用申請など法的整理をした企業が約600社、回収不能額が約86億円に上ることをすでに公表している。しかし、法的整理に加え、手形が不渡りになった企業も多数あり、破綻企業は計約2300社に上ることが分かった。
設立当初から、旧経営陣が原則5000万円の上限いっぱいの融資を奨励。焦げ付きを不問にしていたほか、「半年つぶれない会社だったらどんどん貸せ」と指示していた。 このため、融資先の訪問調査や資金確認をしないずさんな融資が常態化。破綻した企業のうち、融資の申し込み段階で、決算書の粉飾が疑われるものが相当数あったという。
たしか、新銀行東京は「貸し渋り」のなか中小企業への融資を目的に設立されたと思います。
したがって貸し倒れリスクはそこそこ高く、適正な審査と貸出金利(利ざやの確保)がないと銀行としては成り立たないというのは最初から承知だったはずです。
しかし、新聞記事を見ると、審査はかなりずさんだったようです。
(銀行に限らず「至上命題」があると意思決定がゆがむ典型のようですね。)
現在東京都が増資に応じるか、の議論においては経営責任や石原都知事の責任が議論になっていますが、ちょっと焦点がずれているように思います。
政治責任は別の場でぎろんするとして、増資に応じるか否かの判断においては
増資に応じることが税金の使途として採算に合うか
またはすくなくとも
増資した結果銀行経営が回復する可能性があるか
を見極める必要があるはずです。
そのためには既に判明しているずさんな審査が改善できるか(今のインフラや人員に能力があるか、ないとしたらそこを補強する実現可能な計画と予算が再建計画に織り込まれているか)に加え
貸付金利はそれぞれの融資先の貸し倒れリスクに見合っているか
についても検証すべきだと思います。
たとえば貸付金利にあまり差がない場合は、優良貸付先からの利ざやで信用力の劣る貸付先の信用リスクを補っているという構造になります。
(これが従来の都銀の構造で、優良先の大手企業が社債の調達への切り替えなどで貸付金利の引き下げにプレッシャーをかけたことも貸し渋りの一因だったわけです。)
しかし新銀行東京はそもそも「大手優良貸付先」がほとんどないでしょうから、信用力の劣る中小企業貸付で適正な利ざやが確保できない限り、ビジネスとして成立しないはずです。
したがって、審査が適正だったと仮定(上の記事のようにあきらかな不良先を除いて)したうえで、さらに貸付金利が適正だったかを検証する必要があります。
そして、より大きな利ざやが必要なのであれば、今度はさらに、
その金利で将来銀行経営を維持できるに足る規模の融資が実行できるか
を検証する必要があります。
商工ローンのような回収メカニズムを導入するわけにはいかない以上、このように、審査が適正で、貸出金利も適正にする前提で、そもそも銀行として成り立つレベルの貸出規模を維持できるかを議論すべきではないでしょうか。
そうでなければ この時点で破たん処理するのが経済合理性にかなうのではないでしょうか。
預金者保護も預金保険の範囲はカバーできますし、「昔から信用して預けていた」と言うような人がいないはずなので、それ以上の保護をすべき特別の事情もないでしょう。
石原都知事が辞任すれば(多分しないでしょうけど)増資に応じる、というような意思決定は相当おかしいように思います。