一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

労働時間を管理しないと・・・

2007-02-14 | よしなしごと
ホワイトカラー・エグゼンプションの導入は今回見送りとなりましたが、一方で時間外勤務料を支払わない管理職や裁量労働時間制の対象者についても、過労死防止などの観点から勤務時間の管理をしている企業が多いようです。

勤務時間の把握方法は各社各様で、申告によるもの、入退館時間をベースにするものなどいろいろあるようです。
PCの端末へのログオンの記録を利用しているところもあり、外出や出張だと勤務していないことになったりするとか。
まあ、残業代の対象ではないので比較的大雑把でもいいんでしょうね。


でも「時間を管理しないと働きすぎてしまう」という前提での勤務時間の把握ってなんか違うような感じがします。

よほどものすごい業績給ならともかく(そうなると今度は日興コーディアルのように数字をごまかす方に走ったりしてw)、目標管理制度の目標設定や成果主義の成果の測定方法にゆがみがあったり強迫観念のようにプレッシャーになるから「働きすぎ」になるのでしょうか。
(純粋に仕事が好き、という人はたぶん過労死はしないでしょうから)

でも一方で、ホワイトカラー・エグゼンプションのひとつの論拠にもなっているように、残業代が無制限に出ると生活のためにだらだら居残る人が出るとか、効率のいい人のほうが手取りが低いという妙なことも起きたりします(これも労務管理・人事考課や人事制度の設計の問題が大きいのかもしれませんが)。


いずれにしろ労働時間をめぐっては、どこかに構造的な不健全さがあるように思います。
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Elio Locanda

2007-02-13 | 飲んだり食べたり
今日は半蔵門のElio Locandaで会食。

人気店でなかなか予約が取れなかったので(ってまあ、当日に電話するほうもいけないけど)、今回が初見参。地元では有名店らしいです。

日本人に媚びないしっかりしたイタリア料理をきちんと食べさせてくれる店です。
しっかりした料理に負けないワインの品揃え(価格もリーズナブル)とあいまって、楽しく過ごすことができました。

席はフロアに詰め過ぎの感はありますが、サービス(最盛期はちょと人手不足ですが)の印象もよく楽しめました。



今日は酔っ払ってるので、ここでおしまい。
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『鉄子の旅』

2007-02-12 | 乱読日記
私は実は元鉄道少年でした。

小学生の頃は毎月時刻表を買って、週末には東京近郊の路線に乗りに行ったり、夏休みには秋田に行くのに現役のSLを見に羽越本線経由の旅程を組んだりしていました。
しかし中学以降はマニア度は亢進せず、一人前の「鉄ちゃん」に成長するまでにはいたりませんでした。

ただ時折三つ子の魂が顔を出し、自分の苗字のついた駅を訪ねて全線各駅停車で九州まで行ったり(高校の頃の話ですが、当時は東京から大垣行きの夜行に乗って、乗り継いでいくと翌々日の朝に長崎につきました)、高松に行くとなると迷わず「サンライズ瀬戸」を選んだり(このときです。写真も撮ったりしたのですがこの当時は鉄ちゃんネタは避けていたようですねw)しています。

で以前から気になっていたのが『鉄子の旅』というマンガ








鉄道マニアのライターと一緒に旅をするという仕事をもらった漫画家の女性が、ライターのマニア度に驚きながらの道中を描いたものです。

昨日たまたまコンビニで見かけてぱらぱらめくったところ、最初からツボにはまって思わず買ってしまいました。

その第一話の舞台は久留里線。千葉県の木更津から房総半島の奥まで行って行き止まりになってしまうというマニアックな路線です。


前置きが長くなりますが、遡ること数年前、まだ日本の景気回復も定かでなかった頃の話です。この当時は一攫千金風の怪しい話が時折飛び交っておりました。
ちょうど芸能人などを信者に抱えるといわれる新興宗教の真如苑が閉鎖を発表した日産村山工場の跡地を買うという話があったころです(これは実現したようですが)。
私のところにも似たような話が来ました--某大手会社のグラウンドに某有名寺社が別院を建てたいのでつないでくれないか。
不思議とこういう話はけっこうちゃんとした会社の役員などを何人か経て来る(またはそのように称される)もので、たぶんそういう方々は話を断らずに誰かに対応を任せるので「友達の輪」経由で話が伝わり、「怪しい話だけど断りにくい」という状況ができてしまうのではないかと思います。
さて、成り行き上私のところでとどめを刺さなければいけなくなり、調査会社で調べたところ、他所にも話を持ち込んでいるようで直近のレポートがありました。
それによると、総本山は現在千葉県の亀山湖の近くにあると称しているが、現況は看板のついたバラックしかなく、寺社予定地と称する土地のも他人の所有だそうです。
また、別ルートで等の寺社関係者にも「別院」の代表と称する僧侶の事情などを(「大本山」と「総本山」と「本山」の関係というのもそのとき初めて知りました)あたっても、やはりまともな話ではなさそうでした。

これで一件落着にしてしまえばいいのですが、ちょっとひっかかったのが「亀山湖」。最寄り駅は久留里線の終点「上総亀山」ではないですか。
これを逃すと久留里線など一生乗る機会はありません。
折りしも春先。「一応現地を確認しないと」という名目で、天気のいい日を見計らって久留里線ツアーに行ってまいりました。

そんな記憶を掘り起こされたら、買わないわけにはいきますまい。


さて、本書の旅の企画をする鉄道マニア氏はJR全駅乗下車という記録を持つ人で、今回も各駅で下車することにします。しかし久留里線は1時間に1本しかないので、効率よく回るために「2つ先の駅まで行って、上り電車でひとつ手前の駅まで折り返す」という技を駆使します。


これもまたツボ・・・


これはもう20年近く前の話です。
スペインを旅行したとき、バルセロナの郊外にガウディの初期の作品であるコロニア・グエル教会を見に行ったときの話です。

鉄道を利用して行ったのですが、列車はここでも一時間に1本程度しか通っていませんでした。しかも帰りに駅に着くと、前の列車は出てしまった直後です。
仕方がないのでのんびり時間をつぶすか、と思って時刻表を見ると、駅に止まる列車の間に通過する急行が通っているようです。しかも急行停車駅はバルセロナと反対側の次の駅です。
そこでよく調べると、10分後に来る下り列車に乗って次の駅で10分の待ち合わせで折り返しの急行に乗ってバルセロナに帰ることができます。
意気揚々と次の下り列車に乗りました。
切符は列車に乗ってから車掌から買う仕組みだったので、車掌に「バルセロナ」というと、身振り手振り(なにしろこちらはスペイン語はわからず車掌は英語がわからない)で「お前は反対方向に乗っている」と言います(そのとおりなんですがw)。これに対して私はこれも身振り手振りで、「それは承知で、次の駅で折り返してバルセロナに戻るつもりだ」とやるのですが、どうしても通じません。
結局間違った結果か意図してかという違いはあるものの「次の駅で降りてバルセロナに戻る」ということでは共通認識に達したので、車掌は彼の理解なりに「間違ったんだから切符は切らないから上り列車で買え」と身振り手振りで伝えて去っていきました。
このように車掌はなかなかいい人だったのですが「反対方向に乗って折り返す」ということをやるスペイン人はいないんだなぁと自分の中の日本人的発想(今思えば鉄っちゃん的発想)の特殊性を認識したものです。

(ヨーロッパには日本のような鉄道マニアっていないんですかね。友人にも、TGVに乗りたいがためにパリで「リヨンまで日帰りの往復」乗車券を買おうとして、窓口の係員(英語が話せる)に何で当日に行って現地に1時間もいずに戻ってくるのだか理解されずに困ったことがあるそうです。)



まあ、そんなこんなで、昔の知識やら思い出やら発想やら、いろんなことを思い起こさせてくれる、ある意味ちょっと危険な本ではありますw
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「慣れ」の力

2007-02-11 | よしなしごと
先週末、液晶テレビの開発をしている友人と飲んだのですが、彼以外はいまだに25インチくらいのブラウン管テレビを使っていました。
けっこう新らし物好きの面々なんですが、地上波デジタルが出るまでは買い控えをしよう、それに液晶ももう少し待てば安くなるんじゃないかと僕だけでなく皆思っていたようで。

そもそも46インチとかは狭い部屋で置き場がないし、朝一番でみのもんたの大写しなど見たくもないし、といったところ、彼は60数インチの試作品を自宅で使っているんだけど慣れれば全然違和感がないと言いました。
そして、最近20インチくらいのTVは小さく感じてしまうとか。


慣れっておそろしいですね。
逆に大画面を買ってもそのうち今のテレビと同じ程度の感動しかしなくなっちゃうとも言えますし・・・

あ、そうだ。彼に携帯でワンセグのテレビを見た感想を聞いてみるんだった。


PS(酔っ払ってて正確ではないかも知れません)
「ハイビジョン対応」といっても信号側が従来型なら解像度は変わらない(DVDも今のSD規格なら同じ)ので、NHKのハイビジョン放送かソニーのブルーレイなど最近出だした「HD規格」でないと違いが出ないらしいです。

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MP指数

2007-02-10 | よしなしごと

「居住人口当たり暴力団員数」という指標があるのを聞いて、私が勝手に"Mob-Population Ratio"と名づけたものです。


平成18年末のMP指数は以下のとおりだそうです

全国
人口:1億2770万人 暴力団員数:84,700人 MP指数:1/1500
東京都
人口:1,250万人   暴力団員数:16,650人 MP指数:1/750
港区
人口:185,700人   暴力団員数:960人   MP指数:1/193

東京の暴力団密度は全国の倍、さらに港区はそもそも人口が少ないこともあってか、住民200人に一人以上が暴力団員ということになります。

地下鉄車両1両の定員が140名ですので、朝夕の満員電車1両に1人以上は暴力団員がいる勘定になります(暴力団員は満員電車には乗らないかw)
別のたとえでは、六本木ヒルズの映画館の一番大きなスクリーン(定員644名)が満員の場合、その中に3人以上がいる勘定です。

また、東京都のMP指数のイメージですが、東京ドームが満員(45,600人)になると、60人が暴力団員ということになります。
プロ野球のベンチ入り選手が各25名ですから、選手・監督・コーチの人数合計とほぼ一緒になりますね。「大都会での衆人看視のもとの暴力団抗争事件」のイメージというのはこんな感じになるわけです。


元のソースを調べていないのですが、新宿区や渋谷区・豊島区、大阪市などと比較してみるのも興味深いかもしれません。


ところでこんなニュースがありました
住吉会と山口組が和解 都内の連続発砲事件
(2007年2月8日(木)22:40 朝日新聞) 

東京都心で指定暴力団住吉会小林会系幹部(43)が殺害され、山口組系組事務所など3カ所に報復とみられる銃撃があった一連の発砲事件で、住吉会と山口組が8日に和解したことが、警視庁の調べでわかった。同庁は事態が収束に向かうとの見方を強めながらも、引き続き警戒を続ける。  
同庁によると、同日午後、住吉会と山口組双方から「和解した」と同庁に電話で連絡があったという。

一説によると山口組は本部に捜査の手が及ぶのをいやがって、国粋会の独走という画を描いて手打ちをした格好にしただけで、火種はまだまだくすぶっているということです。
確かに電話でわざわざ連絡してくるというのが怪しいですよね。


都心で生活する人は引き続き注意が必要なようです。



※ さらに後日談はこちら参照

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自信のない信号機

2007-02-09 | ネタ



ひょっとすると、自らの存在を疑うというメタレベルの疑問を持った高度な信号機なのかもしれません。
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男と女の間に存在するもの

2007-02-08 | ネタ

ろじゃぁさんが紹介されていた、球磨焼酎「白岳」のCM「人間、本当のことは一回しか言わない」シリーズに、彼女の部屋でトイレを使おうとした男が便座が上がっているのに気がついて・・・という話があります(こちらの「マミの部屋編」参照)。

この味わい深さは、洋式便器において男性の小用と女性の使用を使い分けるために上げ下げする「便座」という特殊なものの存在がもたらしたものと言えます。

男性が小用を足したあとに便座を下げる(べき)かどうかという問題は様式便器の歴史の浅い日本だけの問題かと思ったら、洋の東西を問わず議論されているようです。

これに関して、医学都市伝説さんの 便座は下ろしておくべきか で海外の最新の研究成果が紹介されていました。

インド・ラホール経営科学大学のハマッド・アルサバー・シディッキ助教授は、この便座問題についてゲーム理論を用いて考察し、男性が便座を下ろす面倒さを選ぶのは、ただ「私を愛しているなら、便座を下ろしておいて」という、女性側の戦略的攻撃を回避するためだけであることを示した。

イギリスの植民地(≒様式便器)の歴史がありかつ数学の得意なインドだけあって研究が進んでいますね。


私自身はどうかというと、お店の男女共用のトイレなどでは、便座とともに蓋も閉めるようにしています。

というのは、後に使う人への配慮以上に、女性の使用後に便座が降りたままになっているほうが気になるからです。
便座が降りたままだと「私がここに座りました」と主張しているような感じがしちゃうんですよね。
特にトイレから出る女性とすれ違ったあとだったりすると、これこそ「頭かくして尻隠さず」だなと思ってしまいます。

なので、自分自身が使用したときも、その痕跡を残さずにニュートラルな状態にしようと思い、蓋を閉めるわけです。


ちょっと妄想しすぎでしょうか・・・?



ちなみに、2002年のTOTOの調査では男性の14.7%が自宅のトイレで座って小用を足すそうです(参照、元はリンク切れなので孫引きです)。
日本の男性はインド人よりもさらに平和主義的なのかもしれません。

また一方で全自動開閉便座(参照)という商品も最近登場したようです。技術の平和利用もここまでくれば日本人の面目躍如と言えましょう。

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物騒な世の中

2007-02-07 | よしなしごと

<暴力団発砲>6日朝にも2件 東京・豊島区、渋谷区で  
(2006年2月6日11時37分 毎日新聞)  

指定暴力団住吉会小林会系の杉浦良一幹部(43)が5日、東京・西麻布で射殺された事件の報復とみられる発砲事件は、6日朝も2件連続し、計3件になった。いずれも山口組系の関係するマンションで発生しており、警視庁組織犯罪対策4課は抗争事件とみて警戒を強めている。 
6日午前5時40分ごろ、豊島区高田3のマンション2階にある山口組系組関係者の自宅とみられる玄関扉に、銃弾4発が撃ち込まれた。 同6時20分ごろには、渋谷区道玄坂1のマンション5階の玄関ドアに、銃弾3発が撃ち込まれた。この部屋は、現在は同マンションの別の階にある山口組国粋会系組事務所がかつて入居していたとの情報がある。いずれもけが人はなかった。 
(中略) 
小林会を巡っては、山口組太田会系の事務所が最近、銀座に進出しようとしたことからトラブルになっていた、との情報がある。また小林会は国粋会との間で六本木地区の「縄張り」を巡ってトラブルを抱えていたとみられている。杉浦幹部は小林会側の交渉担当として、これらのトラブル処理に当たっていたといい、同課はこれらが射殺事件の背景にあるとみて調べている。  

昨日今日と物騒な事件が相次いでいます。  

以前警視庁の盛り場浄化作戦についてちょっとふれたのですが(参照)この作戦対象である4地区(新宿歌舞伎町・池袋・六本木・渋谷)の設定は、今回の発砲事件が六本木・池袋・渋谷界隈で発生していることを考えると、ポイントをついていたということでしょう。  

警視庁としても、重点地区での発砲事件なので、名誉にかけても取締りを強化するのではないでしょうか。  


聞くところによると、国粋会は勢力維持のために山口組傘下に入ったものの、厳しい上納金を課せられてかえって経済的には苦境にあるとか。 

それが事実だとすると、M&Aにおいてホワイトナイトだと思って助けを求めたら、当のホワイトナイトに食い物にされてしまった会社のようですね。
どこの世界でも経営の舵取りは難しいようです。  


しばらくは上の4地区やその周辺(西麻布・麻布十番・赤坂など)での会食は控えたほうがよさそうです。


※ 後日談はこちら参照

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マスコミ露出=経済波及効果?

2007-02-06 | あきなひ

経済波及効果165億円 東国原知事のテレビ出演で
(2007年2月5日(月)19:00 共同通信)

宮崎県は5日、東国原英夫知事が就任から1週間に行ったテレビ出演で、CM広告費に換算すると約165億円の経済波及効果を生んだという試算を明らかにした。広告大手の電通に依頼して算出したもので、知事は「鳥インフルエンザの風評被害対策にまい進させてもらった結果だ」と話す。

この「経済波及効果」ってのは毎度出るのですが、阪神タイガース優勝のような関連消費需要の試算ならともかく、これは単に新知事のメディア露出を広告費換算したら、という話のようです。

でも今回のマスコミへの露出が宮崎県にとってそれほど大きな需要創出効果があったとは思えないし、165億円は電通など東京や大阪の広告代理店の収益になるだけの数字に過ぎませんよね。

つまり、鳥インフルエンザで宮崎県がマスコミに取り上げられた回数を広告費換算したものが広告「効果」というのか、という問題です。
しかし私の見た範囲ではマスコミでも「就任早々対応に追われる知事」という取り上げられ方をしていて、(東国原知事にとっての広告効果かもしれませんが)それが宮崎産の鶏肉などへの需要創出につながったかというと疑問です。

もっと極端な例では、件のバラバラ事件の報道を歯科医師会やモルガン・スタンレーへの経済波及効果と言ったら怒られますよね。

もし165億円の広告費相当の露出があるなら、今回のようなコンテンツに使った場合の宮崎県への経済効果はどれくらいなものなのか(positiveな効果をもたらした報道はどの程度なのか)を計算するべきだと思うのですが。

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『構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌』

2007-02-05 | 乱読日記








十分に(特に対立する相手より)考え、周到な準備をして、ぶれないのが大事、という話。


ただ、竹中平蔵さんは、難しいことをわかりやすく説明する能力が高いだけに、反対勢力の理論的いい加減さと竹中大臣サイドの首尾一貫度合いが鮮明に描かれすぎていて、どこかで騙されているんじゃないか、と思ってしまいます。

ディープな裏話・暴露話は当然書いていないのですが、小泉内閣の改革路線を振り返るにはなかなか面白い本だと思います。
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柳沢大臣の発言

2007-02-04 | まつりごと

柳沢厚生労働大臣の実際の発言については、ネットを調べた範囲で一番詳しいのが スポーツ報知の記事です。

◆柳沢厚生労働相発言要旨 
なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統計学では、女性は15~50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分かる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。(女性)1人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したら、くしくも同じ1.26だった。それを上げなければいけない。

デリカシーのなさという問題はさておき、柳沢大臣は何を言いたかったのかを考えてみます。
とっくりさんが指摘しているように、ベビーブームには世代間の周期があるものの、団塊世代の約25年後に生まれた団塊ジュニア世代の25年後である2000年頃から「団塊ジュニアの子供世代」の人口増というのが見られません。
そして、そこから先は世代ごとの人口増加がなくフラットになるとすれば、2055年までの合計特殊出生率が今と同じになるのも(たぶん)当然なのだと思います。

柳沢大臣はつまり、年金問題とか経済成長に寄与するための実労働人口の増加は、出産増から20年以上経過する必要があるので「今すぐ子供を生む」ことが大事、という、まあ当たり前のことを言っただけですね。
機械に例える必要すらなかったんじゃないかと思いますが・・・

そして、今の女性がすぐに子供を生みたくなるような政策を考えるのが大臣お仕事のはずですよね、「がんばれ」だけじゃなくて。

よくある補助金などももっと効果的かつメリハリをつけた設計をする必要があるでしょうし、シングルマザーへのサポートを厚くするとか、今まで政策の外にいた人への社会的偏見の解消も必要なのではないかと。
また、そもそも「こいつの子供を生みたい」というような男が減っているという男性側の問題もあるかもしれないですし・・・

つまり、柳沢大臣の発言の一番の問題点は政策も人口増加がもたらす結果も考えずに「がんばれ」と言うしか能がない大臣であることにあるように思います。


それにこの前紹介したイースタリーの『エコノミスト南の貧困と闘う』では、経済発展は少子化に結びつく、という研究が引用されています。

ノーベル経済学賞受賞者のゲーリー・ベッカーは、れいせいなまでに、「インセンティブ」を家族生活の分析に適用する研究を開拓した。彼が指摘したのは、豊かになればなるほど、時間の価値が高まるという点である。高賃金の仕事に時間が費やされない場合には、所得の損失となる。子供を育てるとは、時間を消費することである、と私も請合える。豊かな家庭の親は仕事に多くの時間を費やし、子供を育てる時間を減らすことを選ぶ(すなわち子供の数を減らす)。貧しい家庭の親は、労働賃金率が低いから、子供を育てる時間を多く持とうとする(すなわち子供の数を増やそうとする)。
 豊かな家庭は貧しい家庭よりも子供の数は少ないが、子供一人当たりへの投資は多い。技能(スキル)への投資からもたらされるリターン(収益)は、技能の初期水準に応じて増加すると考えられる。幾何学を学習するときのリターンは、すでに算術を習得した者のほうが高い。豊かな両親の高い技能水準が、一部は自然な家庭学習を通じて子供に伝えられる。したがって質の高い学校教育に投資する場合、貧しい家の親子よりも、豊かな家の親子のほうに、より高いリターンをもたらす。このため、豊かな家庭は貧しい家庭よりも技能習得に多くの投資を行うのである。一国全体としてみれば、両親の平均的な初期技能水準に応じて、高出生率・低所得社会になったり、低出生率・高所得社会になったりする。

先日紹介した『超・格差社会アメリカの真実』でも、アメリカでは、移民層や貧困層のほうが出生率が高く、それが格差の固定化につながっている、という現状を指摘しています(上の発想はそういう現実を踏まえているのかもしれませんね)。


個人的には野党も大臣の辞任を要求して審議拒否するより、もっと真剣に議論したほうがいいと思います。

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こんなところに荷物を置くな

2007-02-03 | ネタ
集団で飛び降り自殺でもしたのかと思いました。
(窓、開かないんですけどね)


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『超・格差社会アメリカの真実』 (後編)

2007-02-02 | 乱読日記
昨日のエントリの続きです。

本書の最後での筆者の言葉を、ちょっと長くなりますが引用します。
70年代に女性としてキャリアを自力で切り開いてきた人の言葉には重みがあります。

*************************

 ニートやフリーターの問題は、経験を積むにしたがって報酬が増える見込みがない、つまりキャリア・パスが見えないことが問題視されている。しかし学校を卒業した人全員が、自動的にキャリア・パスを保障される(べき)という前提は、非現実的といわざるを得ない。
 考えてほしい。日本では高度成長期にあってすらも、女性には、つまり新卒者の半分には、キャリア・パスは制度的に存在しなかった。
 私事になるが、筆者が大学を卒業した1975年には、女性の総合職はおろか、そもそも大卒の女性を雇用する大手企業は皆無に近かった。たまに雇用する企業があっても、採用条件は「高校卒業で4年の職歴を持つ女性社員と同等」というのがせいぜいで、それは「生涯補助職」、つましキャリア・パスが存在しないことを意味していた。当時一般的な慣行だった扶養手当や社宅などの制度も、女性はもちろん対象外だった。止むを得ず女性にも受験資格があった国家公務員試験を受け、筆記試験を無事通過しても、最後の面接試験では民間企業と同様に、女性は以下に無能で役に立たないか、懇々と説明を受けたものだ(女性を採用したことがほとんどないのに、どうして自信満々でそのような説明ができたのか、筆者の疑問は未だに解消されていない)。
 そんな中で筆者が高卒5年目のエコノミストとして就職できたのは、稀有な幸運だった。
 今の就職戦線には女性も加わって、しかも大学進学率は一層上がっているのだから、男女合わせて新卒者の半分にキャリア・パスが提供されないとしても、それは高度成長期の実態と変わらないように筆者の目には映る。
 キャリアは誰か(会社)から与えられるものという前提もおかしい。人生は与えられるものという発想は、身分制度があった時代なら止むを得なかったろうが、幸いにして日本にはカースト制度はないし、地理的な移動も自由だ。さまざまな差別も解消されてきて、転職に対する偏見も薄らぎ、機会も増えた。
 もはや押し付けられたキャリアや人生設計に従う必要がなく、自分で人生を作っていけるようになったのは、むしろようやく手に入れることができた権利であり、機会ではないだろうか?
 技術革新が早く、ライフスタイルも環境もすべての変化が早くなっている今、50年近い生涯労働期間を通して、大半の人が同じ業種や同じ企業で、あるいは想定した通りのコースで働けるという前提も、時代錯誤と言わざるを得ない。
 今の時代環境を前提にしたら、必要なのは、職業訓練を生涯続けられる仕組みや、そのために必要な基礎教育、そして職種や勤務先を変えやすい雇用慣行や法体系のはずだ。
 そう考えると、経済力を落とさずに、有効な競争をなくさずに、日本社会で格差が固定化するのを食い止め、皆が元気でより幸せになれるための手立てはいくつもある。無論そのためには、日本社会を構成する個々人の発想の転換や意識改革と同時に、問題を解決する強い意志と真剣な努力が必要なことは言うまでもない。他人任せで解決を望んでいたら、期待が外れても致し方ない。

*************************


ふと思い出したのが高村光太郎の「道程」

これ、確か僕の頃は中学の国語の授業でやっていたのですが、結局「僕の前にある道」を歩く人が多いからという、逆説的な意味で取り上げられていた、ということなんでしょうか・・・








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『超・格差社会アメリカの真実』

2007-02-01 | 乱読日記

一昨日のエントリで紹介した開発経済・グローバリズム関係の本と一緒に買ったものです。

著者の小林由美氏は1975年に東大経済学部を卒業し(OBに優秀な人が多いと言われる小宮隆太郎ゼミ(※))長銀に初の女性エコノミストとして入社後、スタンフォードでMBA取得、以後米国で26年間証券アナリストを経てコンサルタントをされている方です。
(※ 以前小宮ゼミ出身を自慢にしている人から散々聞かされたものでちょっと言及してみました・・・)

著者は現在のアメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」の4つに分類できるといいます。
特権階級は純資産1億ドル以上の5400世帯、プロフェッショナル階級は純資産2000万ドル以上でかつ年間所得20万ドル以上の500万世帯をいい、この2階層=総世帯の5%に全米の富の60%が集中しています。

しかしこの格差のレベルは、1920年代(大恐慌直前の「狂乱」の時代)にも現出しており、その後第二次世界大戦を経て経済成長の中で中産階級が増えた(1960年代のアメリカのTVドラマの世界ですね)ものの、80年代以降富の集中が加速して現在に至っています。

著者はその格差の現実と、その由来を建国にまで遡って分析し、さらに富裕層が再生産・承継されるメカニズムや庶民がその格差を是認している背景などについて詳しく分析しています。

著者自身はシリコンバレーをベースに活動しているためか、文章の端々に東海岸の金融資本への嫌悪感が出ている感じはしますが(原因と結果が逆かもしれませんけど)、幅広い資料と知識をベースにした分析は(アメリカに住んだことのない私にとっては)説得力があります。
また、ときおり横道にそれるところもアクセントがきいていて楽しめます。
(たとえば多くの人材を輩出したスタンフォード大学にある共和党系のシンクタンク「フーバー研究所」の影響力に言及するなかで、コンドリーサ・ライスやジョージ・シュルツがフェローであったが、実は日本人で同研究所のフェローに就任できたのは、かの「ミラーマン」植草一秀氏唯一人であることなど)


そして筆者は最後に日本で問題になっている「格差」とアメリカの「格差」問題の違いをつぎのように分析します。

ひとことでいえば、日本の格差は「職業選択と労働報酬」の問題であり、アメリカの格差は「資産」の問題だからだ。

アメリカのように資産の格差が広がってしまうと資産が自動的に所得を生むので等比級数的に所得の格差が広がる(ロバート・キヨサキの「金持ち父さん」の戦略ですね)のに対し、日本における給与格差の問題は給与の格差自体にあるのではなく高いスキルを身につける機会とそれを発揮できる機会が平等にあるかという問題であり、まだ対策を立てやすいのではないか、ということです。

もっとも 森永卓郎氏が「年収150万円と3000万円で“税率”が同じ国」というコラム(http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/o/58/ 日経BP社のサイトに登録(無料)する必要があります。)で社会保険料込みの税負担額を計算すると税の逆進性が見られ、収入格差が資産(貯蓄の格差)につながりやすい制度になっていると警鐘を鳴らしています。
※ 実は本書でも72~77ページでアメリカの制度について同じ分析をしていて、本書が2006年9月25日初版、森永氏のコラムが2006年11月20日なので、本書が元ネタなのかもしれませんね。


ただ筆者は自力でキャリアを切り開いてきた女性として、日本の格差(ニート・フリーター)問題について、批判するだけではだめで、日本社会の一人ひとりの真剣な努力が必要であるとも強く言っています。

ここの部分は感銘を受けたのでぜひ引用したいと思いましたが、長くなるので今日はここまでとして、明日に続きを書こうと思います。






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