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詩人の谷川俊太郎さん死去で思い出したこと

2024年11月19日 09時22分33秒 | 新聞などのニュースから
 谷川俊太郎さんを一度だけお見かけしたことがあります。
 2004年6月24日、札幌のギャラリー門馬で谷川さんによる詩の朗読会が開かれた際、ギャラリーの門馬よ宇子さんに招待されたのでした。

 どの詩が読まれたのかはおぼえていませんが、筆者は、谷川俊太郎の詩といえば、1975年に『定義』と同時に刊行されたことでも詩壇の話題になった詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』の表題作をまず思い出すのです。


男と女ふたりの中学生が
地下鉄のベンチに座っていてね
チェシャイア猫の笑顔をはりつけ
桃色の歯ぐきで話しあってる
 
そこへゴワオワオワオと地下鉄がやってきて
ふたりは乗るかと思えば乗らないのさ
ゴワオワオワオと地下鉄は出ていって
それはこの時代のこの行の文脈さ


 最初に読んだときはおどろきました。
 自分のことが書いてあったから。

 しかし、筆者がおなじ体験をしたのは札幌の円山公園駅であって、東京の谷川俊太郎さんに目撃されているはずはありません。
 そもそもこの詩集が出たのは筆者が中学生になるずっと前であり、初出は1972年の「ユリイカ」です。

 朗読会の質疑応答コーナーでその話をしたとき、谷川俊太郎さんは困ったような笑顔を浮かべておられたと思います。こちらからも「いや、答えはいらないです」と言ったはずです。
 実は筆者はそのとき、道南のある町へ7月1日付で赴任するための引っ越し作業の真っ最中で、会が終わる前に中座しました。たくさんの人に囲まれて、しかし話しかける人はいなくて、ちょっと高い所の椅子に腰かけていた詩人がちょっとさびしそうに見えたことをおぼえています。

 ちなみにこの詩「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」は、しゃべり言葉による比較的短い即興的な詩編14編による作品で、上に引いたのは「1」。「10」には次のような一節もあって、ほんとうに天才っているんだなと思いました。

全く時間てのは時計にそっくりだね
飽きもせずよく動いてくれるもんだよ

話題を変えよう


 さらにすごいのは、この詩集と同時に出た詩集『定義』が、正反対ともいえそうな硬質な言葉を連ねた、実験的な詩集であったことです。
 実験的な詩なら岩成達也や吉増剛造など書き手はいるでしょう。しかし、平易で分かりやすい(しかし深みのある)詩と前衛的で難解な詩を同時にこなせる人は、谷川俊太郎を措いてほかにいないのではないでしょうか(強いて言えば萩原恭次郎にも両タイプの作品はあるが、谷川と分量が違いすぎる)。
 
 誰が言っていたか思い出せないのが残念ですが『定義』の言葉はコンセプチュアルアートに似ていると指摘した人がいて、言いえて妙だと感服したことを記憶しています。
 
 もう一つ言えば、国木田独歩から金井美恵子、飯島耕一を経てマーサ・ナカムラに至るまで日本語の詩人の多くは小説も書いてます。もちろん、伊東静雄や萩原朔太郎、草野心平など小説家でない詩人もたくさんいるのですが、詩の原稿料では食べていけないのも現実であり、かなりの近代日本の詩人が小説との二刀流でした(短歌や俳句と違って結社や添削といった仕事が詩にはないという事情も関係あるかもしれません)。
 そんな中で、長い間文筆を生業とし、スヌーピーが登場する漫画ピーナツシリーズの翻訳や絵本を手がけながらも、ついに小説に手を染めなかった詩人というのは、じつはけっこう珍しいのではないでしょうか。
 たしか現代詩手帖の1977年9月号だったと思いますが、インタビューで小説を書かないのかと聞かれ、長いものを書くのが得意でないとこたえています。走るのも、短距離はいいがマラソンは苦手だという意味のことを話していました。

 そういう意味でも、詩人という肩書がこれほどぴったりな文学者は珍しく、国民的詩人という呼び名がふさわしい人だったと思います。
 ご本人がいくら、詩人のふりをしているが、わたしは詩人ではない、と言ったとしても、です。
 日常生活や言葉の実験のほかにも、セックスも世界情勢もジャズミュージシャンもわらべうたもうたいながらなおかつ谷川俊太郎であったという、巨大な存在でした。
 ご冥福をお祈りします。

 もう一つだけ引いておきます。「六十二のソネット」の「41」。

空の青さをみつめていると
私には帰るところがあるような気がする
だが雲を通つてきた明るさは 
もはや空へは帰つてゆかない

陽は絶えず豪華に捨てている
夜になつても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生れなので
樹のように豊かに休むことがない

窓があふれたものを切りとつている
私は宇宙以外の部屋を欲しない
そのため私は人と不和になる

在ることは空間や時間を傷つけることだ
そして痛みがむしろ私を責める
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう


gooニュースhttps://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/entertainment/kyodo_nor-2024111901000112

 親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男賢作(けんさく)さん。

 父は哲学者谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。

 詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。

 他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。

 翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。


2004年5月つれづれ日録


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