KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

海が見たい

2020年05月13日 | 俳句
天気 晴

黄砂が来ているという空は一日ぼんやりした色で、朝、ベランダで少しプランターの花を片付けたらクシャミが止まらなくなった。目が痒い。

写真は、一昨年の今頃行った宮島の弥山(みせん)の展望台から。思い出してこの数日は、瀬戸内海の写真を飽かずに眺めている。広島は、夫と出かけた新幹線に乗った最後の旅行になった。なぜか夫は、出張やら旅行やらでほぼ全国へ行っているのに、広島に行っていなかった。ならば元気なうちに・・といっても2年前は私よりも元気だった・・と、私には三度目の広島行きとなった。
その当時から、海が見たくて仕方がかった。
海育ち、などと言っているけれど、良く考えると海に面した母の故郷の村に居たのは3歳から14歳まで。中学3年になる前に父の仕事の都合で四国へ行ってしまい、人生では短い間だったのに。
でも、四国でも海に面した町で暮らしたので、家からは見えなかったものの、海は近かった。学校の窓から、瀬戸内海が見渡せた。見たければいつでも見られた。
17歳で東京へ来てからは、当たり前だが海が見えない。ちょっと歩いて海岸へ・・ともいかない。毎日が不思議な感覚だったことを思い出す。

母が亡くなる1年半ほど前、がんに罹り、もう余命幾ばくもないと解ったとき、長兄の企画で両親を伴い、家族旅行に行った。その房総の海岸の宿は母の生家からは遠かったが、海を見たい、と言う母の希望に沿ったのだと兄の話。
そして、母の亡くなる前日、私と姉が一晩病院に泊まりの付き添いをした。頭はしっかりしていたしよく話すので、まさかそれが最後になるとは思わなかった。その夜、母が「海が見たい」と言い出した。「歩けるよになったら、また行こうね」と宥めた。

去年は一度も海を見ていない。今年もまだ見ていない。2年も海を見ていないのは3歳以後、初めてのことかもしれない。広島の写真でたっぷりと海の風景を見ていると、やはり海が見たい。潮風を浴びたい。・・と思いつつ、最晩年になってしまったのかなあ、と。新型コロナの影響は何年も続くという。生きている間に海を見られるかしらん?とまで、最近は考えるようになってしまった。
で、ネットで海の写真を探しては見るようになった。

40年前、夫が赴任していた小笠原母島の写真。tiwitterからお借りした。




私も夏冬の休みには休暇をとって片道40時間近くも船に乗り、4回も行ってこの風景を楽しんだが・・東京育ちの夫には辛い勤務だったらしい。

青葉闇抜ければ海の見えさうな  KUMI
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6 コメント

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Unknown (小父さん)
2020-05-13 18:30:10
しみじみと読ませていただきました。

小笠原へは40時間も船に乗るんですか!

wiki検索すると東京から青森や山口くらいの遠さに思えますね。

作家の新田次郎さんが富士山頂の測候所にも居たと聞きますが、都会にはとても近そうに感じます(笑)

ご主人に母上さまと一緒に海をごらんになる機会が作れて本当に良かったですね。

ご主人のお仕事はとても大変だったでしょう。
想像を絶します。

私の父は生粋の江戸っ子でしたが、職業軍人で満州やニューギニアに赴いたようです。
終戦後、母と子供たちが疎開していた福岡に運よく戻ってきたようですが、貧乏のどん底で私が生まれて
やっと落ち着いた頃なんでしょうか?
「金があったら海の見えるところに住みたかったな~」なんてひと言、私に話していたことを思い出しました。

「青葉闇抜ければ海の見えさうな」
  
青葉闇という言葉に初めて出会いました。
次回海岸に行ったら、いろいろとイマジネーションが働きそうです。
ニューギニアのジャングルから、海や日本を想っていたのかな?

ありがとうございました。
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kumiさんはお幾つ? (ふきのとう)
2020-05-13 20:02:05
お母様が亡くなられたのはkumiさんがお幾つの時だったのでしょう。私は46歳の時に母が亡くなりました。長姉は63歳、羨ましく思ったのでした。ご主人様が小笠原に、ある意味では4回もの小笠原への旅も出来て思い出深いですね。

コロナが収まりましたら海に近い当地へ是非ご招待したいと本気で思っています。是非!是非!
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小父さん、みんな貧乏な時代でした (KUMI)
2020-05-14 14:43:47
ご両親ともご苦労されたのでしょうね。
生まれた小父さんもまた、あの時代ですからお元気に育って良かったですね。
私の両親も、書ききれないくらいの苦労のあった戦中戦後でした。
貧乏の話なら、負けません・・もっとも、あの時代は皆貧しかったので同じですね。

今は、父島までは随分早く着く船になったようです。
でも、当時は夫の居た所はそこから小さな船で4時間かかりました。
仕事はさほど大変とは思いませんでしたが、何しろ都会育ちです。
海しか見えない暮らしが、大変だたのでしょうね。
明石は良い所ですねえ。大都会でもなく瀬戸内海の美味しいものもあり。
私は高松に住んだことがありますから、あのくらいの規模の街に憧れます。
海があり、お城があり、適当に都会で。
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ふきのとうさん、ご長命の家系ですね (KUMI)
2020-05-14 14:56:02
同じ末っ子でも、私は確か36歳のときに母を亡くしました。可哀そうでしょ? でも母が短命だった訳ではなく、当時の平均寿命でした。友人たちが50歳過ぎても「実家の母が・・」と言うのを羨ましく思ったものです。ふきのとうさんのお宅は女性がご長寿なのですねえ。私の実家は男性の方が元気なようです。
いつまで元気で居られるやら・・大昔、御前崎へドライブしたことがあります。また、それが再現出来ますように祈ります。
返信する
海が見える部屋 (dolce)
2020-05-14 17:43:25
海に囲まれている国に育った日本人は、海を見ると
気持ちが落ち着くような気がします。

一枚目のお写真を拝見してハッ!っとしました。
父が倒れたあと、リハビリが済んで最初に入った
ホームの部屋から見える景色にそっくりで!
大村湾が目の前に広がる環境のいいホームだったのですが・・・。
それでも母と一緒には入れなくて別れ別れになって
いたせいもあったのでしょうが、「海しか見えなくて
寂しい!寂しい!」と言っていました。

その後母が入っていたホームの同じ敷地内にある
有料老人ホームのお偉いさんを拝み倒して(笑)
入る事ができました。(せっかく毎日母に会えるように
なったのに、二か月後には亡くなってしまったのですが・・・)

悲しいくらいに美しい海の風景。
ずっと見ていたいです。。。
返信する
dolceさん、長崎も海が見える地 (KUMI)
2020-05-14 22:42:52
大村湾も湖のような地形ですから、対岸が見えたのですね。
写真の対岸はナントカという大きな島だと思います。
お父様はやはり街の見える長崎が良かったのでしょうか。
最後をどこで生きるのかは難しいことですね。

dolceさんには、ちょっぴり悲しい風景でしたね。
良くも悪くも、海には日本人は色々思い出があるのでしょう。
見えている小さな島の形が高松に居た頃に見た島にそっくりで。
私はとっても懐かしく気分良く眺めていました。


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