ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・M-1号墳」です!!

2024-12-11 06:30:59 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」を見て、公園の西端の流れ山と小二子古墳の間を北へ戻って来ました

 北駐車場側に大きなモニュメントがあります


 南側から見ず時計のオブジェです

 東側から

 説明プレートです
   水時計のオブジェ
 このモニュメントは、「時の広場」の中心に広場のランドマークとして造ったものです。
 モニュメントのテーマは、史跡の持つ長い時間の経過と市のキャッチフレーズである「水と緑と詩のまち」です。
 多くの人々に親しんでもらえる事を願い、親しみやすいオブジェと水の演出を組み合わせ、ユーモラスな動きを交えた詩情豊かなモニュメントとしてデザインしています。
          平成8年11月設置

 大室古墳群・M-1号墳は、北駐車場のすぐ東側です

 案内図です

 南側から見ました

 説明版ですが、表示内容が読めなくなっています 
   内堀遺跡群 Mー1号古墳 (帆立貝式古墳)
 公園整備に先立ち実施した発掘調査(昭和63年度)の結果に基づき、平成5年度に盛土と芝張りによって往時の姿を想像し再現したものです。
 二列の石張り(鉄平石)は周堀の範囲を表しています。また、この下には発掘調査の終わった古墳がそのままの形で保存されています。
 帆立貝の形をしたこの古墳は、発掘調査の結果、全長は周堀を含め約37m、幅は約39mであることがわかりました。
 墳丘の上部は後世の耕作によって削られていたので、高さや形ははっきりしませんが二段で造られていたようです。
 石室もすでに壊されていましたが、石の跡から両袖型の横穴式石室だったと思われます。
 墳丘からは円筒埴輪や人物、盾持ち人、馬、靫、鞆、鉾、帽子などの形象埴輪などが多数出土しました。
 前・中・後の三二子古墳(国指定史跡)と比べれば小規模ですが、墳丘に数々の埴輪を立ち並べ、威風を誇っていた当時の姿がしのばれます。
 墳丘の下の土や周堀を埋めて土の中の火山灰、また出土遺物等から、6世紀後半に造られたものと思われます。

 南西側から、復元した墳丘にはあちこちに登った跡が深い溝になってしまっています

 西側から

 西北西側から

 北側から、少し北側が高くなっているので、形が分かりやすく思います

 北東側から

 東側から、帆立貝の丸い形ですね

 南東側から見ました

 では、埼玉に戻りましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」です!!

2024-12-10 18:43:46 | 遺跡・史跡
 次は、Mー4号墳です


 全体模型の南側から南西へ進みます

 北東側の通路出口から石に覆われたMー4号墳が見えました

 北側から回り込むと

 西側からの入り口です

 西側からMー4号墳です

 南側から、葺石に覆われて築成時の様子を再現しています

 東側から、埴輪が並べられています

 竪穴式住居です

 説明です
   竪穴式住居 平成10年8月10日完成
 大室公園内の内堀遺跡の発掘調査により得られた資料をもとに、古墳時代(6世紀)の竪穴式住居を建設しました。
 住居は市内小中学生等を中心とした住居建設体験学習に参加して下さった方々のご協力で完成しました

 高床式倉庫です

 説明です.
   高床式建物 平成11年8月8日完成
 大室古墳群が造られた頃、人々が集団で農業を営んで暮らしていました。
 当時、このような高床式の建物は、ムラの共同倉庫として、大切な種モミの保存などに用いていたと考えられています。
 復元されたこの建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。


 平地式住居です

 説明です
   平地式住居 平成12年7月30日完成
 大室古墳群が造られた少し前の時代(今から1600年ほど前)になると、竪穴式住居・高床式建物に加えて、地面を掘り込まない平地式住居が出現します。
 住居としては竪穴式よりすすんだつくりで、冬は竪穴式、夏は平地式に住むというように住み分けることもあったらしいと考えられています。
 この建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。
 また、この建物は、中に丸太を使ったイスとテーブルを置き、南半分と東側には壁を取り付けないで、休みながら古代住居エリアが見渡せるように休憩所として機能を持たせました。
         前橋市教育委員会・文化財保護課
 *ここに名を綱れている方々も40代ちなって社会の中心で仕事されていることでしょう

 綺麗なネコさんがいました

 猫に餌を与える人達へのお願いですね

 古民家(旧関根家住宅)は休館日でした

 *12月から3月の間は、土・日・祝日だけ(年末年始は休館)の開館に成っています(4月~11月の休日は月・火・水曜日(祝日を除)です)

 では、北口駐車場の東側のM-1号墳へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・小二子古墳」です!!

2024-12-10 06:35:45 | 遺跡・史跡
 大室古墳群の北西端の前方後円墳が「小二子古墳」です


 南側の広場から「前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ」です

 南東側から、後方に「小二子古墳」の墳丘が見えています

 説明版です
   前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ
     指定年月日 平成23年3月29日
     所在地   前橋市西大室町2142 大室公園
 本コナラは、小二子古墳の南側で後二子古墳の西にある。コナラ、クヌギ、やムクノキからなる小さな林の南端に位置し、この株の南側は開けた草原になっている。
 株は、地上から0.9mで3本に分かれ、中央の主幹は地上から2.7mでさらに2本に分れている。
 幹周は3本の幹周の合計として610cm(252+215+143cm)、樹高21.5m、根周り8.82m、枝張り、東西25.7m、南北24.5m、であり、虫害の痕跡もなく樹勢は旺盛で葉の数・量とも多く、成長を続けているものとみられる。
 この測定結果は、本件の記録からからみて、県内では幹周の最も大きなコナラに属すると思われる。本コナラが、現在まで存続できたのは、大室古墳群内にあって伐採を免れてきたためであろう。
 コナラは、小二子古墳の周辺や大室古墳群の中に数多く存在しており、大室古墳はこの面でも貴重な場所であると考えられる。
 なお、大室古墳は赤城山の山体崩壊による「流れ山」の存在と貴重な草本も含む平地林として、古墳群とともに保護されるべき存在である。 
            前橋市教育委員会
 *コナラに関しては、このブログの2017年10月23日に「大室公園のコナラです」で紹介させて頂いております、その時にも各古墳も少しだけ紹介していました。


 「小二子古墳」を「後二子古墳」の北西端から見て行きます

 小二子古墳の後円部です

 後二子古墳で表記した「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です、した3文字「小古墳」が小二子古墳の事です

 北側から

 西北西側から、墳丘に埴輪が並べられています

 説明版です
   ~埴輪のデパート~ 国指定史跡 小二子古墳
 小二子古墳は、全長38mと小規模ながらも、2段築成の前方後円墳です。
 この古墳は流れ山と後二子古墳に挟まれたせまい空間に造られています。
 後二子古墳と同時期に方向を揃えて造られていることから、後二子古墳とかかわりの深い人物の墳墓であると考えられます。
 石室は、石を抜き去られたために破壊を受けていました。さいわい入り口部分は、壊されずに残されていて、石室のふさいだ状態がよくわかりませんでした。
 石室の前からは、墓前祭祀に用いた土器や火を燃やした跡が見つかりました。こうした様子も復元されています。
 小二子古墳からはたくさんの埴輪が発見されました。人物・馬・家・大刀などの形象埴輪や円筒埴輪は、大きく後円部と前方部の2つのグループに分けられ、設置されています。

 西側から

 前方部に並べられた盾や靫型(矢入れ)埴輪・馬などの象形埴輪です

 馬や人物埴輪です

 武人の埴輪も並んでいます

.後円部の上にも多くの靫型(矢入れ)埴輪や翳・大刀・鞆・朝顔形円筒埴輪などが並んでいます

 説明版です
   小二子古墳 (6世紀後半)
 この古墳は、後二子古墳とともに「史跡後二子古墳並小古墳」の名称で史跡に指定されています。
 墳丘の長さ38mの小前方後円墳で、後二子古墳と西の山の間に向きをそろえてはめ込むように造られています。
 〇後円部の埴輪群
 家形埴輪の周りに翳(さしば)が立ち、その外側に大刀・靫・鞆・盾が取り囲んでいます。
 〇前方部の埴輪群
 盛装の男子・武人・巫女・農夫等の人物や馬・盾・靫が並びます。
 このような埴輪は、下段に置かれることが多く、前方部上に置かれたこの例は珍しいものです。
 〇埴輪の復元
 復元した埴輪の種類と数や位置は、下段の平坦面や周堀に崩落していたものから想定しました。
 埴輪の位置と形の不確かな部分は色を薄くしてあります。
 〇石室
 石室は壊されていましたが、全長6m、奥壁部分で幅1.8m、高さ1.8mの横穴式石室とみられます。
 石室の入り口は石で塞がれ表面は粘土で覆われていました。
 〇墓前のまつり
 後二子古墳と同じように、石室の入り口付近に焼土が二カ所あカ、儀式に使われた土器が出土しました。

 石室入口です

 南東側から

 東南東側から後円部です

 次は、南側の広場を下って南西側の古民家へ行きましょう 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・後二子古墳」です!!

2024-12-09 20:33:23 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・中二子古墳」に続いて「大室古墳群・後二子古墳」です

 中二子古墳の北西側に位置します、北側の駐車場側から近付きます

 公園案内図です

 北西側に「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です

 史跡 後二子古墳(うしろふたごこふん) 昭和2年(1927)4月8日指定
   「埋葬の 儀式を偲ぶ 後二子」
 前・中二子古墳より小さい前方後円墳です。
 墳丘から人・馬・家などの埴輪が出土しています。
 円筒埴輪列の中には親子猿の付いたものもあります。
 造られたのは6世紀後半とみられます。

 北西側から前方部です

 後円部です

  ~巧みな石室造り~ 国指定史跡 後二子古墳
 後二子古墳の石室も前二子古墳と同様に明治11年に開けられました。
 今回の調査によって築造方法にいくつかの工夫がなされていることがわかりました。
 地中を掘って石室を低く造ることで墳丘の盛土を節約しています。
 また石室が低いために地面を掘った通路により出入りが行われました。
 前庭部には、儀式に使われた煮炊きの跡や土器がまとまって出土した様子が復元されています。
 石室は南に開きますが、古墳は北側から見た方が大きく立派に見えます。
 円筒埴輪も、石室の前に復元されているように南側は小さな埴輪が間隔をあけて使われていましたが、北側には大きな埴輪が設置されていました。
 また、円筒埴輪に「親子猿」や「犬」の小像が付けられていました。
 形象埴輪のうち馬形埴輪は、大阪府四天王寺宝物館にある「人が乗る馬形埴輪」と同じ制作者の埴輪であることがわかりました。

 後二子古墳の北側周堀の中提を東へ進み、後円部を見ました

 前方部です

 東側から二段築成の後円部です

 南東側に回り込みました

 後円部南側に石室の入り口です

 説明版です
   史跡 後二子古墳
     横穴式石室
 〇石室の特徴
 死者を葬る玄室を広くした両袖型石室で、大きい石を使っているところに特徴があります。
 玄室は間仕切石で二つに分けられ、奥には遺骸とともに装身具・大刀など、手前には武具・馬具・須恵器が置かれました。
 この石室は墳丘の基壇面を掘り下げて造られ、入口までは基壇面を堀くぼめた墓道がついています。
  副葬品
 ○武具ーーー大刀2振・大刀金具2・小刀2振・鉄鏃若干
 ○装身具ーー金環11個
 ○馬具ーーー轡片
 ○須恵器ーー高杯・提瓶
  石室の比較
 ○石室の長さ、石の大きさ、天井の高さを前二子古墳の石室と比較しましょう。
 後二子古墳ーー6世紀後半ーー石室全長約9.50m、幅2.7m、高さ2.2m
 前二子古墳ーー6世紀初めーー石室全長13.89m、
  円筒埴輪列
 ○墓道両側の埴輪列に違いがあるのはなぜでしょうか。
 墓道西側ーー3・4条突帯まじりの2条突帯埴輪列。
 墓道の右側から並べはじめた大型埴輪が足りなくなったりこわれたりしたため、小型円墳用の小さな埴輪が補充されたのでしょうか。
 墓道東側ーー4条突帯の大型埴輪列
 見晴らしの良い東側から北側にかけて、大型の埴輪を配置することにより、古墳をより壮大にみせようとしたのでしょうか。
  墓前のまつり
 ○奥に見えるのは、石室の入り口前で行われた儀式に使われた土器の一群です。
 土器の特徴からこうした儀式が何回か行われたと考えられます。
 葬られる死者と最後の飲食を共にする儀式が行われたのでしょうか。
 ・土器:土師器(甕・鉢・杯)
    :須恵器(高杯・𤭯(はそう))
 ・鉄器等(小刀・鉄滓(てつさい))
 ・焼土 (火を焚いたあと)
 ○出土した土器(土師器)を特徴から古い順に色分けしました。
 6世紀後半から7世紀前半にかけての土器が見られます。

 東側の大型埴輪列です

 西側の小形の埴輪列です

 石室です

 周堀南側中央から後円部です

 前方部です

 堀底から西側です

 墳丘に上がってみましょう

 前方部です

 後円部です

 後円部頂上から前方部を見ました

 前方部から後円部を見ました

 戻って周堀の南西側から

 西側から前方部と堀を見通しました

 直ぐ右手(西側)の、「小二子古墳」を見てみましょう
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群馬県前橋市、西大室町「大室古墳群・全体模型」です!!

2024-12-09 06:31:38 | 遺跡・史跡
 後二子古墳の南側の広場に古墳の「全体模型」があります

 南側から

 説明です
   大室古墳群
 6世紀頃、赤城南面を代表する古墳が同じ台地の上に並んで造られました。また、すぐ東からは堀と柵で囲まれた豪族の屋敷跡(梅木遺跡)も見つかっています。
 古墳の大きさ・高さ・堀の様子などから前二子古墳から中二子古墳の頃が最も栄えたとみられます。雄大な赤城山を背にくりひろげられた古代人の営みにおもいをはせてみませんか。
 *南から造られた古墳
 赤城南面のゆるやかな台地と河川によって削られた低い谷地が入り組んでいます。
 大形の前方後円墳は西側の台地の上に同じ向きに南から順に造られました。
 ☐生活の場:集落
 台地上には6世紀の集落もあり、発見された35軒ほどの住居跡の中には一辺が10mをこえるものもあります。
 ☐生活の場:水田地域
 東を流れる桂川沿いや南に開けた低い土地では、水田が作られていました。

 東側から

 説明です
   梅木遺跡(5世紀後半から6世紀初め)
 豪族の屋敷跡。一辺65mほどの方形部分の周囲を柵でかこみ、その外側を幅5m、深さ1mほどの堀がめぐります。
 柵列の様子と張り出しがあることから西側にが入口と見られます。屋敷内部は、桂川の氾濫で削られていましたが、日本で最初に発見された三ツ寺Ⅰ遺跡とよく似たつくりです。時期的に、前二子古墳との関係が考えられます。
 △浅間山・榛名山
 西方にある浅間山や榛名山は、今までに大噴火をくり返してきました。
 その時に積もった火山灰との関係で、古墳が造られた時期を知ることができます。
 前二子古墳や中二子古墳の下層から6世紀初頭の榛名山の火山灰層が見つかったことから、古墳が6世紀初頭以降に造られたことがわかります。
 *三ツ寺Ⅰ遺跡推定復元模型(かみつけの里博物館提供)
 群馬町(現高崎市)にある5世紀後半の豪族の屋敷跡。
 内部は、「まつりごと」を行う部分と「くらし」の部分に分かれていたと推定されます。

 北側の説明です
   県内有数の古墳群
 大室の古墳は、6世紀代の三つの大前方後円墳と二つの小前方後円墳、ほかに5基の円墳からなる県内有数の古墳群です。
 これらの古墳は、M-2号墳が竪穴式の小石室のほかは横穴式石室をもちます。

 西側の説明です
 △多田山丘陵
 大室古墳群東方の多田山丘陵には、かつて30基ほどの古墳がありました。
 家形埴輪で有名な赤堀茶臼山古墳(5世紀中頃)や唐三彩の枕が出土した多田山12号墳(7世紀後半)などがあります。
 ☐のちにできた五料沼
 五料沼は、江戸時代に堤を築いてつくられました。
 古墳時代は、北から細い流れが入る谷地でした。
 沼の中からも住居跡が見つかっています。
 △石の山
 古墳の周辺には、赤城山の噴火のなごりの小山がいくつかあります。
 古墳群の北西の山には、古墳の石の掘り取り跡があります。

 公園案内図です

 では、埼玉に帰ることにしましょう


 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・中二子古墳」です!!

2024-12-08 18:31:06 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・前二子古墳」に続いては「中二子古墳」です

 大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です

 大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です

 古墳群の案内図です

 「史蹟 中二子古墳」の標柱です

 説明版です
   ~大富豪の栄華~  国指定史跡 中二子古墳
 中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
 かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
 この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
 また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
 中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。

 左手(南側)には、前二子古墳です
 
 史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です

 中提から前方部です

 後円部です

 中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました

 古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です

 内堀のブリッジと後円部です

 前方部です

 北西側の説明版です
   史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
 大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
 墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
 埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
 この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。

 北西側の内堀です

 中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです

 南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました

 中提に円筒埴輪が並べられています

 外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です

 前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます

 南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~

 後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません

 東側から外堀です

 説明版です
   史跡 中二子古墳
 墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
 この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
 ■埴輪
 墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
 ■中提の復元
 円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
 ○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
 ■中提複眼前の断面
 中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
 このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。

 中提の円筒埴輪を見ました

 次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・前二子古墳」です!!

2024-12-08 06:36:10 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月25日に群馬県に行った帰りの取材分です

 西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ

 前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です

 大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です

 約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます

 約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です

 約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました

 古墳群の案内図です

 南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと

 前二子古墳の後円部が見えました

 更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です

 説明版です
   黄泉の国へのタイムトラベル
     国指定史跡 前二子古墳
 明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
 石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
 詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
 さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
 調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
 従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
 また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
 出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。

 北西側から見ました

 西側から

 説明版です
   史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「前二子 長い石室 古きあかし」
 大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
 特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
 関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。 

 西南西側から前方部です

 南西側から

 南側の中提から後円部です

 説明版です
   史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
 墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
 ・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
 〇細くて長い石室
 石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
 これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
 石室全長 13.89m。
 〇形象埴輪
 人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
 〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
 明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
 主な出土品
 ○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
 ○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
 ○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
 ○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
 ○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
 〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
 明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。

 南側に玄室です

 覗いてみましたが奥までは見えません

 墳丘に登って見ました、前方部です

 後円部です

 後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました

 後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね

 北側の中段を西側から

 南側の中段を西側から見ました

 南東側に戻って来ました

 次は、中二子古墳を見て回りましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・愛宕山古墳」です!!

2024-12-07 18:48:00 | 遺跡・史跡
 愛宕山古墳は、博物館入口の県道77号古墳通りの北側に接しています

 駐車場にも、博物館にも近いのですが、最後に成りました


 博物館への県道からの入り口です

 さきたま古墳庚園案内図です

 南西側県道77号古墳通り南側から愛宕山古墳です

 発掘調査が行われていますが

 本日はお休みでブルーシートが掛けられています、位置的には外堀の部分です

 西側から前方部です


 北西側から

 北側から

 説明版です
   愛宕山古墳
 全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
 最小ではありますうが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
 出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した象形埴輪があります。
 円筒埴輪は、高さ40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
 古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
         平成21年(2009年)3月    埼玉県教育委員会

 *さきたま史跡の博物館のホームページでは、墳丘長54.7mとなっています。また、墳丘上に愛宕神社があったようです。

 北東側の丸墓山への遊歩道わきには「臨済宗 妙心寺派 海東山 天祥禅寺」山門です

 築地塀に説明版です
   天祥寺由来
 旧藩時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外6家に過ぎず、御三家、加賀100万石より上位なり。
 初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
 天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥寺の本寺たり。
 9代忠尭公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の3君、この蛍城の地下に眠る。
 近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
 現在松平家の墓所は、行田市の文化財に指定を受けた目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。


 では、今回の取材は終わりにして、自宅へ帰ります
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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・国宝常設展示」です!!

2024-12-07 06:38:20 | 遺跡・史跡
 さきたま史跡の博物館は、久しぶりの訪問でした、常設展示も変化しています

 常設展示場入口です

 右側から展示を順に観て行きましょう

 趣旨説明です
   展示趣旨
 埼玉県発祥の地、行田市埼玉に所在する埼玉古墳群は、大型前方後円墳を中心に密集して築造されており、全国でも稀有な例として、昭和13年、国指定史跡となりました。
 その後、「さきたま風土記の丘」建設事業において整備を進め、現在では博物館を中核にした史跡公園として整備されております。
 稲荷山古墳はこの整備計画に基づいて、昭和43年8月に墳丘の発掘調査が行われ、後円部から礫槨と粘土槨の2基の埋葬施設が検出されました。
 そして、10年後の昭和53年には、礫槨から出土した鉄製品の保存処理中に、一振りの鉄剣から115文字の金象嵌の銘文が発見され、「100年に一度の大発見」として大きなニュースになりました。
 その内容は、日本古代国家成立に貴重な手掛かりとなる大一級資料であり、昭和58年には出土品が国宝「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として指定されております。
 本展示室では、この稲荷山古墳の主体部からの出土品を中心に公開するものです。
 被葬者とともに副葬されていた辛亥年(西暦471年)銘を刻む国宝の金錯銘鉄剣をはじめ、鏡などの装身具・武器・馬具・工具などの指定品を列品しております。
 また、周堀内から出土した円筒埴輪や冑をかぶった武人、巫女などの人物埴輪、盾などの器材埴輪、動物埴輪などのほか須恵器等を紹介いたします。
 さらに、将軍山古墳をはじめ、他の古墳からの出土品も併せて公開しております。
 埼玉県の至宝になっている古墳時代の優品としての考古遺物をご覧いただければと存じます。

 古墳の年代別大きさ別の表示です

 国宝から順に観て行きます、まずは

 稲荷山古墳出土の鉄剣です

 稲荷山古墳の説明です
    稲荷山古墳
 埼玉古墳群で最初に造られた古墳(5世紀後半)です。全長120mを誇り当時の埼玉県域では最大の前方後円墳です。
 昭和12年には前方部を土取りされてしまいましたが、平成16年には復元されました。
 昭和43年には、史跡整備に伴う発掘調査が行われ、2基の埋葬施設を後円部で確認しました。
 西寄りの埋葬施設は、古墳の主軸に沿って川原石を舟のような形に積み上げた「礫槨」であり、南寄りのものは素掘りの墓穴でした。棺は大木を半割にして刳り抜いた木棺だと考えられます。
 前者を「礫槨木棺墓」、後者を「木棺直葬墓」と呼びます。
 礫槨木棺墓からは、金錯銘鉄剣の他、帯金具・武器・武具・馬具などが出土しました。これらは、一括して国宝に指定されました。
 木棺直葬墓は、棺を粘土で固定していました。本墓は盗掘されており、わずかに鉄鏃片が確認されただけでした。

 埋葬施設案内と鉄剣です

 帯金具と天冠です

 帯金具と鉄剣です

 金銘鉄剣説明と鉄鏃展示です

 武器・武具です

 珪甲(甲冑状の武具)の展示です

 馬具です

 画文帯環状乳神獣鏡の展示です

 鉄製工具の展示です

 崎玉古墳群出土の土器の展示です

 鉄剣の展示ケースが変更に成っています

 説明です
   スペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」
 当館では金錯銘鉄剣をより安全な保管環境で展示公開するために、所有者である文化庁の指導のもと、これまで長年使用してきた展示ケースに換えて、新たな展示ケースを設置することになりました。
 それまでの間、金錯銘鉄剣は窒素ガスを封入し、当館の特別収蔵庫内で保管されます。
 金錯銘鉄剣が、新たな展示ケースで再び展示されるようになるまでの間、ここでは、金錯銘鉄剣が発掘されてから現在に至までの主な出来事を紹介するスペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」を開催いたします。
 金錯銘鉄剣が発見され、現在の姿となって展示公開されるまでには様々な経緯がありました。
 始まりはいまから56年前の稲荷山古墳の発掘です。鉄剣は盗掘を免れた礫槨からの副葬品の一つとして出土しました。
 そして発掘から10年後、保存処理の作業中に金象嵌の文字が発見されたことは、古代史研究上の大発見として世間を騒がせました。金象嵌文字の発見から5年後には国宝に指定されました。
 本展示では、金錯銘鉄剣の紹介とともに、鉄剣が発見されてからの主な出来事を「稲荷山古墳の発掘」、「金象嵌文字の発見と保存処理」、「金錯銘鉄剣の公開と科学分析」として紹介いたします。


 金錯銘鉄剣の展示です

 稲荷山古墳から出土した埴輪の展示です

 金錯銘鉄剣の発見された稲荷山古墳の説明です

 稲荷山古墳出土の人物埴輪について

 形象埴輪について


 円筒埴輪の展示です

 説明です
   稲荷山古墳出土の円筒埴輪
    〈墳丘を囲み守る装置〉
 円筒埴輪は弥生時代の墓に供えられた壷をのせる筒状の土製の台(器台)が源です。
 稲荷山古墳では立てられた位置をとどめるものはほとんどありませんが、墳丘上や墳丘裾の平坦部、中提や造出し上に、すき間なくたてられていたと推定され、こわれて破片となった埴輪が墳丘や周堀から大量に出土しています。
 使われた粘土の種類で焼き上がりの色が違うのは、生産地(生産した工人集団)の違いによるものと思われます。
 灰白色のものは5~6条の凸帯(帯)を持ち、しっかりとした作りの大型品で、半円形のスカシがあります。
 外面には縦方向にハケメ(スジ状の仕上げ痕)があり、一部には古い技法の横方向のハケメが施されています。
 その他の赤褐色や橙色のものは大型品のほかに3~4条凸帯の小形品があり、やや雑に製作されています。
 

 二子山古墳出土の須恵器の杯と土師器の高杯の展示です

 小円墳郡からの出土品です

 二子山古墳出土の円筒埴輪の展示です

 全国銘文刀剣の展示です

 金錯銘鉄剣のパネルです

 家形埴輪と琴を弾く男性埴輪です、左側の女性埴輪は、前回の企画展示に出張中です

 動物埴輪(水鳥埴輪)と瓦塚古墳出土の盾持埴輪です

 稲荷山古墳の竪穴式石室と将軍山古墳の横穴式石室の比較展示です

 馬冑の展示です

 大きな須恵器の壷の展示です

 鉄砲山古墳出土の埴輪の展示です

 最後は円筒埴輪の比較展示です

 では、博物館を出て、最後に残った「愛宕山古墳」に行きましょう

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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・企画展示古墳時代の装い」です!!

2024-12-06 19:27:53 | 遺跡・史跡
 埼玉県立さきたま歴史の博物館は、この日は「埼玉県民の日」で、無料で観覧出来ました

 (通常一般は200円・高校生100円で、将軍山展示館も見る事が出来ます)

 駐車場側からの通路です

 「埼玉県立さきたま歴史の博物館」まで150mです

 埼玉県の名前の石碑です

 由来の文面です
   埼玉県名の由来
 明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設定するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。
 以後、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による國郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見られる。また、延喜式神名帳も埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て県名発祥の記念とする。
      昭和62年4月    埼玉県

 博物館入口です

 埼玉の日の催し物として博物館前の通路では「火起こし体験」が行われていました

 左手に「古墳時代の装い」の企画展示です

 ロビーの航空写真です

 埼玉県内の国・県史跡の図の中に、埼玉古墳公園は特別史跡に指定されています
   埼玉県の史跡
 県内に約11000か所ある古墳や城跡などの遺跡のうち、特に価値の高いものを、国や県では、それぞれ「史跡」に指定して保護しています。
 さらに、国が指定する史跡のなかでも、学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴とされる史跡は、特別史跡に指定されています。
 また、2023年からは国の史跡に相当する遺跡が「指定相当の埋蔵文化財」として認定、公表されています。
   埼玉県内史跡数(2024年3月31日現在)
 国指定史跡 25、うち特別史跡1、県指定史跡105、国指定相当埋蔵文化財1
 *国指定相当埋蔵文化財の1か所は、最近なにかと話題になっている北本市の「デーノタメ遺跡」です

 企画展展示場の中心には古墳時代の衣装です

 埴輪を見る上での注意点です(*展示を見る上で重要な内容ですね)
   人物埴輪から古墳時代の「装い」を考える際の注意点
 古墳時代とは、前方後円墳を代表とする、土を高く盛り上げたお墓(古墳)が多く造られた3世紀中頃から7世紀の間を指します。
 この時代の「おしゃれ」や「装い」を考える手がかりとして、人物埴輪があげられます。
 人物埴輪は人物を模して作られた埴輪で、髪型や衣服、装身具などの表現があり、絵画や文字資料がほとんどない古墳時代の「装い」を復元する際にはいくつかの注意が必要です
 ①人物埴輪の出現時期
 人物埴輪は古墳時代の中頃(5世紀)から作られるようになりました。
 それ以降の古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀代)には、人物を模した考古資料はほとんどなく、「装い」に関する情報が非常に少ない状況です。
 本展示でも紹介する資料の大半が、古墳時代中期から後期のものに成ります
 ②人物埴輪の意味
 人物埴輪の意味については様々な説がありますが(首長権継承儀礼説、死後の近習説など)、どの説でも人物埴輪は古墳時代のごく一部の人々、基本的には首長とその周辺の人々を表現していると考えられています。
 さらに、彼らの日常生活というよりは、特殊な場面を切り取って表現した可能性が高いとされています。
 ③人物埴輪の表現技法
 埴輪は粘土を成形して焼き上げて作るため、表現を省略、抽象化、誇張する傾向があります。
 さらに人物埴輪には上半身と下半身の両方を表現する「全身像」と上半身のみを表現する「半身像」があります。
 「半身像」の埴輪の方が多いため、下衣や沓の表現などの下半身の「装い」に関する情報は少ない状況にあります。

 右側の壁面から順に見て行きました、女子埴輪です

 説明です
   女子埴輪  伝東松山市 三千塚古墳群出土  個人蔵
 髷や櫛を挿し、首や腕には玉飾りを着けています(脚の玉飾りは推定復元)。
 耳の位置に貼り付けられた円環状の粘土は耳環と呼ばれる耳飾りの表現です。
 右肩から左脇にかけた袈裟状の布やその下げ緒には曲線や直線の赤彩で文様が表現されています。
 非常に「おしゃれ」な女性埴輪といえるでしょう。

 男子埴輪です

 説明です
   男子埴輪  伝美里町出土   さきたま史跡の博物館 所蔵
 男子の前身像で、上衣と下衣が表現されています。
 鈴を付けた太い帯を胴部に締め、身体の中央に太刀をさげた姿から、身分の高い人物を表現していると考えられます。
 腕には籠手を着け、左の腰には鞆(左手首の内側につけて弓の弦が腕に当たるのを防ぐ道具)が表現されています。
  *頭部は復元

 馬形埴輪です

 説明です
   馬形埴輪  熊谷市 北島遺跡第5号墳出土  埼玉県教育委員会 所蔵
 日本列島では、古墳時代の中期に馬が伝わったと考えられており、馬を模した馬形埴輪が出土しています。
 馬形埴輪の多くは馬に乗るための実用的な道具(鞍や鐙など)以外にも多くの装飾品が表現されており、実際にきらびやかな馬具が多く出土しています。
 また、鬣を髷状に結った表現もよく見られ、馬の全身が「おしゃれ」に飾り立てられていた様子が想像できます。


 農夫埴輪です

 説明です
   農夫埴輪  伝熊谷市東別府出土  さきたま歴史の博物館 所蔵
 笠を被り、鍬を担いで腰には細い帯を締め、帯からは鎌をさげています。
 一見、素朴な農夫を表現しているように見えますが、耳には耳環をつけています。
 「果たして農夫が耳飾りをつけるのか?」と研究者の興味を引く埴輪です。


 ヘアスタイルについての展示です

 かぶり物コレクションです

 入れ墨や化粧の展示です

 古墳時代のファッション展示です

 女性埴輪のファッションです

 古墳時代のアクセサリーです

 耳飾りの展示です

 最後の展示は、勾玉や黄金アクセサリーです

 では、常設展示場(国宝展示場)へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・瓦塚古墳と旧遠藤家住宅」です!!

2024-12-06 06:37:10 | 遺跡・史跡
 瓦塚古墳は、埼玉古墳群のほぼ中央部にある前方後円墳です

 鉄砲山古墳の北側を西へ向かうと

 右手に瓦塚古墳が見えて来ます

 南西側から

 説明版です
   瓦塚古墳
 全長73mの前方後円墳です。
 他の前方後円墳と同じく周囲には長方形の堀が二重に巡り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張り出しがあります。
 また、造出し正面外堀には、通路と見られるブリッジ状の堀り残しがあります。
 整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中提には、琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が立て並べられていたと推定されています。
 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
 古墳の造られて時期は、出土した遺物から6世紀前半から中頃と推定されています。
      平成21年(2009年)3月   埼玉県教育委員会


 西南西側から

 西側から

 くびれ部の造出しです

 北西側から前方部です

 後円部です、後円部の北側は住宅地に成ってしまっているので、欠けています

 説明版です、内容は南西側の説明版と同じでした

 ブリッジです
 
 博物館通路脇には休憩舎がありますので一休みしました

 南側に戻ると旧遠藤家住宅の入り口です

 住宅を南側から見ました

 間取り図説明版です
   旧遠藤家間取り図
 埼玉県幸手市大字千塚から移築された民家で、江戸時代末期に建てられたものです。
 面積は222.453㎡(67.41坪)あります。
 屋根には煙出しの高窓があり棟の両側に火難除けとして「水」と「龍」の文字が書かれています。
 座敷部分はチョウバ・ナカノマ・デイ・チャノマ・オクなどがあります。
 土間部分はダイドコロ・シタザシキ・ウマヤとなっています。
 稲作農家らしく土間が広く屋内での仕事がしやすくなっています。 

 東側には厩(ウマヤ)です

 中央部分には玄関(出入口)です

 土間の台所です

 西側部分です

 座敷が並んでいます、屋根の棟には煙出しです

 では、「さきたま史跡の博物館」に行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・浅間塚古墳」です!!

2024-12-05 19:07:37 | 遺跡・史跡
 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の東端にある円墳です、墳丘上には前玉神社が南向きに鎮座しています

 北側の県道77号古墳通りに面して北東向きに参道が開いています

 前玉神社の案内板です

 北東側の県道77号古墳通りから参道です

 「延喜式内 前玉神社」社號標です

 鳥居の説明版です
   市指定文化財 建造物
     前玉神社の大鳥居
       平成11年3月25日指定
 この鳥居は、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。
 鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代における浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。
   平成13年2月     行田市教育委員会


 駐車場には太い注連縄の巻かれた御神木のマキの大木です(このブログでも紹介させて頂いております)

 説明版です
   行田市指定文化財
     槙(マキ)昭和39年1月31日指定
 前玉神社は、平安時代の「延喜式神明帳」に「前玉神社二座小」と記されている古社です。
 その入口に植えられているこの大木は、「イヌマキ」と称される常緑の高木の雄木です。
 御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で、推定樹齢600年、樹高20m、目通り幹囲4.0m、根回り5.5mを計ります。
 現存する槙としては埼玉県内最大のものです。
 樹幹北部の中心部には大きな空洞があり、その中には木曽御嶽神社の石碑がおかれています。
           行田市教育委員会


 参道を進むとニノ鳥居です

 手水舎です

 右手奥には稲荷神社です

 三ノ鳥居です

 浅間塚古墳の説明版です
   ぎょうだ歴史ロマンの道
     浅間塚古墳
 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。
 古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社がまつられています。
 前玉神社は、平安時代の「延喜式神名帳」にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。
 浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、平成9・10年に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が巡ることが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。
 埴輪が樹(た)てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と推測されています。
 埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。
       平成21年3月     行田市教育委員会
 

 石段を上がると右手に浅間神社です

 社殿北側にも注連縄の巻かれた御神木のマキの木です

 境内社です

 見上げる位置に前玉神社社殿が見えました


 燈籠です

 説明版です
   行田市指定文化財
     石燈籠  昭和42年3月10日指定
 この石段の登り口にある高さ2m、2基の石燈籠は、元禄10年(1697)10月15日に、地元埼玉村(現在の行田市埼玉地区)の氏子一同が奉納したものです。
 本殿に向かって左側の石燈籠には、「前玉之 小崎乃沼余 鴨曾翼霧 己尾余 零置流霜乎 掃等余有斯(前玉の小崎の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし)」と「万葉集」9巻ー1744の「小崎沼」の歌が、右側の石燈籠には「佐吉多萬能 津余乎流布乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曾弥(埼玉の津に居る舟の風を疾み 網は絶ゆとも言は絶えそね)」と「万葉集」14巻ー3380の「埼玉の津」の歌が、美しい万葉仮名で竿の部分に刻まれています。
 この2首の歌は、地元行田市埼玉地区に関連する歌と考えられています。
 この石燈籠は、「万葉集」に納められた歌の歌碑としては、全国的にみて非常に古いものになります。
 江戸時代には「万葉集」の研究が盛んになり、関心も高まっていました。
 そうした中でいち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化的水準の高さと、江戸時代の「万葉集」への関心の高まりがうかがえる、貴重な文化財と言えるでしょう。
       平成23年    行田市教育委員会


 急な石段を上がります

 見上げり位置に拝殿です


 本殿覆い屋です

 木々の間に鉄砲山古墳が見えましたが写真では分かりませんね~

 境内から下りて西側の木々の間に社殿を見上げました

 南側から木々越しに見ました

 では、次は「さきたま史跡の博物館」近くへ戻り、「瓦塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・中の山古墳」です!!

2024-12-05 06:31:07 | 遺跡・史跡
 中の山古墳は、埼玉国古墳群の南端にあります

 公園案内図の一番下側です

 奥の山古墳から南東側へ遊歩道を進むと中の山古墳(西側)です

 北西側から前方部です

 後円部です

 説明版です
   中の山古墳
 墳丘全長推定79m、6世紀末から7世紀初頭の前方後円墳で、埼玉古墳群で造られた最後の前方後円墳です。
 発掘調査の範囲が限られているため、墳丘の規模や埋葬施設、周堀の範囲などが定かでありませんが、二重の周堀が巡り、南側の外堀は戸場口山古墳の外堀に壊されていることが明らかになっています。
 また、かつて墳丘から石棺が発見されたという伝承も残されています。 
 埼玉古墳群の前方後円墳の中では唯一、須恵器生産の方法でつくられた底のない壷のような形をした埴輪が古墳の周りに並べられていました。
 これから須恵質埴輪は、全国的にも例の少ないもので、埼玉古墳群から約30km離れた埼玉県北部の大里郡寄居町末野窯跡群で生産され、中の山古墳まで運ばれていたことが明らかになっています。
       令和5年(2023)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から、こちら側(前方部)は土取りなどで破壊されているようです

 南側から、この東側には住宅が建っていて内堀が遊歩道に成っています

 東側から

 後円部です

 では、中の山古墳の北東側にある浅間塚古墳に向かいましょう

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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・奥の山古墳」です!!

2024-12-04 19:49:40 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳の南西側にあるのが、奥の山古墳です、公園の南端へまず行ってみました

 埼玉古墳群の大きなモニュメント越しに見えるのが奥の山古墳(南西側から)です

 盾持人埴輪です

 説明版です
   奥の山古墳の発掘調査
 奥の山古墳は墳丘全長66m、四角形の二重の堀をめぐらせた前方後円墳です。
 後円部西側には造出しと呼ばれる張出部があり。ここから子持壷や大型器台などの珍しい須恵器が出土しています。
 奥の山古墳は6世紀前半に造られたと考えられています。
 2018年の発掘調査の際に、外堀南西部の形が明らかになりました。
 想定されていた堀の位置とは異なり、中提の隅角部が外側に突き出るような形をしていることが分かりました。
 外堀からは盾持人埴輪が一体見つかっています。
 これまでの整備と最新の発掘成果が一部整合しないため、外堀の範囲を舗装により平面的に表現しています(右の写真「奥の山古墳」の三角形部分)。

 説明版右部分です
   盾持人埴輪
 外堀からは盾持人埴輪がうつ伏せの状態で出土しています。
 盾持人埴輪は、人間の頭と盾が一体化した形をしており、墓である神聖な古墳を邪悪なものから守る役割があったと考えられています。 
 出土した盾持人埴輪の頭部が欠けていたため、瓦塚古墳と将軍山古墳から出土した盾持人埴輪を参考に復元しています。

 後円案内図です、奥の山古墳は下端近くにあります

 西側から奥の山古墳を見ました、造出しが無いようですが説明版によると後円部に張り出しがあるようです

 説明版です
   奥の山古墳
 墳丘全長66mの前方後円墳です。
 奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
 発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
 また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
 後円部墳丘西側には張出部があり、子持壷や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
 こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。
       平成24年(2012年)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から

 前方部です

 南側から

 南東側から前方部です

 後円部です

 北東側から見ました

 鉄砲山古墳の外堀から見ました

 では、次は奥の山古墳の南東側の中の山古墳へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・鉄砲山古墳」です!!

2024-12-04 06:30:53 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳は、藩政時代に鉄砲の発射場(訓練場所)になっていたことに由来する名前だそうです

 二子山古墳から南西側へ

 すぐ南側の県道77号古墳通りを横断歩道で南西へ渡ります

 住宅地を抜けると左手に鉄砲山古墳の後円部が見えて来ました、一部石材店の資材置き場になっているようです

 古墳のくびれ部分がへこんでいいます、この位置は造出しがあったと思われる部分です

 鉄砲山古墳角場遺構(江戸時代忍藩砲術訓練場跡)の標識が立っています

 北側にあった中提造出しは公園(薬草園)に成っています

 北側のフェンス沿いを進んで北東側から後円部です

 更に遊歩道を進んで、南東側から後円部です

 前方部です

 説明版です
   鉄砲山古墳
 墳丘全長107.6m、横穴式石室をもつ6世紀後半の前方後円墳で、埼玉古墳群で3番目の規模を誇ります。
 古墳の名前は、江戸時代に忍藩の砲術訓練場(角場)として墳丘を利用していたことに由来します。
 墳丘は二段築成成、中段のテラスなどには最大で9条の突帯をもつ大型の円筒埴輪が並べられていました。
 墳丘の周囲には、他の古墳と同様に方形の二重周堀が巡ります。
 さらに、外堀の北西側では古墳の堀とみられる遺構も確認されています。
 また、外堀の南西側は、鉄砲山古墳よりも古い時期に造られた奥の山古墳の外堀に接するとみられています。
 古墳が密集し土地が限られいても、他の古墳と同じ様に二重の周堀で囲まれていたようです。
      令和5年(2023)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアの数値も墳丘長107.6mと変わりがありませんでした。後円部径49.7m、高さ8.5m、前方部幅68.1m、高さ9.5mでした。
 また、周堀を含めた全長は163mと推定されていまが、北側の二重堀は水路や民家の敷地になっているため、確認できなくなっていて、南側外堀も南側の奥の山古墳の外堀と重なっています。
 *鉄砲山古墳周辺の木々の伐採計画があるとの表示もありました、写真に写っている大きなケヤキが数本伐られるようです

 南側から

 南西側から見ました

 次は、鉄砲山古墳の直ぐ南側の「奥の山古墳」へ行ってみます
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