ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・奥の山古墳」です!!

2024-12-04 19:49:40 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳の南西側にあるのが、奥の山古墳です、公園の南端へまず行ってみました

 埼玉古墳群の大きなモニュメント越しに見えるのが奥の山古墳(南西側から)です

 盾持人埴輪です

 説明版です
   奥の山古墳の発掘調査
 奥の山古墳は墳丘全長66m、四角形の二重の堀をめぐらせた前方後円墳です。
 後円部西側には造出しと呼ばれる張出部があり。ここから子持壷や大型器台などの珍しい須恵器が出土しています。
 奥の山古墳は6世紀前半に造られたと考えられています。
 2018年の発掘調査の際に、外堀南西部の形が明らかになりました。
 想定されていた堀の位置とは異なり、中提の隅角部が外側に突き出るような形をしていることが分かりました。
 外堀からは盾持人埴輪が一体見つかっています。
 これまでの整備と最新の発掘成果が一部整合しないため、外堀の範囲を舗装により平面的に表現しています(右の写真「奥の山古墳」の三角形部分)。

 説明版右部分です
   盾持人埴輪
 外堀からは盾持人埴輪がうつ伏せの状態で出土しています。
 盾持人埴輪は、人間の頭と盾が一体化した形をしており、墓である神聖な古墳を邪悪なものから守る役割があったと考えられています。 
 出土した盾持人埴輪の頭部が欠けていたため、瓦塚古墳と将軍山古墳から出土した盾持人埴輪を参考に復元しています。

 後円案内図です、奥の山古墳は下端近くにあります

 西側から奥の山古墳を見ました、造出しが無いようですが説明版によると後円部に張り出しがあるようです

 説明版です
   奥の山古墳
 墳丘全長66mの前方後円墳です。
 奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
 発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
 また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
 後円部墳丘西側には張出部があり、子持壷や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
 こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。
       平成24年(2012年)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から

 前方部です

 南側から

 南東側から前方部です

 後円部です

 北東側から見ました

 鉄砲山古墳の外堀から見ました

 では、次は奥の山古墳の南東側の中の山古墳へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・鉄砲山古墳」です!!

2024-12-04 06:30:53 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳は、藩政時代に鉄砲の発射場(訓練場所)になっていたことに由来する名前だそうです

 二子山古墳から南西側へ

 すぐ南側の県道77号古墳通りを横断歩道で南西へ渡ります

 住宅地を抜けると左手に鉄砲山古墳の後円部が見えて来ました、一部石材店の資材置き場になっているようです

 古墳のくびれ部分がへこんでいいます、この位置は造出しがあったと思われる部分です

 鉄砲山古墳角場遺構(江戸時代忍藩砲術訓練場跡)の標識が立っています

 北側にあった中提造出しは公園(薬草園)に成っています

 北側のフェンス沿いを進んで北東側から後円部です

 更に遊歩道を進んで、南東側から後円部です

 前方部です

 説明版です
   鉄砲山古墳
 墳丘全長107.6m、横穴式石室をもつ6世紀後半の前方後円墳で、埼玉古墳群で3番目の規模を誇ります。
 古墳の名前は、江戸時代に忍藩の砲術訓練場(角場)として墳丘を利用していたことに由来します。
 墳丘は二段築成成、中段のテラスなどには最大で9条の突帯をもつ大型の円筒埴輪が並べられていました。
 墳丘の周囲には、他の古墳と同様に方形の二重周堀が巡ります。
 さらに、外堀の北西側では古墳の堀とみられる遺構も確認されています。
 また、外堀の南西側は、鉄砲山古墳よりも古い時期に造られた奥の山古墳の外堀に接するとみられています。
 古墳が密集し土地が限られいても、他の古墳と同じ様に二重の周堀で囲まれていたようです。
      令和5年(2023)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアの数値も墳丘長107.6mと変わりがありませんでした。後円部径49.7m、高さ8.5m、前方部幅68.1m、高さ9.5mでした。
 また、周堀を含めた全長は163mと推定されていまが、北側の二重堀は水路や民家の敷地になっているため、確認できなくなっていて、南側外堀も南側の奥の山古墳の外堀と重なっています。
 *鉄砲山古墳周辺の木々の伐採計画があるとの表示もありました、写真に写っている大きなケヤキが数本伐られるようです

 南側から

 南西側から見ました

 次は、鉄砲山古墳の直ぐ南側の「奥の山古墳」へ行ってみます
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・二子山古墳」です!!

2024-12-03 18:40:52 | 遺跡・史跡
 二子山古墳は、武蔵野国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の古墳で最大の前方後円墳です

 丸墓山古墳の南、稲荷山古墳の南南西、将軍山古墳の南西側に当たります

 二つ山古墳は、二つの山があるように見えることからこの名がります。

墳丘長132.2メートル[1]
後円部径67.0メートル・高さ11.7メートル
前方部幅83.2メートル・高さ13.7メートル
方形の二重周濠をもつ。現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。
西側くびれ部に造り出しがある。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。

古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。

浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。


 将軍山古墳南西側の駐車場から二子山古墳の後円部が見えました

 北西に進んでこの先を左へ入ります

 二子山古墳の北側へのルートです

 二子山古墳内堀の西側の端近くから見ました

 堀跡の草刈作業が行われていましたが、中提と内堀の間には背の高い草があって写真が撮れませんでした

 内堀南西側角から
.
 南西側から、堀の中の草苅が済んで見やすくなったのかな

 説明版です
   二子山古墳
 全長138mの前方後円墳です。
 かつての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 現在遊歩道になっている高まりが中提にあたります。
 内堀は、今は水彫になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています
 本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。
 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀始め頃と推定されています。
     平成20年(2008年)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアでは、違った数値が出ていました
 *墳丘長132.2m、後円部径67m高さ11.7m、前方部幅83.2m、高さ13.7m、西側くびれ部に造り出しがあります。
 墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳(通称仁徳天皇稜)に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なります。
 もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれ、未発掘のため内部埋葬施設は不明ですが周濠からは1mを越える円筒埴輪が、多数出土しています。
 古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられています。

 南側から、内堀は空堀に成っていますね


 すぐ南側の県道77号古墳通りから見ました

 では、次は県道77号古墳通りを渡った南側の鉄砲山古墳です
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・将軍山古墳」です!!

2024-12-03 06:30:11 | 遺跡・史跡
 丸墓山古墳・稲荷山古墳に続いて将軍山古墳です

 将軍山古墳は、実物の横穴式石室を建物の中から見学できる、将軍山古墳展示館が設置されています

 丸墓山古墳の南西側入口脇の案内図です、さきたま古墳公園図の下端(公園の東端)に潰れた形で将軍山古墳です

 南西側の駐車場から見ました、説明版も有ります

 北西側に行ってみました、説明版の脇には外堀のブリッジと左手に造出しです

 説明版です
   将軍山古墳
 将軍山古墳は、全長90m、後円部の直径39m、前方部の幅68mの前方後円墳です。
 明治27年(1894)に、地元の方々によって発掘調査が行われ、横穴式石室から、銅鋺・太刀・鉄矛・甲・冑・金銅製馬具・馬冑・蛇行状鉄器など多数の豪華な副葬品が出土しました。
 造られた年代は、出土した遺物から、6世紀の後半と考えられます。埼玉古墳群の中では、4番目に大きい前方後円墳で、はじめて横穴式石室を採用した古墳です。
 この横穴式石室には、千葉県富津市付近の海岸で採取された「房州石」と呼ばれる石材が利用されており、関東地方の古墳時代の歴史を考える上で重要な古墳となっています。
 平成3年度から平成8年度に、文化庁の協力を得て、墳丘・堀の発掘調査及び復元、石室の保存施設の建設などの整備を行いました。
 発掘調査の結果、周囲には長方形の堀が二重にめぐり、後円部と中提に、死者を弔う祀りが行われた場所と考えられる大きな造出しがあり、稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態であることがわかりました。
 また、前方部には木の棺を竪穴の中に安置した、木棺直葬と呼ばれる埋葬施設が新たに発見されました。さらに、墳丘頂上と斜面の段、堀の中(墳丘から落下したもの)からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、盾・靫・人物などの形象埴輪が出土しました。
 後円部南側には、副葬品の復元模型が置かれた横穴式石室や古墳の断面が見学できる展示館があります。

 後円部と造出しです、円筒埴輪が並べられています

 南西側から見ました

 将軍山古墳展示館へ行ってみましょう

 将軍山古墳南東側の堀跡は無くなってしまっていますが、アオサギが水路脇に居ましたよ

 後円部南側に将軍山古墳展示館です

 将軍山古墳展示館に入ります、通常入館料が必要ですが「埼玉県民の日」ということで無料でした

 一階の展示室に入りました、将軍山古墳出土の埴輪などが並んでいます

 騎馬像が展示されています


 説明版です
   復元!古墳時代の馬の装い
 わが国に騎馬の風習がはじまるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
 馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。
 将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗をつけて飾りたてる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。

 二階へ上がると、横穴式石室(玄室)の復元展示です

 馬具装着想定図です
 将軍山古墳から発見された馬具には、騎乗に必要な轡・鞍・鐙・馬を飾るための鏡板・辻金具・鈴・杏葉・雲珠・蛇行状鉄器、戦いの際に馬の頭を保護する馬冑があります。
 これらの馬具の中で、馬冑と蛇行状鉄器は全国的にも発見例が少ない貴重な資料です。蛇行状鉄器は、鉄棒を数段にわたって折り曲げ、一方を二股に作って鞍に装着し、片方の端に旗竿を差し込んだものです。
 この使用例は、埴輪や朝鮮半島の古墳の壁画にみることがでみます。
 将軍山古墳からは鉄製の珪甲と衝角付冑が出土しています。これらは敵の攻撃から身を守るための防具です。
 珪甲は約900枚の小札とよばれる孔の開いた細長い小さな板を、紐や革で綴じ合わせて作る「よろい」です。
 衝角付冑の頂には、三尾鉄とよばれる後方に3本の枝が出る小さな部品が付き、ここには、偉容を表わすために鳥の羽をつけていたようです。
 想定図のように、頸・肩・腕を守るための装具が出土する例もあり、これらで武装すると30kg近い重量になります。

 遺構模型配置図です
 将軍山古墳は、埼玉古墳群で初めて横穴式石室を採用した古墳です。石室は石積みで造られ、棺を納めるための長方形の玄室と、外部から玄室に通じる羨道で構成されています。
 側壁の石は、120kmも離れた千葉県富津市の海岸で採取されたと考えられる「房州石」が使用され、天井には埼玉県長瀞町付近で採取される、大きな板状の緑泥片岩を使用していました。
 現在は石積みの最下段だけが残り、他の部分の石は、石室周辺の土とともに消失していました。また、羨道も全長の半分以上が失われています。
 将軍山古墳の横穴式石室は、明治27年(1894)に最初の発掘が行われ、多数の豪華な遺物が出土していることで知られています。
 しかし、遺物の多くは破損し、腐食していることから、これらの遺物の復元模型を製作し、石室内に副葬された当時の状態を想定して配置し、埋葬のようすを再現してみました。
 遺体の安置には木棺が使われ、鏡・金環・玉・大刀は棺の中に納められます。矛や矢は棺の周辺に、銅鋺や須恵器などの容器は棺の手前に置かれ、甲・冑などの武具、鞍・鐙などの馬具は各々がまとまりをもって置かれたと推定されます。
 副葬品には時期差が認められることから、追葬が行われたことが考えられます。その際には古い副葬品は隅にかたづけられたようです。

 では、将軍山古墳展示館を出て、次は南西側の二子山古墳へ行ってみましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・稲荷山古墳」です!!

2024-12-02 18:30:15 | 遺跡・史跡
 続いて、前回の丸墓山古墳頂から東側に見えた稲荷山古墳です

 稲荷山古墳は、国宝指定の「金錯銘跌剣」を初めとする多数の遺物が出土しています

 丸墓山南西側のさきたま古墳公園案内図です、稲荷山古墳は図の左端(さきたま古墳公園北の端)にあたります

 南西側の稲荷山古墳入口です

 左手(西側)に丸墓山古墳を見ました

 前方部です

 説明版です
   稲荷山古墳
 全長120mの前方後円墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。
 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。
 そのうち礫槨は良く残っており、多くの副葬品が発見されました。
 その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。
      平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 左手の二重堀跡です、中提に遊歩道が通っています

 復元された前方部に登ります

 前方部から後円部です

 一度くびれ部に下って行きます

 後円部に登ります

 後円頂部です

 頂部西側に頭部が北東に向いた埋葬施設です

 南東側から

 説明版です
   国宝武蔵稲荷山古墳出土品
 115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。
 多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。 
 これらの資料は詳しく解説とともに博物館に展示しています。
   稲荷山古墳 礫槨
 1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。
 舟の形に堀た竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。
 棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。
 実物の礫槨は、地下1mに保存されています。

 頂部の南西側には二つ目の埋葬施設が石の列で表現されています

 説明版です
   稲荷山古墳 粘土槨
 この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。
 盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。


 西側に丸墓山古墳です

 南側に将軍山古墳です

 北東側に下りて来ました

 北側から稲荷山古墳を見ました

 中提部の遊歩道を南西へ進みます

 北側の造出しです

 南側から後円部です

 では、公園内広場を真っ直ぐ南へ出て、「将軍塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・丸墓山古墳」です!!

2024-12-02 06:37:00 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月14日埼玉県民の日の埼玉(さきたま)古墳公園の取材分を古墳毎の紹介させて頂きます

 埼玉古墳群は、行田市役所の南東約2kmのところ、市役所は忍城跡に当たります

 まず最初は、丸墓山古墳です、豊臣秀吉の小田原攻(北条氏)の際に、石田三成が陣を置いた事でも有名です。
 和田竜による日本の歴史小説として、またそれを原作とする2012年の日本映画、野村萬斎さん主演の「のぼうの城」でも描かれていますね
 忍城跡や石田堤の考察は、「余呉くんのお城のページ」に詳しく出ていますので参考にしてくださいね

 今回は、赤城山(群馬県前橋市:深田久弥の日本百名山第40番)にキャンプに行った帰りで、利根大堰(行田市大字須加字 船川)で魚道の様子を見て(魚はいませんでした)から、県道20号から県道306号へと南下して、「野合新橋信号」を左(東南東)へ

 間も無く左手の駐車場の入り、奥(北)側に車を止めさせて頂きました

 駐車場脇の「さきたま古墳公園 案内図」です。丸墓山古墳は図の上方に丸い黄緑で表現されています

 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の北側の県道入口から北へ伸びる遊歩道北東へ進みます

 丸墓山への入口です、桜並木は石田堤に上に植栽されています

 古い「さきたま古墳公園案内図」です

 石田堤説明版です
   石田堤
 この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。
 長さ約28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川のミスを流入させたと言われています。
 三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。

 「史跡埼玉村古墳群」の標柱です

 「埼玉村古墳群」石碑です
    埼玉村古墳群
 武蔵北部は隣国上野と共に古墳の依存殊に多く、凨に人煙稠密交運の発達熾なるを察せしむ本村は、寶年真中樞を占めて埼玉郡名北基く所、縣名また此属に由来し百越沼で算する大小の古墳累々起伏するもの故なきに非ず。
 昭和13年8月特に顕著なる丸墓山、二子山・・9基は埼玉村古墳群として文部大臣より史跡の指定を受けしが、古墳群の指定は僅かに九州に1例のみ、まして未だ他余見ざる所なり。
 丸墓山は規模壮大に圓境として布有の・・に属し、天正18年豊臣氏の小田原征討の際、部将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると傳へられ、今回保存の・・全うせん為め挙村の協力に依り指定地域を村有と為に堂召建碑の議あり、本史跡は指定に関係なること前後久しき放を以て予に其汜残属せらるのち一言を氏・に叙す。
     昭和14年10月   柴田常恵・・撰  ・村担・書
 *読めない文字が沢山ありました<m(__)m>
 *柴田 常恵は、明治10年(1877)~昭和29年(1954)、日本の歴史考古学者で、慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任しています。

 丸墓山古墳説明版です
    丸墓山古墳
 直径105mあり円墳では日本最大級です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約17mあります。
 墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。
 出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。
 埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
 南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。
 水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。
        平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 *ウィキペディアによると・・・
 最大の円墳は埼玉古墳群中にある丸墓山古墳(墳径105m)とされてきた。しかし奈良県奈良市にある円墳の富雄丸山古墳を市教育委員会が平成29年(2017)に測量調査した結果、従来直径86mとされていたこの古墳が直径110m前後に復元できることが判明した。
 そうなれば富雄丸山古墳が丸墓山古墳を抜いて最大の円墳となる。ちなみに前方後円墳最大の大山古墳の後円部径は250mであり、後円部径が100mを超える前方後円墳は約50基を数える。
 と、なっていて、説明版の「最大級」の上張りされた理由ですね

 丸墓山へ登りましょう

 丸墓山に上がって来ました

 振り返って南西側の上り口です

 北西側です

 忍城の御三階櫓を模した「行田市郷土博物館」です

 北西側には説明版です
   丸墓山古墳と忍城
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。
 丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。
 北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。 

 東側には、左手に金文字鉄剣で有名な「稲荷山古墳」と右手に古墳が展示館に成っている「将軍山古墳」が見えます

 北東側の下り口です

 北東側に下って来ました

 丸墓山古墳頂部です

 丸墓山古墳の北西側にはの石だ堤の跡のような高まりです

 では、次は「金錯銘鉄剣」出土の「稲荷山古墳」へ行きましょう 
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岩手県陸前高田市、気仙町砂盛「 高田松原の奇跡の一本松と大防潮堤」です!!

2024-12-01 07:01:00 | ドライブ
 気仙町砂盛地区は、陸前高田市役所の南西約2kmのところ

 道の駅高田松原・東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)が併設されていて、JR釜石線BRTの「奇跡の一本松駅」にもなっています。

 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した「旧道の駅高田松原(タピック45)」でしたが、新たに「重点道の駅」に選定され、震災の犠牲者への追悼と鎮魂、復興への強い意志を国内外に向けて明確に示すことを目的として整備されました。
 「高田松原津波復興祈念公園」は、約130 ㌶( 東京ドームおよそ30 個分)という広大な面積を誇り、国、県、市による復興プロジェクとの一環として、令和3年(2021)に完成しました。
 「国営追悼・祈念施設」及び「東日本大震災津波伝承館」が、たくさんの方に追悼や学習のためなどに利用され、この日も、土曜日ということもあり大勢の方々が、道の駅を利用していました。

 駐車場南西端に車を止めさせて頂きました
 
 曇り空で降ったり止んだりの一日でしたが、降らないようなので「道の駅高田松原 大屋根休憩スペース」から南西に向かいます

 右手に見えるのは

 巨大なベルトコンベアの基礎(土台)です

 説明版です
   希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎
 ・希望のかけ橋
 東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。
 その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。
 気仙川をはさんで、高台の住宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。
 2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月末までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。
 これは、かさ上げ盛土に必要な1200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。
 市内の小学生に公募し決定した希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。
 ・復興遺構として後世に伝える
 2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存がけっていしました。
 ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てるのないつり橋構造が採用されました。
 復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。

 対岸に「奇跡の一本松」が見えて来ました

 奇跡の一本松の説明石碑です
   奇跡の一本松
 平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。
 陸前高田市においても多くの方々が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。
 そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
 震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」。
 その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
 この保存企業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。
 みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。
         平成25年3月  陸前高田市

橋を渡って北側から、後方にはユースホステルの残骸です

 震災遺構 奇跡の一本松
 ・震災前の「奇跡の一本松」
 東日本大震災津波被害前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風、防潮林としての植林がその始まりでした。
 その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。
 しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。
 「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老樹のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。
 ・被災状況
 2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した大津波は、5.5mの防潮堤(当時)を倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。 
 過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツが流失しました。
 その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
 震災津波で深く傷ついた人々の心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡った「奇跡の一本松」でしたが、海水により深刻なダメージを受けており、震災翌年の2012年(平成24年)5月には、枯死が確認されました。 
 しかし、保存を願う市民、また内外からの温かい支援により、モニュメントとして保存され、今も震災の記憶を伝え続けています。
 ・保存活動ーー奇跡の一本松プロジェクトーー
 枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指したプロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。
 屋外でのこのような保存例はありませんでした。そこで幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるため芯棒を入れ、その素材には航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。
 2013年(平成25年)6月に完成しました。

 東側から見上げました

 「奇跡の一本松」の南側には、震災遺構「陸前高田ユースホステル」です

 陸前高田ユースホステルの説明石碑です
   震災遺構 陸前高田ユースホステル
 「陸前高田ユースホステル」は風光明媚な高田松原公園内にあった宿泊施設でした。
 1969年(昭和44年)竣工の鉄筋コンクリート2階建て、延べ床面積698㎡、玄関ホールを中心に左右に客室がのびた美しい建物でした。
 2011年(平成23年)1月から休館中だったため東日本大震災津波の発災当日は無人でしたが、津波によって建物は完全に水没。
 砂地だった地盤が大きくえぐられ、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿は、津波の脅威を如実に物語っています。
 「奇跡の一本松」は、この建物があったために津波の直撃を免れ、倒れることなく残ったと考えらてれます。

 北東側から

 東側から見ました

 奇跡の一本松の東側には「被災したマツの根株」がありましたが、ほぼ残っていません

 説明石碑です
   被災したマツの根株
 巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。
 津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がった沢山のマツの根株が残されていました。

 大防潮堤に登って見ましょう

 奇跡の一本松付近に「松坂新右衛門翁顕彰碑」が設置されました。この碑は東日本大震災津波で流され気仙川水門工事の際に発見されたものです。松坂新右衛門はかつて江戸時代に不毛の地であったこの場所に私財を投じ松を植え高田松原の礎を築き、初めて植林に取り組んだ菅野杢之助と並ぶ偉人の一人です。(高田松原の北東側にあったとされる菅野杢之助翁顕彰碑はまだ見つかっていません)
 顕彰碑の文面には・・・
    松坂新右衛門定宣翁
      顕彰碑
        岩手県知事 千田正 書
 この旧称今泉松原は、その始め享保年中気仙町和名倉松坂家第4代の租松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたのである。
 当時此の地は一木も無く、海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し、収獲皆無こと再びに及んだ。
 翁は此のことを深く憂え、之が対策は防風林の造成にあるのみと、多額の私財を投じて苗木を求め、人夫を雇い、自らも身を挺して赤松の数千を植え付け、更に幾多の悪条件を克服し、かつ補植をつづける管理をよくし、以て今日の美林の基をつくりあげた。
 それより歳月を経ること250余年、我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り、安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ。是皆翁の深慮の賜と言うべきである。
 気仙川の清流は、滔々として千載に語り、太平洋の碧浪は白砂を打って賛歌を奏で、翁の功業を常してに称えようとしている、我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し、永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て、以て顕徳の微意を表する次第である。
        昭和47年仲春

 三陸ジオパーク説明版です
   高田松原ジオサイト
 ・概要
 高田松原には、かつて約2kmに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防潮林として存在していました。
 東日本大震災津波で甚大な被害を受け、奇跡的に残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなっています。
 南部三陸海岸は、入り組んだ岬や入り江で知られるリアス海岸が天然の良港となるとともに、複雑な岩礁が海洋資源を育んでいます。
 一方で、湾の入り口から奥へ狭くなる形状と、水深が浅くなる地形的特徴から、津波の波高が大きく増幅されるため、繰り返し大きな被害に見舞われてきました。
 ①繰り返される津波被害
 ②災害文化の伝承と次世代への継承
 周囲の見どころ
 ③玉山金山跡
 ④氷上山
 ⑤気仙縄文遺跡(「中沢浜貝塚」)
 ⑥南部北上帯の古生界
 三陸地域の成り立ち
     三陸ジオパーク推進協議会
 ③

 防潮堤の斜面を上がると西側に気仙川水門が良く見えます

 防潮提に上がりました、右(西側)から

 南側です、松原の再生が進められています

 東側ははるか遠くまで防潮提が続いています

 高田ユースホステルと奇跡の一本松を見下ろしました

 気仙川水門へ行ってみます

 防潮堤上から南側(広田湾)側に下りて水門を見上げました

 東側は波に洗われていますので諦めて戻ります

 水門脇から高田ユースホステルと奇跡の一本松を見ました

 防潮堤上を東へ進みましょう

 「道の駅高田松原」正面(南東側)の「海を望む場」から西側の松原です

 南側です

 東側です

 「道の駅高田松原」へ戻りましょう

 戻って来ました、右側(北東側)が東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)です

 賑わって居たので、トイレだけ借りて、今回の宮城・岩手の取材旅行2024年10月15日からの5日間を終わりにし、三陸道から東北道で埼玉へ戻ることにしました

 2024・10・19・15・00


 今回は、かなり長いブログに成ってしまいました、ご覧いただきありがとうございます<m(__)m>


コメント (1)
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岩手県住田町、世田米清水沢「浄福寺参道のイチョウ群」です!!

2024-11-30 18:45:00 | 巨樹・大木
 世田米清水沢地区は、住田町役場の北西約600mの気仙川対岸のところです

 住田町役場を南西に出て、国道340号線を北西へ

 約900mの美土里橋を渡って直ぐの信号を右(北東)へ

 約600mで左(北東)へ直ぐの左手に

 浄福寺参道です

 参道入口に車を止めさせて頂きました

 参道左手にスギの大木が並びます、一番手前が合体木ですが目通り幹囲8.5mの巨木です

 三本が寄り添っています

 北側から

 さらに3本が間を置いて並びます
 
 単幹では一番太いと思われるイチョウです

 北側から、目通り幹囲5.7mとされるイチョウのようです

 更に3本のイチョウです

 参道を登った駐車場入り口のイチョウです

 北東側から見ました

 境内入口石段です、石段の上に松の樹冠が見えます

 参道右手に傘松です

 幹を見上げました

 鐘楼です

 本堂です

 本堂南側のモミの巨木は、親鸞聖人像に変わってしまいました

 南側から見上げました、モミはかつて目通り幹囲5.0mの巨木でした

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・40
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岩手県住田町、上有住中井「上有住の一本松」です!!

2024-11-30 06:34:00 | 巨樹・大木
 上有住中井地区は、住田町役場の北約6kmmのところ
 
 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約5.2kmで左手に「万福寺の門杉」入口を過ぎて約1.7kmで

 道路右手(南側)に形の良い大きなアカマツがあります、後方には気仙川に架かる小台橋です

 すぐ先の交差点北側に車を止めさせて頂きました

 夢がかがやく上有住(かみありす)史跡・景勝地案内板です、左下の赤〇が表記の一本松です

 北東側から

 東側から、一本松の案内板と一緒に

 南東側から

 東側から幹を見上げました、目通り幹囲3.4mの大木です

 幹に薬剤注入の表示が止められています、施工令和3年2月17日・樹木番号30・胸高直径109cm等の表示があります

 北側から

 西側から

 道路北側の北西側から

 北側から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・20
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岩手県住田町、下有住十文字「万福寺の門スギ」(町指定)です!!

2024-11-29 18:39:00 | 巨樹・大木
 下有住十文字地区は、住田町役場の北約6kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約5.1kmの「下有住郵便局」の先約200mで左手に万福寺の寺号標が見えますので、左(北西)へ入ります

 間も無く南東向きに万福寺参道入口です

 石段の両脇に目的の門杉です

 参道右(東)側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 北東側から二本を魔ました、手前が参道右(東)側のスギです


 参道石段左(西)側のスギです

 北東側から。目通り幹囲4.6mの大木です

 北側から


 参道石段右(東)側のスギです


 西側から、目通り幹囲5.6mの巨木です

 北西側から


 参道石段を上がります

 本堂です

 説明版です
   外舘城(とだてじょう)と万福寺
 外舘城は、応永年間(1394~)葛西の臣紺野美作守の居城(気仙風土草)、或は、紺野右近の居城であったと言われ、東西30m、南北40mの本丸、ここを中心に、三段土檀が取り巻き、苗代沢より水を引き、中腹から水路を通して気仙川に捨てる等、優れた技法で築城されている。
 場内中段に天正元年(1573)曹洞宗普門寺3世勅得賜俊明佛覚禅師大竜長熈大和尚の開創された、金昌山萬福寺がある。
 当寺は、城主紺野美作守に関係があると考えられるが、明治2年旧3月4日、19世十州大和尚焼死示寂とともに、本堂庫裡建物一切火災に遭い、貴重な書類什宝を焼失している。
 その後、昭和3年本堂を再建し、今日の伽藍を見るに至っている。

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・10
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岩手県住田町、下有住高瀬「長桂寺の門スギと杉」です!!

2024-11-29 13:07:00 | 巨樹・大木
 下有住高瀬地区は、住田町役場の北西約4kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約2.7kmの横断歩道の手前を右(東)へ入って気仙川を高瀬橋で渡ります

 右手に「長桂寺の杉」が見えますが、先に「玉桂」を見て来ました

 西向きの参道入口です

 石碑が並びます、右後方の黄葉した木が「玉桂」です

 参道を進むと「長桂寺の門杉」ですね(カメラのレンズに水滴が付いています)

 目的の「長桂寺の杉」です

 御月山 長桂寺寺号標です

 北側から

 北東側から、目通り幹囲5.6mの巨木です
 
 手水です

 東側から

 門杉を見ました

 本堂です

 説明版です(右側の中清水観音から)
   気仙三十三観音十五番札所
     中清水観音(なかしずかんのん) 
 中清水現当主の吉田孝守さんによると、「昭和8年に長桂寺の本堂を新築した時、ご本尊の前仏がないというので、中清水観音を寺に寄贈した」という。
 長桂寺の阿部住職も「それ以来、寺に”永久預け”となっており、十六番札所(聖観音菩薩)との2つの観音像が寺に安置されている」と話している。
 中清水観音は水月観音ともいわれ、高さ20cmほどの小さな仏像だが「唐仏」とある通り、東洋と西洋が融合したようなエキゾチックなイメージを漂わせる。
     住田町下有住字高瀬145
   気仙三十三観音十六番札所
     長桂寺聖観音(ちょうけいじしょうかんのん)
 この寺は宮城県栗原市涌谷の竜渕寺の末寺とされ、開基は古く、天文23年(1554)室町時代後期に当たる。
 寺号の由来となっている樹齢800年とも1000年とも言われる「玉桂(たまかずら)」が本堂の北側100mのところに豊かな枝を伸ばしている。
 内陣正面に、ご本尊の釈迦如来像をはさんで、向かって左側が聖観音、右側に中清水観音(十五番札所)が祀られている。
 1カ所に2つの観音さま(札所)があるのは、気仙三十三観音霊場でもここしかない。
     住田町下有住字高瀬145
   
 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・14・00
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岩手県住田町、下有住高瀬「長桂寺の玉桂とカヤ」です!!

2024-11-29 06:39:00 | 巨樹・大木
 下有住高瀬地区は、住田町役場の北西約4kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約2.7kmの横断歩道の手前を右(東)へ入って気仙川を高瀬橋で渡ります

 右手に長桂寺の参道です、「長桂寺の杉」が見えます

 道路右手に「玉桂」が見えました

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南西側から

 南側から、目通り幹囲16.7mの巨木です

 説明趙慶次
   玉桂と長桂寺
 天文23年(1554年)一翁舜獄大和尚により開基された。
 寺の寺号を、近くに高く聳え立つ桂があることから長桂寺と定めた。
 当時は旅する人達の目標(めじるし)となる高い桂だったに相違ない。
 其の後落雷により幹は倒れ、その根本から数十本の芽が伸びて、遠くからの眺めは大きな玉のようだったので、人呼んで玉桂という。
 その根本から豊量の湧き水が出て付近の住民から崇拝されている桂である。
 享保3年(1718年)高田村佐々木三郎左エ門が詠んだ「気仙三十三観音十六番札所御詠歌」に
     永き世の 法のしるしや玉桂 花咲く春に あうぞうれしき
 この桂の樹齢は800年~1000年は経っているであろう。
                  住田町

 南東側から、第一世代は説明版の通り無くなっています

 東側から

 根元には「水神宮」の祠です、もう一つの祠と石祠のお名前は分かりませんでした

 東北東側から

 北東側から

 北側の根元近くの水場には湧水があります

 玉桂の北側にカヤの大木です

 南側の幹です、目通り幹囲4m(目測)の大木です

 西側の幹です、なぜか新聞受けがぶら下がっています

 北側道路から見ました

 南西側から

 南側からも

 では、長桂寺へ行きましょう



 2024・10・19・13・50
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岩手県遠野市、小友町29地割「大葛沢のサワグルミ2本」です!!

2024-11-28 18:32:00 | 巨樹・大木
 小友町29地割地区は、遠野市役所の南西約14km、遠野市役所 市民センター小友地区センターの南南東約5kmのところ

 遠野市役所 市民センター小友地区センター北側の道路を西へ進みます

 約500mの「⇙大船渡12km」の標識に仕上がって左(南東)へ、国道107号線へ出ます

 約5.4kmでスギ林の手前を左(東)へ入ると

 目的のサワグルミが見えて来ます

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 目的のサワグルミは2本並んでいますが、東側の1本は幹が途中で伐られています

 西側の一本を南西側から

 南側から、目通り幹囲5.1mの巨木です

 もう一本を南側から

 南東側から、目通り幹囲4.1mの大木です

 天然記念物標柱です

 東南東側から2本を見ました

 東側から

 道路から見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・13・20
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岩手県遠野市、小友町32地割「大洞の千本カツラ」(市指定)です!!

2024-11-28 12:32:00 | 巨樹・大木
 小友町32地割地区は、遠野市役所の南西約13km、遠野市役所 市民センター小友地区センターの東南東約3km

 遠野市役所 市民センター小友地区センター北側の道路を西へ進みます

 約500mの「⇙大船渡12km」の標識に仕上がって左(南東)へ、国道107号線へ出ます

 約3.1kmで「大洞」バス停の手前を左(東)へ入ります

 約400mで道路が電気柵で封鎖されています

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 電気柵が遠野遺産第74号「千本カツラ」の標柱の間を通ています

 右手の砂利道の先に大きなカツラが見えました

 目的の「大洞の千本カツラ」です

 西側から見上げました

 遠野市指定天然記念物「千本カツラ」の標柱です

 *グーグルマップでは小友の千本カツラ(大洞の千本カツラ)となっています

 南西側から、目通り幹囲19.4mの巨木です

 南側から、第一世代は既に姿を消して大きな空間に成っています

 根元には東向きに祠です

 南東側から

 東側から

 北東側から見上げました

 南側の一段高い耕地の縁から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・13・10
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岩手県奥州市と花巻市・遠野市の境界「五輪峠の五輪塔と宮沢賢治詩碑」です!!

2024-11-28 06:40:00 | ドライブ
 五輪峠は、奥州市役所の北東約32km、遠野市役所の西南西18kmのところです

 奥州市側の県道27号線の「米里大谷地バス停」(標高約345m)から県道174号小友米里線を東へ進みます

 道成りに約5.2km坂道を上がってきました

 遠野市の標識です

 反対側(東側)からは奥州市の標識です

 北側には「花巻市営東和五輪牧野」です

 文化12年銘の石碑です

 北側に大きな五輪塔がありますが、五輪峠の名前の元となった五輪塔は小さなものだったようです

 五輪峠(標高約556m)の竣工記念碑です

 五輪牧野記念碑です、記されているのは・・・

 そばの案内文です
    五輪牧野記念碑
  五輪峠と名づけしは  地輪水輪また火風
  (巖のむらと雪の松)  峠五つの故ならず
  ひかりうづまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち
  苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ
            宮沢賢治

 説明版です
   宮沢賢治詩碑「五輪峠」案内
 五輪峠は、遠野市小友、奥州市人首、花巻市田瀬を結ぶ県道の接点で、峠の標高は556m。かつては、遠野街道、人首街道の要所であった。
 隣接する種山高原は、南方5kmの地点にあり、盛岡高等農林学校3年時、江刺郡地質調査で初めて踏査して以来、多くの作品に登場する賢治ゆかりの高原である。
 詩碑「五輪峠」「文語詩五十扁」は、東和町五輪牧野解法10周年記念として、五輪牧野記念碑建立委員会によって、郷土の書家である菅原一峯氏の揮毫を刻し、五輪塔と並んで昭和55年8月に建立し、11月5日に除幕された。
 なお、平成17年3月と平成18年8月に、文部科学省によって「イーハトーブの風景地」として、五輪峠を含め7カ所が国の名称に指定されている。
       花巻市

 賢治と五輪峠の説明版です
 五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。慶長年間には遠野郷の阿曽沼氏と南部氏の戦いが行われ。多くの血が流されたといいます。
 また、藩政時代には「人反し」(他藩に逃亡した罪人が交換されること)の場所として利用されたり、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。 
 賢治の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できますが、彼はその日、花釜線の鱒沢駅方面から鮎貝~切伏~五輪峠の行程を、おそらく知人と共にか、またはその彼の案内で、五輪峠から上大内沢を経て、人首町方面へ歩いて行ったことが考えられます。(五輪峠の北東側から南西側へ歩いた)
 詩中に「向こうは岩と松との高み / その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいている」とありますが、これは峠の頂上付近の情景で、現在も同じように大きな空間が広がっています。
 今も、茂みの少ない春先になると、そのはるか向こうに水沢や北上平野が眺望できます。
 昭和32年の道路開通工事で、すっかり頂上付近の様子は変わりましたが、現在のどっしりとした五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、子供でも動かせるような大きさだったと言います。
 おそらく、それが賢治の目に映った「そんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
 その由来については約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた千葉日向という侍が、父の菩提を弔うために建立したものと伝えられています。       
         賢治街道を歩く会

 賢治の歩いた峠道の説明版です
 五輪峠は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。
 特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほとんど昔のままの状態が残っています。
 今では地元住民にも忘れ去られてしまおうとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同39年には高名な俳人の河東碧梧桐、またその後の大正6年9月の江刺郡の地質調査時です。
 同行した友人の高橋、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホ―、ホー20万年もの間陽の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。
 賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正13年3月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。
 特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の「春と修羅」に収められた「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。
 現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。
          賢治街道を歩く会

 遠野市側(東)へ下って行きます


 2024・10・19・12・40


 
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