一宮町西丁地区は、徳島市役所の西南西約10km、徳島市役所入田支所の東南東約2kmのところ
徳島市役所入田支所東側に道路を南へ、約200mの入田郵便局前丁字路を左(東)へ、県道21号神山鮎喰線です
道成りに約2kmで県道右手に「大日寺」駐車場の看板が出ていますので、車を止めさせて頂きました
「四国三十三観音霊場」案内図です、大日寺は観音霊場の第5番に指定されています
大日寺までは約200mです、歩いて行きましょう
南南西向きの大日寺山門です
日本遺産のプレートです
日本遺産「四国遍路」
四国霊場第13番札所 大日寺
弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、約1200年を越えて発展継承され、今なお人々ににより継続的に行われている。
地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るストーリーの一つとして、日本遺産に認定された。
第13番札所の大日寺は、大栗山と号す真言宗寺院で、弘法大師が当地で大日如来像を刻んで本尊としたと伝えられているが、今は十一面観世音像が本尊として祀られている。
山門東側の県道沿いに鐘楼です
山門を入ると正面に観音様です
本堂は左(西側)ですので、まずは手水舎です
お地蔵様です
慈母観音様です
地蔵堂です
東南東向きに本堂です
大師堂は山門入った右手に西北西向きです
では、納経所に寄って記入して頂きました
納経所で「和菓子」を頂きましたよ
大日寺向かい側には「阿波国一之宮 一宮神社」「一宮城跡」があります、一宮城説明版です
県指定史跡 一宮城跡
一宮城は暦応元(1338)年、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳が控える県内最大級の山城跡である。
一宮氏の山城として整備されたが、天正10(1582)年長宗我部元親の侵攻を受け、また、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐時には、鮎喰川を挟んだ辰ヶ山に陣を構えたとされる豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となった。
同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は、一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると、徳島城の支城(阿波九城の一つ)として、家臣の益田長行に守城させた。
元和元(1615)年の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15(1638)年廃城となった。
現在、標高144mの山頂の本丸を取り巻くように、明神丸・才蔵丸・小倉丸・椎ノ丸・水ノ手丸などの曲輪、堀や土塁が遺存し、南北朝時代から戦国時代にかけての山城の荒々しさと、それを守っていた当時の武士の剛健な気風をしのばせる。
現地点から約600mで本丸跡に至る。また、山麓の寄神社周辺は「御殿居」と呼ばれ、城主の居館跡であるとの伝承が残っている。
平成21年3月 徳島市教育委員会・一宮城跡保勝
*阿波国一之宮は、鳴門市大麻町の「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」と、元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町、大日寺から南西に約15km)の二つが阿波国一之宮であったが、上一宮大粟神社が参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一之宮となったと伝えられているそうです。
では、次へ行きましょう
2024・6・10・8・30
徳島市役所入田支所東側に道路を南へ、約200mの入田郵便局前丁字路を左(東)へ、県道21号神山鮎喰線です
道成りに約2kmで県道右手に「大日寺」駐車場の看板が出ていますので、車を止めさせて頂きました
「四国三十三観音霊場」案内図です、大日寺は観音霊場の第5番に指定されています
大日寺までは約200mです、歩いて行きましょう
南南西向きの大日寺山門です
日本遺産のプレートです
日本遺産「四国遍路」
四国霊場第13番札所 大日寺
弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、約1200年を越えて発展継承され、今なお人々ににより継続的に行われている。
地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るストーリーの一つとして、日本遺産に認定された。
第13番札所の大日寺は、大栗山と号す真言宗寺院で、弘法大師が当地で大日如来像を刻んで本尊としたと伝えられているが、今は十一面観世音像が本尊として祀られている。
山門東側の県道沿いに鐘楼です
山門を入ると正面に観音様です
本堂は左(西側)ですので、まずは手水舎です
お地蔵様です
慈母観音様です
地蔵堂です
東南東向きに本堂です
大師堂は山門入った右手に西北西向きです
では、納経所に寄って記入して頂きました
納経所で「和菓子」を頂きましたよ
大日寺向かい側には「阿波国一之宮 一宮神社」「一宮城跡」があります、一宮城説明版です
県指定史跡 一宮城跡
一宮城は暦応元(1338)年、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳が控える県内最大級の山城跡である。
一宮氏の山城として整備されたが、天正10(1582)年長宗我部元親の侵攻を受け、また、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐時には、鮎喰川を挟んだ辰ヶ山に陣を構えたとされる豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となった。
同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は、一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると、徳島城の支城(阿波九城の一つ)として、家臣の益田長行に守城させた。
元和元(1615)年の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15(1638)年廃城となった。
現在、標高144mの山頂の本丸を取り巻くように、明神丸・才蔵丸・小倉丸・椎ノ丸・水ノ手丸などの曲輪、堀や土塁が遺存し、南北朝時代から戦国時代にかけての山城の荒々しさと、それを守っていた当時の武士の剛健な気風をしのばせる。
現地点から約600mで本丸跡に至る。また、山麓の寄神社周辺は「御殿居」と呼ばれ、城主の居館跡であるとの伝承が残っている。
平成21年3月 徳島市教育委員会・一宮城跡保勝
*阿波国一之宮は、鳴門市大麻町の「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」と、元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町、大日寺から南西に約15km)の二つが阿波国一之宮であったが、上一宮大粟神社が参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一之宮となったと伝えられているそうです。
では、次へ行きましょう
2024・6・10・8・30