騎西城祉は、加須市に成ってしまって、騎西町が無くなったので
わかりずらい人も多いかも知れませんが、関東平野の真ん中?
圏央道の白岡菖蒲インターチェンジを下りて
国道122号線を北へ6km
騎西の町に入って右に行くと
生涯学習センターを見つける前に天守閣?を見つけることが出来ます
説明版です、この、天守閣?の建っている所は、嘗ての外堀の位置ですね
騎西城跡
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉、
長尾、庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄6年(
1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落している。
徳川家康が関東に入った天正18年(1590)松平康重が2万石で城主となる。康重は
大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている、その後大久保忠常・忠職
父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った、寛永9
年(1632)忠職の、美濃国加能城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。
―掘り出されて騎西城―
昭和54年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国~江戸初期の堀跡や武器・
武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り。堀幅最大45mであた。
激戦に備え総力で築いたことを物語っている。
出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金属製品がある。このほ
か、大量の漆・木製品も出土している。漆黒の兜、金色に輝く馬の鎧、鶴紋の漆椀に加え、
下駄・荷札・呪符・護符など、いすれも城下の暮らしぶりを鮮やかに蘇らせる。
外堀を模しているようです
梅雨入りしたので、あじさいが盛りですね
睡蓮
ガガブタの黄色い花がいっぱいでした
南側の公園に、古代の遺跡の案内が有りました
周りより少しだけ、標高のある場所だったのでしょう
本丸は、生涯学習センターの北側、住宅地になっています
住宅地の周りは、一段低くなっていて、田圃が広がっています
嘗ての、大手門の東、外郭の位置にあります
前玉神社は、久伊豆神社が有った所に江戸時代に祀られたようです
騎西城の名残を見つけることは出来ませんでした
わかりずらい人も多いかも知れませんが、関東平野の真ん中?
圏央道の白岡菖蒲インターチェンジを下りて
国道122号線を北へ6km
騎西の町に入って右に行くと
生涯学習センターを見つける前に天守閣?を見つけることが出来ます
説明版です、この、天守閣?の建っている所は、嘗ての外堀の位置ですね
騎西城跡
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉、
長尾、庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄6年(
1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落している。
徳川家康が関東に入った天正18年(1590)松平康重が2万石で城主となる。康重は
大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている、その後大久保忠常・忠職
父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った、寛永9
年(1632)忠職の、美濃国加能城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。
―掘り出されて騎西城―
昭和54年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国~江戸初期の堀跡や武器・
武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り。堀幅最大45mであた。
激戦に備え総力で築いたことを物語っている。
出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金属製品がある。このほ
か、大量の漆・木製品も出土している。漆黒の兜、金色に輝く馬の鎧、鶴紋の漆椀に加え、
下駄・荷札・呪符・護符など、いすれも城下の暮らしぶりを鮮やかに蘇らせる。
外堀を模しているようです
梅雨入りしたので、あじさいが盛りですね
睡蓮
ガガブタの黄色い花がいっぱいでした
南側の公園に、古代の遺跡の案内が有りました
周りより少しだけ、標高のある場所だったのでしょう
本丸は、生涯学習センターの北側、住宅地になっています
住宅地の周りは、一段低くなっていて、田圃が広がっています
嘗ての、大手門の東、外郭の位置にあります
前玉神社は、久伊豆神社が有った所に江戸時代に祀られたようです
騎西城の名残を見つけることは出来ませんでした