御殿桜は、沼田市役所の直ぐ北西側、沼田公園(沼田城跡)の中にあります
関越高速道路沼田インターチェンジから沼田市内(西)へ国道120号を進むみ
町並みの西の端、沼田公園入口を北へ
公園入口の冠木門、手前左側に駐車場があります
市内の文化財案内板がありました
沼田市指定史跡 沼田城跡の標柱です
説明版があります
(沼田城に関しては、このブログの2012年6月16日をご覧いただければ幸いです)
NHK大河ドラマ「真田丸」の幟が翻ります
沼田城跡の鐘楼です
真田氏時代沼田蔵内城絵図です
御殿桜です
説明版です
沼田城跡御殿桜 (推定樹齢400余年)
沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇ったところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木
である。
沼田城跡は初め蔵内城と称した。沼田氏12代沼田万鬼斎顕泰が、3ヵ年かかって天文元年
(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。
顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を
城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年
間にて亡びた。
以来沼田城は上杉謙信・北条氏政・武田勝頼・織田信長・真田昌幸・北条氏直の支配時代を経
て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は、徳川家康の曾孫=養女
=小松姫である。
信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1
604年)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(160
7年)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外槨に土塀を築
くなど、名城を完成させた。
それから77年後天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を
没収され、城郭は跡形もなく取壊された。
名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、
春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
(岸 大洞 文選)
小松姫の案内板が有ります
孫の顔を見たいと言う昌幸の申し出を断って、城に入れなかった話は有名ですね
南側石垣の下から見上げました
東側から
大きさは、目通り幹回り3.6mのエドヒガンザクラです
公園を散策して、次へ行きましょう
(取材日、4月4日)
関越高速道路沼田インターチェンジから沼田市内(西)へ国道120号を進むみ
町並みの西の端、沼田公園入口を北へ
公園入口の冠木門、手前左側に駐車場があります
市内の文化財案内板がありました
沼田市指定史跡 沼田城跡の標柱です
説明版があります
(沼田城に関しては、このブログの2012年6月16日をご覧いただければ幸いです)
NHK大河ドラマ「真田丸」の幟が翻ります
沼田城跡の鐘楼です
真田氏時代沼田蔵内城絵図です
御殿桜です
説明版です
沼田城跡御殿桜 (推定樹齢400余年)
沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇ったところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木
である。
沼田城跡は初め蔵内城と称した。沼田氏12代沼田万鬼斎顕泰が、3ヵ年かかって天文元年
(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。
顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を
城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年
間にて亡びた。
以来沼田城は上杉謙信・北条氏政・武田勝頼・織田信長・真田昌幸・北条氏直の支配時代を経
て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は、徳川家康の曾孫=養女
=小松姫である。
信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1
604年)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(160
7年)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外槨に土塀を築
くなど、名城を完成させた。
それから77年後天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を
没収され、城郭は跡形もなく取壊された。
名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、
春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
(岸 大洞 文選)
小松姫の案内板が有ります
孫の顔を見たいと言う昌幸の申し出を断って、城に入れなかった話は有名ですね
南側石垣の下から見上げました
東側から
大きさは、目通り幹回り3.6mのエドヒガンザクラです
公園を散策して、次へ行きましょう
(取材日、4月4日)