2005年BBC放送のTVドラマに「Extras(エキストラ)」と言うのがある。主人公の売れない俳優志願の男女2人は映画撮影現場でのエキストラ役で何とか糊口を凌いでいる。そしてその映画撮影には実在の俳優が出演している、という設定になっている。もちろんここで進行中の映画撮影は、このドラマの舞台になっているだけで本当に映画が作成されているわけではない。
このドラマに一度、イギリスの女優、「タイタニック」の主演女優だったケイト・ウインスレットが登場していた。ここでケイトはドイツ・ナチスを題材にとった映画の中で尼僧の役を演じているのだが、その撮影の合間に、(売れない俳優志願の)エキストラの女の愚痴を耳にする。それは、エキストラの女が、男友達からの電話の卑猥な発言に困っている、ということだった。これを聞いたケイトがおせっかいなことにエキストラの女に、どう対応すればよいかをアドバイスするのだが、それがまた、なんとも卑猥。そしてケイトのアドバイスを真に受けたその女がそれを早速実践してみると、思いもかけない結果に終わってしまう。
さらに、ケイトは自分がアカデミー賞を獲るためには、ナチスやホロコーストかしょうがい者をテーマにした映画にでるのが一番、と俳優志願の男に言う。そして、アカデミー賞受賞の実例として「シンドラーズリスト」や「ピアニスト」と言ったホロコースト関連映画、またダステイン・ホフマン主演の映画「レインマン」を引き合いに出す。アカデミー賞を取りたいという野望をあからさまに言い、かつ、議論を呼ぶような台詞を連発する。
一方で、視聴者はだれもがケイトが有名女優であることを知っており、かついかにもありそうな話だから、ケイトが本当にそのように思っていると受け取っても不思議はない。「それほどまでにアカデミー賞を獲りたい俳優だったのか」と思われるかもしれない。しかし、視聴者はこれもケイトの「演技」だと知っている。すなわちケイトが自分(のありそうに思われる部分)を演じているのだ、と知っているからこのユーモアが成り立つ。さもなくば、ケイトに対して非難の声が上がるだろう。さらに、公共放送であるBBCがホロコースト映画を女優の個人的な欲望のために利用しようとしている舞台を提供しているのでは、と非難されるだろう。
これは撮影現場の内幕と人間関係をブラックユーモアたっぷりに演出したものであり、視聴者はそのユーモアを楽しもうとしているのだ。確かに、ケイトは美人ではあるものの、勝ち気で我まま、謎めいている雰囲気の女優だから真に迫っているし、この後実際、2008年には、ナチスに関連した映画「愛を読む人(原作はベルンハルト・シュリンク、朗読者)」でアカデミー賞主演女優賞を受賞しているから、この時の台詞は何やら暗示的ですらある。
そういう役柄を演技力のある俳優が演じて見せ、虚実織り交ぜて視聴者とのやり取りができるのが俳優と視聴者の成熟した関係と言えるかもしれない。日本では、いわゆる清純派女優にいかに演技だと言っても、賞を獲りたさに演技している、と言った台詞を吐かせることはありえない。視聴者の期待に背く、と言うわけである。清純派は本当に清純なのだ、という固定観念に縛られた期待におもねるだけで、演技と言う本質に迫ろうとしない。
あるいはケイトほどの女優になるとどんな役柄(卑猥、野心)を、たとえそれが「自分自身」役だとしても、それが演技だと思わせる力があるということ、そして視聴者はそれを受け入れることが出来る、ということか。そうでなければ、BBCがあのような台本を採用するはずがない。
かつて、ふとしたきっかけで映画に数本出演した日本の女優と食事をしたことがある。この、ケイトの演技をみていたら、その彼女も自分の前では、その女優自身を演じていたに過ぎなかったのかもしれないという気がしてきた。では本当の彼女はいったいどういう人だったのか。全く分からなくさせるところが俳優の俳優たる所以、その時の彼女の言葉は実は台本に載っていたとおりのものだったのかも・・・