どのくらいの期間の記憶を鮮明に持ち続けることが出来るのかは、個人差もあることだろうが、例えば19年と言うのはどうだろう。自分では鮮明に記憶に残っているつもりでも、だんだんと記憶の後ろの方に追いやられてゆくようで、少し怪しくなってきたところもある。
19年前の今日9月11日は、オサマ・ビン・ラディン率いるイスラムのテロ組織アルカイダが、周到な準備の上ボストン発の旅客機を次々に乗っ取りそのうちの2機がニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)に突っ込んで炎上、このツインタワーを崩壊させた日。同じ日にアメリカ国防総省ビルにも1機が突っ込んで多数の死傷者が出た。ちょうどその時はニューヨークに駐在していて2機目の突入とビルの崩壊を目の当たりにした。くすぶり続けるビルからは風に乗って焦げ臭いようななんとも言えない嫌なにおいがしていた。ビルの倒壊時に窓から散乱した無数の書類、コピー紙がビラのようにマンハッタンの南半分の空にひらひらと飛んでいた。
テロと断定されてからはニューヨークではすべての道路や空港が閉鎖され、外との通信も中断されていた。このため日本との通信も途絶、事件が起きたのは朝8時過ぎからだったが日本との通信が回復したのは翌日になってからだったと思う。
自分のいたニュージャージー州ジャージーシテイのビルも一時的に怪我人の収容場所に指定され、対岸のニューヨーク・ダウンタウンから多くの怪我人がはこばれてきた。WTCとはハドソン川を挟んで対岸だったのでフェリーボートやヘリコプターで怪我人が運ばれてきたのだが、ビルが崩壊してからはもはや怪我人の救出はなく、一日かそこらでこの収容場所は撤収となった。
この後の数日、このテロの悲惨さを物語るのが駐車場に放置されたおびただしい数の車だった。ニュージャージー州に住んでニューヨーク・ダウンタウンに勤務する人の多くがジャージーシテイまで車で来て駐車場に車を止め、フェリーか地下鉄でニューヨークへ向かう。車の主がWTCビルにいてテロに巻き込まれたのだろう、主のいない車だ何台も何台も列をなして駐車場でほこりをかぶっていた。その風景は夜になって明りが少なくなるとまるで墓地の、そして一つ一つの車のナンバープレートは墓標のように見えた。これほど恐ろしい風景は記憶がない。
WTCから出るPATH Trainと言う地下鉄でニューヨークの自宅から事務所に通っていたのだが、WTCの地下鉄駅はビルの崩壊により瓦礫の下になって使えなくなった、それが再開したのは、ほぼ2年後。再開された夜に、事務所に最寄りのWTCの対岸にある駅(Excahnge Place)で待っていた時、トンネルのWTCの方角から、人間の悲鳴とも叫び声ともつかない音が聞こえてきた(本当は電車のきしむ音だったのだと思う)。あたかもWTCで無念の死を遂げた多くの人間の恨み声のようで思わず鳥肌が立った。そして電車が来たのだが、乗ってみると客の姿はまばらで、さらにこの電車がWTCの駅に近づいてカーブを回る時のレールのこすれる音がまた人の悲鳴のように聞こえた。あれだけの命が奪われたWTCの跡地は、そのころはまだ多くの死霊が彷徨っていたのだろう。自分は特に霊感が強い方ではないがさすがにそのときは超自然的なものを感じた。
今あの跡地は完璧に整備され、記念碑以外にはあの時の匂いや音を偲ばせるものはない。そして、こちらの記憶もだんだん不鮮明になってきた。3000人以上の犠牲者を出し、その後のアフガニスタン戦争のことを考えればその影響は今につながっている。しかし、コロナウイルスで全米で19万人以上の死者が出ていることと比べれば、人命と言う点ではさほどのことはないのかもしれない。今や歴史の中の一つの事件に過ぎなくなって来ている。しかし、個人にとってはあれ以上に衝撃的なものはない。目の前で生きた人間がビルから次々に落ちてゆく光景は今でも目に焼き付いている。この事件がこれからどんどん風化していったとしてもこの悪夢は記憶から消し去ることはできないだろう。
この時は本当に多くの人からお見舞いや安否を気遣うメールや手紙を受け取った。若い時分にははるか雲の上のように見えた人から、まだ幼い甥や姪からまで。それまでに知り合った多くの人が自分のことを忘れてはいなかったのだ、という気がした。しかし、こういう時には何も言ってこなくてもいつも静かに自分のことを気に掛けてくれる人がいたことも知っている。
ニュージャージー側からハドソン川越しに見るかつての世界貿易センタービル(WTC)