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中国帰還者連絡会の人びと(上)

2013年06月01日 18時59分10秒 | 歴史問題
このルポは、『週刊金曜日』第303号(2000年2月18日)に掲載されたものです。

記事抜粋

<現場では薄い罪悪感と葛藤>

 湯浅謙は1916年に埼玉県に生まれ、東京・京橋の越前堀で育った。父親は開業医で、「地域の困っている人に対して、いつも献身的に診療をしていた」と言う。9人兄弟姉妹の上から3番目の湯浅はいつも学業優秀で、父親の姿を見て、漠然とだが「医者になって困っている人を助けたい」と思うようになり、東京慈恵会医科大学に入学した。

 41年3月に大学を卒業して内科医となった湯浅は、東京の駒込病院を経て、同年10月には北海道・旭川歩兵第28連隊に入隊した。ここで2ヵ月の教育を終え、25歳で軍医中尉になった。そして42年1月末には、日本軍が侵略し一部を「支配」する中国・山西省の安陸軍病院に赴任した。

 湯浅は、この時期から日本の敗戦間際までに自らが体験したことについて、この40年以上にわたって日本全国で500回ちかく講演を行なってきた。

「日本軍が中国に侵略していった目的は何だと思いますか?」

 講演会の会場で、当時の状況をひととおり説明した後、一人ひとりにそう尋ねていく。皆なかなか答えられない。


 「資源の略奪に行ったんです。そのために、中国に強盗に入ったんですよ」

 湯浅は、このような日本による侵略戦争の全体像や時代背景については、とても饒舌に語る。しかし、自ら犯した罪行のことになると、なかなか言葉が出てこない。

 「僕の仲間が誰もしゃべらないから・・・殺された中国人たちの供養のつもりで話します」

 もう何百回もこの話をしているはずなのに、ここまでくると毎回動揺を隠せない。何度も咳払いをして、水を飲む。つっかえながらも、やっとの思いで声を絞り出す。

 「私は7回にわたって・・・14人の中国人を・・・生体解剖してしまったのです」
 湯浅は、最初の生体解剖については特によく覚えている。安陸軍病院に赴任して1月半ほど経った42年3月中旬、病院長から解剖室に来るようにと言われた。学生時代から噂では聞いていたので、「すぐに中国人への生体解剖だと分かった」と言う。

 後に、私は湯浅に対して「断ろうとは思いませんでしたか?」と尋ねてみたことがある。湯浅は「一瞬いやだなと思いましたが、そんなことは考えませんでした」と答えた。しかしすぐに「もしそんなこと(拒否)をすれば、非国民と言われて、自分の地位を失うだけでなく、日本にいる家族の恥になる、との思いが頭をかすめました。そのとき頭に浮かんだのは、母の顔でした」と続けた。

 湯浅は当時、それ以上考えることをやめた。「戦争に勝つためだ。これも仕方がないな」と気を取り直し、意識的に胸を張って大股で解剖室へと向かった。思考を停止し、虚勢をはる。湯浅がしたのは、ただそれだけだった。

 解剖室には、すでに医師や看護婦らが20人ほど集まっていた。そして、端の方に2人の中国人の男が後手に縛られて立っていた。1人は便衣(注)をまとった30歳くらいの男で、体格がよく堂々とした態度だった。もう1人は、野良仕事の格好をした小柄の40~50歳くらいの男で、「アイヤー、アイヤー」と泣き叫んでいた。

 「この2人を手術演習に使ってしまったんです。彼らの顔は・・・今でも思い出しますねぇ」

 湯浅は皆の前でそう言ってため息をつくと、目をつぶって絶句し、必死に涙をこらえている。

 「当時は罪悪感はありませんでした。それほどの葛藤もなかったんです」

  中国人や朝鮮人を劣等民族と蔑む当時の日本社会で育ち、そういう教育を受けた湯浅にとっては、このような認識だったのである。

 「生体解剖を前にして、日本人の医師や看護婦は皆ニコニコして談笑しているんですよ。嫌そうな顔でも見せたら、『使いものにならない』という烙印を押されて、家の恥になってしまうのです」

 湯浅は将校として見苦しいところは見せられないと必死に自分に言い聞かせていた。

 医師団は二手に別れ、それぞれの中国人に麻酔をかけ、「手術演習」を始めた。湯浅は年配の中国人の方に加わった。虫垂(盲腸)の摘出、腕の切断、そして腹を切り裂いて腸の切除と吻合などを医師たちが手分けして行なった。湯浅は初めのうちは補助的な役割を果たしていたが、途中から自らが中国人の喉を切り裂き、気管切開の練習をした。

 1時間半ほどで「演習」は終了した。年配の男はすでに息絶えていたが、若い男の方はまだ息をヒューヒューさせていた。湯浅はO医師と2人でこの男の首を絞めたがなかなか死ななかった。そこで湯浅は薬品を注射して殺害した。

 「そんなこと(生体解剖)する必要なかったんだけどねぇ。これはお国のためになるんだ、と全身で感じていたんだねぇ。それで平気でやっちゃったんだ」

 会場の人たちにというよりは、自分自身に問いかけるように、湯浅は目をつぶったままそう語った。そして、堅くむすんだ口をすこしゆるめ、やっとの思いで話しつづける。

 「1回目は嫌々、2回目は平気になって、3回目からは自分からすすんで生体解剖をやってしまったんです」

 湯浅は、自らが関わった生体解剖の夢をこれまでに一度も見たことがない、と私に語ったことがある。

 日本軍にとっての最大の目的は、実戦で役に立つ医師を速成すること、だった。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/text/star/hoshi1.html





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