認知心理学、認知科学の研究者という著者自身の個人的な経験をもとに、「知」の生産・流通・消費の現場を紹介し、「知」をめぐって縦横無尽に論考した書。記憶やコンピュータ、ミスなど、「認知と学習の心理学」に関連するテーマが具体的なエピソードと絡めてまとめられており、一般的な教科書とは違った知的好奇心を高めてくれる。
xpちゃんとのつきあい
長かった
でもさすがに疲れたようだ
かれこれ7年間
よくがんばってくれた
でも、老後、きちんと面倒みます
valuestar,
画面は3倍
しかも液晶画面だと思うが、鮮明度が格段に違う
TVもみれるはず<<とても自分では設定できない
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これからのよろしくお願いします
8、いまのところ、何も問題なさそう
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「安全と心」
●「安全と水はただ」(山本七平)だったはずの日本の「安心社会」を脅かす犯罪や事故が多発している。グローバル化の波に巻き込まれ、「高リスク社会」への急速な移行が始まっている。
それに対応するための個人的、社会的な諸施策もとられようになってきた。しかし、あたかも「ゼロリスク社会」をめざすかのような極端な「管理」施策も一部ではみられる。「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまうのも、まずい。「リスクとの共存」ができる社会をいかに作り出すかに周知を集めるべきであろう。
●犯罪も事故も、それを起こすのも人なら被害を受けるのも人である。そこに心理学がかかわってくる。
何がなんでも人の心の問題、あるいは心理学の問題に還元してしまう「心理主義」、あるいは「心理学化」には、問題の解決をも個人の心だけに求めてしまう危うさがある。しかし、人の心への配慮なしの制度的、法律的、組織的な対策にもまた危ういところがある。
●安全と心の問題を考えるための鍵概念を、主に社会心理学の中から拾ってみた。
そこには、集団・組織と個人にかかわる古典的諸概念から、犯罪、事故そのものにかかわる心の謎を解き明かすのに有効な概念がある。
●「安全と水はただ」(山本七平)だったはずの日本の「安心社会」を脅かす犯罪や事故が多発している。グローバル化の波に巻き込まれ、「高リスク社会」への急速な移行が始まっている。
それに対応するための個人的、社会的な諸施策もとられようになってきた。しかし、あたかも「ゼロリスク社会」をめざすかのような極端な「管理」施策も一部ではみられる。「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまうのも、まずい。「リスクとの共存」ができる社会をいかに作り出すかに周知を集めるべきであろう。
●犯罪も事故も、それを起こすのも人なら被害を受けるのも人である。そこに心理学がかかわってくる。
何がなんでも人の心の問題、あるいは心理学の問題に還元してしまう「心理主義」、あるいは「心理学化」には、問題の解決をも個人の心だけに求めてしまう危うさがある。しかし、人の心への配慮なしの制度的、法律的、組織的な対策にもまた危ういところがある。
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2013.02.09(土) 2044 PV 320 IP
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「図書と図書館、回想あれこれ」
●図書についての初期記憶;図書館と情報保護
中学時代、女性教師との面談を終えて帰宅した母親から「先生が“赤っぽい本を読んでいる“と言ってたよ」の一言。“赤っぽい”とは、当時ではーー今でも?――、共産党を意味する言葉。図書館でロシア革命の解説本を借り出して何冊か集中して読んでいた記憶がある。「コルホーズ」なんて言葉を今思い出した。ネットで調べると、確かに記憶どおりで、集団農場のことだった。
これが今現在の図書についての初期記憶である。(なお、回想はその時々で変わるのといのが記憶心理学の常識。)
いずれにしても、とりたてて、これで母親や教師から叱責されたとか言う記憶はない。それよりも、そうしたやや早熟な秘密を知られたことの悔しさのようなものがあって、記憶に残り続けていたのかもしれない。(なお、感情的色合いを帯びたエピソードは末永く記憶に残るというのも記憶心理学の常識。)
●図書を買う;図書の私と公
最初に職についた大学では、研究費で自由に図書が買えた。学部生や大学院生のときは乏しい生活費を割いて「つけ」で図書を大量に買い込んでいたので、これは助かった。しかも、まず読みたい本を本屋から持ってきてもらいたっぷりと読んでしまってからやおら再度、本屋に来てもらい、図書館に納品してもらえたのだーー多分、今は、こんなルーズなことは許されないかも。でも許してほしい!ーーー。
次に移った大学では、逆にきつい図書管理にとまどった。
自分の研究費(といっても税金なのだが)で購入する図書まで全部、図書館経由、忘れた頃に納入される。研究室に借り出せる図書数にも上限がある。とても窮屈で仕事にならない。再び、自費で購入することになった。(なお、定年退職のとき、1冊だけ借り出した英文本が返却されていないという催促が退職後にきた。アマゾンで購入して返却したーーきつい、いや当たり前の管理の象徴的エピソードでした!)
現在、研究室と家の書棚にあるのは、学生の頃購入したものと2番目に移った大学で自費購入したもので、最初の大学にいた7年間のものが欠けている。時折、そのことに気がつかされる。はやり、必要な図書は自費で買うべきだったとちょっぴり後悔している。
3番目の大学では、購入額の上限があるし、図書館経由の購入になるが、納入が実に早く、しかもラベルなしなので、自在に使える(なくなってもかまわない!)ので助かる。演習などで自在に使えるし、学生にも貸し出せる(もどってこないことが多いのが悩みの種)。
●図書が捨てられない;図書処分
家にも研究室にも図書が溢れている。そろそろ処分をせねば、という気持ちはだけはここ10年くらい持ち続けている。しかし、いっこうに減る気配がない。
これは捨てようと思う1冊。ぱらぱらめくりをしたり、付箋をはったところを読み返したりすると、もうだめ。それぞれセンチメントがある。それぞれ、まだ授業で使えそうということになる。
その気持ちを断ち切って、ゴミ処理するのは断腸の思いである。
そこで考えたことの一つが、周りの学生や先生にゆずる戦略である。ゆずられたほうは迷惑至極だと思うが、時には本心かどうかは不明だが感謝されることもあるのでやめられない。
しかし、こちらからすると、万が一必要になったときの保険になるので、安心して処分できる。とはいっても、これで処分できる数はたかがしれている。
それが最近、とてもうれしいシステムが大学の学生支援課で考案してくれた。不要本を学生談話室で引き取ってくれるというのである。目下せっせとそこに書棚の図書を移動させているところである。
●500冊は売れる;図書の売れ行き
これまで単著、共著、編集、監修で50冊くらいの本を出させてもらった。硬い専門書から柔らかい新書や文庫もある。
専門書は売れない。それでも、ある編集者から聞いたが、500冊はなんとか売り切れるのだそうだ。内容を見ないで買ってくれるところがあるからなのだそうだ。(見られたら買ってくれない!)。その多くは、大学図書館。
そう言われれば、自分の大学でも、新設学科では図書費が計上されていて、ともかく、その額を使い切らないとまずい、ということで、とりわけ、年度末には、内容を見ずにカタログに印をつけて一括購入するようなことがある。
日本の4年制大学の数は、780余り。500冊は、納得のいく数である。出版社には申し訳ないが、自分でもそんな本が数冊はある。
●試験前になると図書館へ;図書館のもう一つの活用法その1
高校生の頃の記憶。
試験前、誰でもそうだと思うが、試験勉強からの逃避なのか、それとも頭の働きが活性化するからなのか、やたら本が読みたくなる。
そういう仲間が図書館に集まったのだと思う。一休みということでーーこれも逃避?――、図書館わきの芝生に寝転んでだべっていた。それをむかいの校舎から校長がみていた。司書が飛んできて、注意された。ひげ顔の校長がこちらをにらんでいる光景が、ありありと思い浮かぶ。
その図書館で読んでいたのは、ミステリー関係と社会学関係(清水幾太郎全集かも?)だったと思う。本を買えない貧乏のなかで、あの充実した図書館は救いだった。
●図書館でのんびり;図書館のもう一つの活用法その2
ロスアンゼルスでの10か月の海外研修期間中、英語不如意でストレスフルな毎日を送っていた。そんな日常の中で、大学図書館にあった日本語の新聞や雑誌は救いだった。(それまでは、図書館にそうしたものがあることさえ知らなかった。)
それで味をしめて、帰国後も、こうしたいわば憩いの場としての図書館利用をするようになった。
そういう目的で図書館をあらためて眺めてみる、新聞のみならず実に多彩な雑誌、DVDなどもあることを発見。
恥ずかしながら、今では、図書館に行くのは、もっぱら憩い目的である。
徒歩5分の近隣公民館付属の図書室には、そうした活用を楽しんでいる(ように見える)高齢者や主婦、子どもがひきもきらずである。
