論理 万能ではないが、強力な道具
ポイント********************************
1)仕事の中で論理的思考が大事になってきた
2)論理的思考よりも有効な推論方略があることを知る
3)形式論理には現実を越える力がある
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●ロジカル・シンキングの本が売れている
今、売れ筋本の一つに、ビジネスマン向けの論理的思考(ロジカル・シンキング)に関するものがある。Amazon.comで検索すると、24冊も出てくる。
論理的思考のようなやや硬い内容の本が、なぜ今売れるのであろうか。
背景要因としては、職場での仕事のやり方が変わりつつあることが挙げられるように思う。 一つは終身雇用の崩壊により、もう一つは仕事のコンピュータ化によって、従来の言わずもがなの暗黙知ベースの仕事のやり方から、明示的な形式知ベースの仕事のやり方に変わってきているところがあるように思う。
形式知では、論理すなわち「いつでもどこでも正しい」ことを保証するものが中核になる。そこで、論理を身につけたいとなっているのではないか。 ここで言う論理は形式論理である。その特徴は、正誤がはっきりしていること、推論の方式が決まっているところにある。 したがって、誰でもがその方式に従えば、同じ結論に到達できることになる。それでも、時おり、論理的に誤ったり、論理矛盾を起こしたりしてしまう。そんなことにならないように、論理的思考を学びたいというわけである。
●形式論理とは人の推論のごく一部
「アリストテレス(BC384ー322)の定言3段論法」というくらい、形式論理の発明の歴史は古い。
そして、その論理学は、人の思考を鍛える道具として長年、教育の中で教材として使われてきた。
その結果として、形式論理は、あたかもすべての推論の正しさ、妥当さを決定づける唯一の道具であり、したがって、(形式)論理的に思考できないことは、人として不完全であり恥ずかしいことであるかのごとく考えられてきたようなところがある。
しかし、形式論理は、人の推論のごく一部のみの特性に過ぎないことが、皮肉なことに、人の推論をコンピュータに真似させようとした人工知能の研究からみえてきたのである。
つまり、論理的に推論するコンピュータはできても、人の推論を真似できるコンピュータは作り出せなかったのである。
●人の推論は多彩
現実世界では、形式論理だけでは、とてもではないが、うまくやっていけないし(適応できないし)、時には生きていけないこともある。
なぜなら、一つには、現実世界は、その時その場で結論をただちに求めるからである。 じっくりと時間をかけて論理的に考えてから、というのでは、現実のほうが先に進んでしまう。車の運転をしながら、方角を「論理的に」に探索する余裕はない。
これに関連して2つには、現実世界の中での思考には、とりあえず結論を出してみてうまくいかなければ、もう一度考え直してみればよい、という簡便思考(ヒューリスティックス)方略が許されることが多いし、そのほうが結果としてはうまくいくことが多い。
見知らぬ土地での車の運転でも、目的地のだいたいのあたりをつけて運転することのほうが多い。もちろん、それがとんでもない見当違い(思い込みエラー)ということもあるのだが。
3つには、人が考えるときには、現実世界に関して蓄積されている膨大な知識を活用するほうが、形式論理よりはるかに認知的なコストが低いということがある。 「3x8」はいくつかを問われて、3を8つ集めるといくつかを計算するよりも、「3x8=24」という知識を引き出すほうが楽なのである。頭も横着なほうを好むのである。このあたりは、クイズ2で実感していただくことになる。
とはいっても、だから形式論理は無用ということにはならない。人は、現実に制約されながらも、現実を越えて、さらに、現実を変える力も持っているからである。
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1)仕事の中で論理的思考が大事になってきた
2)論理的思考よりも有効な推論方略があることを知る
3)形式論理には現実を越える力がある
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●ロジカル・シンキングの本が売れている
今、売れ筋本の一つに、ビジネスマン向けの論理的思考(ロジカル・シンキング)に関するものがある。Amazon.comで検索すると、24冊も出てくる。
論理的思考のようなやや硬い内容の本が、なぜ今売れるのであろうか。
背景要因としては、職場での仕事のやり方が変わりつつあることが挙げられるように思う。 一つは終身雇用の崩壊により、もう一つは仕事のコンピュータ化によって、従来の言わずもがなの暗黙知ベースの仕事のやり方から、明示的な形式知ベースの仕事のやり方に変わってきているところがあるように思う。
形式知では、論理すなわち「いつでもどこでも正しい」ことを保証するものが中核になる。そこで、論理を身につけたいとなっているのではないか。 ここで言う論理は形式論理である。その特徴は、正誤がはっきりしていること、推論の方式が決まっているところにある。 したがって、誰でもがその方式に従えば、同じ結論に到達できることになる。それでも、時おり、論理的に誤ったり、論理矛盾を起こしたりしてしまう。そんなことにならないように、論理的思考を学びたいというわけである。
●形式論理とは人の推論のごく一部
「アリストテレス(BC384ー322)の定言3段論法」というくらい、形式論理の発明の歴史は古い。
そして、その論理学は、人の思考を鍛える道具として長年、教育の中で教材として使われてきた。
その結果として、形式論理は、あたかもすべての推論の正しさ、妥当さを決定づける唯一の道具であり、したがって、(形式)論理的に思考できないことは、人として不完全であり恥ずかしいことであるかのごとく考えられてきたようなところがある。
しかし、形式論理は、人の推論のごく一部のみの特性に過ぎないことが、皮肉なことに、人の推論をコンピュータに真似させようとした人工知能の研究からみえてきたのである。
つまり、論理的に推論するコンピュータはできても、人の推論を真似できるコンピュータは作り出せなかったのである。
●人の推論は多彩
現実世界では、形式論理だけでは、とてもではないが、うまくやっていけないし(適応できないし)、時には生きていけないこともある。
なぜなら、一つには、現実世界は、その時その場で結論をただちに求めるからである。 じっくりと時間をかけて論理的に考えてから、というのでは、現実のほうが先に進んでしまう。車の運転をしながら、方角を「論理的に」に探索する余裕はない。
これに関連して2つには、現実世界の中での思考には、とりあえず結論を出してみてうまくいかなければ、もう一度考え直してみればよい、という簡便思考(ヒューリスティックス)方略が許されることが多いし、そのほうが結果としてはうまくいくことが多い。
見知らぬ土地での車の運転でも、目的地のだいたいのあたりをつけて運転することのほうが多い。もちろん、それがとんでもない見当違い(思い込みエラー)ということもあるのだが。
3つには、人が考えるときには、現実世界に関して蓄積されている膨大な知識を活用するほうが、形式論理よりはるかに認知的なコストが低いということがある。 「3x8」はいくつかを問われて、3を8つ集めるといくつかを計算するよりも、「3x8=24」という知識を引き出すほうが楽なのである。頭も横着なほうを好むのである。このあたりは、クイズ2で実感していただくことになる。
とはいっても、だから形式論理は無用ということにはならない。人は、現実に制約されながらも、現実を越えて、さらに、現実を変える力も持っているからである。