月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

162.だんじりに◯◯◯?そして、だんじりとは何ぞや??-摂津名所図会から2-(月刊「祭」2019.8月18号)

2019-08-21 21:00:29 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

 
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回はだんじり編です。まずは、だんじり本体部分の拡大図から囃子方の様子を見ていきます。
 
●だんじりに◯◯◯⁉︎ 鳴り物
 図会の絵を見ると、阪神、河州、泉州、播州の祭関係者は少しびっくりする鳴り物があります。?のところにあるのは。。。?




























?のところにあるのは三味線でした。他に、小さめの太鼓と鉦が、欄干の下側にありますが、内ゴマ・内側にある車輪のすぐそばなので、演奏しにくくはないのでしょうか。また、現在では花形となる大太鼓らしきものが見当たりませんが、見えない部分で演奏しているのかもしれません。
 次は本文と本体を見ていきます。
 
●誉田から始まった(車楽)?
ここの文章が分かりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?と思ったら
 
 
夏祭 車楽(だんじり)囃子 
 車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて今は尾州の津島祭ありて、船にて巡り囃し立つる也。又熱田祭にもあり其他諸州にあり大坂の車楽ハ数おほし(多し)。特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
 
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて
とあり、河内の国の誉田(こんだ)祭(現・大阪市羽曳野市誉田八幡神社)より始まったとしています。

 
享和元年(1801)成立の「河内名所図会」でも、
誉田例祭(まつり)車楽(だんじり) 
誉田の車楽は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。これだんじりのはじまりなりとぞ
 
と書いてあり、この地域から「だんじり」が始まったという認識を当時の人が持っていたことがわかります。しかし、絵を見ると、河内の方は三輪で大津祭の山や、大阪府南部に分布する櫓(やぐら)を彷彿とさせます。しかし、現在の櫓(やぐら)よりも随分大型なものであったようです。
 では、車楽(だんじり)とは一体何を意味するのでしょうか?
 
●車楽(だんじり)とは?
ここの文章がわかりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?という方は下の本をお読みください。名著です。
誉田
車楽(だんじり)は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。
「摂津名所図会」や「河内名所図会」の作者である、秋里籬島は「だんじり」を「車楽」と書き、「誉田の車楽は、古風にして、他の囃子と違う」と書いています。
 つまり、秋里は車の形に言及しているのではなく、囃子に言及しているのです。
 「車楽」の字も、猿楽、能楽、神楽のように、芸能や音楽を表す楽が後についているので、車楽(だんじり)も車ではなく、車の上で演奏する音楽や芸能を意味していると思われます。
 
 「摂津名所図会」や「河内名所図会」とほぼ同時期にできた浜松歌国(1776〜1827)の「摂陽奇観」には
「河内国古市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にも出る。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびけるとぞ。(中略)およそ上代の遺風なるべし、これ車楽のはじまりと誉田の村民はいふなり」
 とあり、車楽は船の上で行われた芸能が起源だということが伝わっています。車楽という書いて「だんじり」と呼ぶ言葉は車両の上での芸能を意味していたようです。
 
 楽車
↑これだと、音楽や芸能をする車両を意味します。
 
車楽
↑これだと、車のうえで行う、音楽や芸能という意味です。
 
 
 
 
 
 
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161. カラフル屋根?バランス悪い?今も残る?幕末の布団太鼓-摂津名所図会より1-(月刊「祭」2019.8月17号)

2019-08-21 13:43:13 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回は布団太鼓編です。なお比較のための現在の写真は特に指定がないものは大阪市杭全神社の布団太鼓のものです。
 
 
 ●本文
本文は斜体字で記述しました。この祭は上難波仁徳天皇社の旧暦六月二十一日(現行暦で7月半ば頃)の祭です。
 
 
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。
 
「神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。」
と太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが読むとわかります。
 
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
周礼という中国の文献に太鼓が雷声の発するを表しているとあるそうです。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るという様から、当時の人に布団太鼓が迫力ある催し物として好まれた様子が伺えます。
 
 
●屋根、狭間と担ぎ棒(今とは違う点)
 今と違う点として、あげられるのが屋根です。白黒で見る限りでは、二色の屋根になっています。 
 また、屋根と水引幕の間に彫刻は無いようです。
 



次に担ぎ棒を見てみましょう。縦の棒は2本で、狭い路地を行けるようにはなっていますが、左右にふれるとバランスをくずしやすそうです。縦棒の間にも人がいることから、はしご型に棒が組まれているとおもわれます。
つまり、現在の大阪の主なはしご型の棒組みはこの頃のものの横棒が長くなったものと思われます。
欄干の下に人が担いでいるように見えますが、棒を担いでいるのか、欄干そのものをかついでいるのかはわかりません。




●地面につける?つけない?
屋台、太鼓台で子どもが太鼓打ちを務める場合、地面に彼ら自身の足をつけさせないようにする風習が、三田市、大阪市杭全神社、姫路市西部や太子町では見られます。
そのために、太鼓打ちは肩車をされて移動してないます。
この図会の太鼓打ちを見ると、一人は地面に足をつけ、一人は肩車をされています。この神社では、廃れつつあったのか、元々なかったのかのどちらかのようです。
 
 
 

↑肩車で運ばれる杭全神社の太鼓打ち
 


●わりとよくある?太鼓の提灯
上の図会を見ると、「太鼓」と書かれた提灯が二つ運ばれています。この風景は今の大阪でもよくみられます。杭全神社では、現在は収蔵庫に提灯がかけられています。
 
↑杭全神社の布団太鼓収蔵庫の提灯
 
天神祭の屋根のない催し太鼓も「太鼓」提灯を持ち歩いています。また「摂津名所図会」には、天神祭の催し太鼓も描かれており、船におそらく太鼓と書かれた提灯が二つ飾られています。
 

↑大阪天満宮の屋根のない催し太鼓の提灯
 
 


 
 
 




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160.東京オリンピックが祭に与える悪影響(月刊「祭」2019.8月16号)

2019-08-21 12:54:14 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●はじめに -止まれる地車と止まれないマラソン-

 屋台や地車、山車、太鼓台の祭もオリンピックとは深い関係にあるようです。それを紹介します。

 来年の夏、世界の国をあげた祭・オリンピック・パラリンピックが東京で猛暑の八月に行なわれます。本来ならめでたい、楽しみと言いたいところですが、残念ながらそうとはいきそうにありません。日本に四季があり、適している気候はやはり十月ころか春頃かになるでしょう。しかし、夏に行なわれます。愚の骨頂ともいえる季節の設定です。地車や太鼓台は、いざとなったら、止まって休憩ができますが、マラソンの場合だと、限界を超えてまで頑張ろうとする危険性は極めて高く、例えば危険性の高い競技のみ別時期や別地域での開催を考えなければなりません。

 それはさておき、オリンピックと祭の関わりを見ていきます。

 

●昭和39年東京オリンピック

 昭和39年東京オリンピックの開催を受けて、灘のけんかまつりでは、中村屋台(だったはず)が狭間彫刻をオリンピックの五輪仕様に変えました。

 

●体育の日の制定と祭、突然変えられた祝日

 このオリンピックを境に体育の日が1010日に制定されました。これをうけて、毎年の祭礼日をこの日に固定する祭がでてきました。さしあたり思いつくのが、下の二つですが、多分もっとあるはずです(^^;

 109日、10日 滋賀県大津市天孫神社

          三木市八雲神社 

体育の日に行われている三木市久留美八雲神社の祭           

そして、ハッピーマンデー制度(平成10年制定・国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律)で体育の日が第二日曜日の次の月曜日になりました(いつのまにかスポーツの日になっていました。)。それに伴い、祭礼日を人手不足解消のために、この日に合わせたり、その前日の土日に制定する祭が格段に増えました。「伝統の祭の日を休日に合わせるのはいかがなものか」という議論もありますが、管理人も含め、この日程変更に助けられている節はかなりあります。

また、過疎化が進む地域では、背に腹変えられぬ問題の解決策として機能しています。この日があることで、帰省が容易になり祭がなんとか維持できている地域もあります。

ですが、この貴重な祭連休とも言える祝日を、オリンピックのためにかえようとしています。スポーツの日の他には、海の日、山の日です。いずれも祭を維持するための貴重な休日です。伝統文化とやらを大事にする方々がこの日を無理に変える意味は分かりません。また、夏祭の地域では、警備員をオリンピックに取られて、できなくなる地域も出ているそうです。少なくとも伝統的な祭がオリンピックによってできなくなるのであれば、決してゆるされることではありません。

 

莫大な借金などの問題は管理人には分りませんが、①気候の問題、②祭礼への影響が計り知れないことは子どもでもわかります。

始まってしまったら仕方ないと言うのもわかりますが、打ち水などという悠長なことを言わずに、①は特に危険と思われるものは、日程と場所を変える、②は、祝日の移動の即廃止と、オリンピック誘致した人が責任を持って祭の警備に当たるなどして対応してほしいものです。

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159.戦時中の祈りに見る本音(月刊「祭」2019.8月.15号)

2019-08-19 12:18:15 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
第二次大戦が終わって74年が経ちました。
日本の経済復興をさして、もはや戦後ではないという言葉を発した方もいたようです。戦争を知らない人が大半を占め、安易なヘイトや上部だけの勇ましさが溢れる中で、少しだけ想像力を働かせてみます。当時兵士として戦地に行かなければならなかった人の本音、送り出さねばならなかった人の本音はどのようなものだったのでしょうか。

●戦争の遺物から見えるもの

上の図はとある兵士が被っていたと思われる縦長の帽子です。「サムハラ」と書かれているところが帽子のてっぺんになります。糸の玉を並べて縫い付けて文字をつくっています。
そこに書かれている文字が写真の漢字で「サムハラ」と書かれていました。
このサムハラは江戸末期頃からは、鳥がこの文字の札を持っていて鉄砲の名人をもってしても当たらないといった伝承が語られ、弾丸避けのまじないとしてひろまりつつあったようです。
昭和6年には田中富三郎たる人物が故郷の岡山県苫田軍西加茂村の古祠を復興し、大阪にも神社をつくりました。

弾除けの御利益があるという信仰は瞬く間にひろがり、出征兵士達はお守りや、ベストなどにぬいつけるなどして持って行きました。
図をよく見ると、サムハラは中央に来ており、活躍を祈る、武運長久は脇にやられています。つまり、活躍よりも無事を願っていたことがわかります。また武運長久も、長久であるための条件は生き残ることであり、やはり、行きて帰ってくることが送り出さなければならなかった人、お行かなければならなかった人の本音でしょう。

●聞いた話から
「あの頃は憲兵さんがいばっとって嫌やった」
「明石の工場で爆弾落ちてなあ、目の前で女の子が死んでいったわ」
(当時20歳くらい女性の話)
「わし体悪かって兵隊にとられんでよかったわ」
(当時20代半ば男性)
管理人も、このような話を若い頃はよく聞きました。
祭見学に行く中で聞いた、戦時中の氏神さんの霊験あらたかなる話も、「無事に生きて帰って来た」という話が圧倒的に多く、何を願っていたのかが如実に見て取れます。

人々の願いが達せられず亡くなった方は靖国社で御霊として祭られていました。ですが、それでは天神御霊のように国家により「不遇の死」を遂げたというイメージを持たれ厭戦感が蔓延する恐れがある。よって、英霊という言葉を生み出したそうです。ですが、実態は英霊より御霊と言う方が正確でしょう。
その御霊の供養は、隣国を差別したり戦争を美化することではなく、隣国の差別や戦争の美化で自らの批判をかわしたり利益をえるような行為を諌めることです。
参考: 著・田中丸勝彦 編・重信幸彦, 福間裕爾編「さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ」(柏書房) 2002 

「多くの人は戦争に行きたくなかった。行かせたくなかった。でもそれを国家は禁じた。行っても生きて帰って来たかった。生きて帰って来てほしかった。だけど、それを祈ることを国家が禁じた。」
中で、それでも、人は神仏にその本音を願っていたようです。

●戦時下の提灯、戦後すぐの宮入
参考 コタニマサオ「なんでもかんでも三木」(神戸新聞事業社三木営業所)昭和61年
戦争により祭も思うようにできなくなりました。男は兵隊にとられていたことによります。三木市大宮八幡宮明石町屋台は宮の前に蔵があることもあり、祭の日は、屋台を飾りつけしたそうです。そして、終戦を迎え、祭を迎える10日ほど前に、洪水が起きましたが、明石町、新町はその中でも屋台を担いでまわったそうです。その時には、空腹で力が入らず、棒を30センチほど長くしたそうです。






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158.若宮-住吉大社、春日大社編-(月刊「祭」2019.8月.14号)

2019-08-18 07:05:53 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
前回の記事では、三木市内の若宮は若宮八幡と呼ばれている、かつては呼ばれていた神社でした。今回は全国的にも有名な神社の若宮を見ていきます。
住吉大社は写真が主体、春日大社は文章のみになっています。

●住吉大社
住吉大社内にも若宮があります。
その若宮がある住吉大社の祭神は三韓遠征から帰ってきた神功皇后と、遠征時に船の守護として祀っていた住吉三神・底筒男命、中筒男命、上筒男命を祭っています。

では、若宮を見てみましょう。

この若宮は八幡神社で、祭神は応神天皇と武内宿禰です。応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の間の子どもで、神功皇后の三韓遠征中に生まれたと言われています。

住吉大社が三韓遠征に携わった神々をまつっていることから、船型の神輿もありました。


●春日大社
(参考ウィキペディア、「春日大社」「春日若宮御祭」「藤原忠実」「藤原忠通」「藤原忠真」)
藤原氏の氏社である春日大社の祭神は、藤原氏の守護神・武甕槌命、同じく氏の守護神・経津主命、藤原氏の祖神・天児屋根命、その妻の比売神です。この神社は神護景雲2年(768年)と伝わります。
若宮の祭神は天押雲命で、祖神・天児屋根命の息子とされています。古事記、日本書紀などには確か出ていないはずですが、14世紀成立の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要(リンク先コンピュータ上の11ページ・本文18、19ページ)」には書かれています。なので、藤原氏の伝承では語られていたのかもしれません。
この若宮は創建当初からあったわけではなく、長保五年(1003)に初めて現れたと言われており、保延元年(1135)に社殿ができ、翌年よりは春日大社最大級の祭とも言える御祭が定例化しました。

●春日若宮御祭定例化の背景
では、なぜこのような祭が定例化したのでしょうか。祭の始まりに関わる年代と、その当時の政(まつりごと)から考えていきます。
若宮が初めて現れたと「書かれた」長保五年(1003)は、藤原道長らが栄華を謳歌した時代です。この栄華を再び取り戻すことを願ってのことだと思われます。
さらに、若宮の創建、御祭を「名目上」取り仕切ったのは当時15か16歳だった藤原頼長で、それを推していたのは父の藤原忠実です。この忠実は、まさしく、藤原氏の氏長者を若宮を思わせる頼長に継がせたかったという意思が見られます。その忠真もまた、父師通と母全子の嫡男として生まれており、父師通に母全子は離縁され、母全子は師通を恨んだとされています。なので、忠真も「子の神・若宮」を重んじる気持ちが強くなるのもわかります。本社と外れたところに御子神をおき、その祭を盛大にするのは、藤原氏の政(まつりごと)が背景にあったようです。


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157.若宮-三木市内、若宮八幡編-(月刊「祭」2019.8月.13号)

2019-08-13 17:11:07 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●若宮
八幡神社、天満神社、神明神社、住吉神社、などなど全国でよくみられる名前の神社はいくつかあり、その祭神は名前が同じなら凡そ共通しています。しかし、なかなか名前が同じでも祭神が一致しないのが、「若宮」です。どのような若宮がいるのかを見ていきましょう。
今回は三木市内のふたつの若宮八幡についです。

●三木市宿原若宮八幡神社
御祭神は応神天皇、つまり八幡神です。そして、応神天皇の父神である仲哀天皇、応神天皇の御子神である仁徳天皇も共に祀られています。
仲哀天皇から見ての若宮が応神天皇にあたる八幡ということでしょうか。


地図はこちら

三木市吉川町若宮神社

上の写真の屋台は、中の太鼓には文政元年の墨書きがあり、宮座の文書にも文政元年(1818)に神輿太鼓を建立したという記事があります。そして、その屋台がかつては宮入りしていたのが吉川町の若宮神社です。
かつては、う若宮八幡宮とも呼ばれていました。ウェブページなどの社伝には、
往古、村人の久右衛門、信託により八幡宮を信仰し、妻の安産を得たことに喜び小社を建立、山城国男山より御分霊を勧請し、若宮八幡宮と称す。
とあり、八幡神を祭る神社であることがわかります。
ところで、三木市吉川町、口吉川町には神社境内に神仏習合の名残の仏像を安置するところがいくつか見られます。若宮神社もその例に漏れず、は本地堂、つまり主祭神の本地物を安置する御堂があります。そこにいらっしゃるのは、応神天皇の本地仏とされることが多い、阿弥陀如来ではなく十一面観音です。
そして、主祭神も応神天皇ではなく、応神天皇の御子神である仁徳天皇です。応神天皇=八幡神とするので「あれば」、八幡神・応神天皇の子どもを若宮と呼んでいることになります。

●八幡宮とは!?(三木市内若宮八幡宮江戸時代より後版)
三木市内の若宮八幡の祭神が異なりました。
宿原は八幡神・応神天皇が若宮、吉川は八幡神・応神天皇の若宮・仁徳天皇を指しています。
では、八幡宮=応神天皇の神社だったのでしょうか。管理人が三木市内の若宮八幡の例を見る限りでは、「応神天皇たち(御子神の仁徳天皇、父神・仲哀天皇、母神・神功皇后)」の祭られた神社を八幡宮と呼んでいたということです。




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156.管理人が韓国全羅道で受けた親切(月刊「祭」2019.8月.12号)

2019-08-12 16:02:55 | 韓国旅行案内
●全羅道へ行った理由
今回は、主に全羅道へ行きました。.
2019年8月3日から11日まで9日間の旅です。
全羅道を選んだ理由は、内山書院に行きたかったからです。内山書院は姜沆を追善するために1635年に建てられ、大院君の書堂撤廃令によりなくなったあと、1993年に再建されました。姜沆は藤原惺窩に大きな影響を与えた人物です。藤原惺窩は管理人の故郷である兵庫県三木市の出身です。日本の近世の儒学者として当時から日本文化や思考様式に大きな影響を与えた人物です。

全羅南道霊光郡内山書院

故郷の儒学者から大きな影響を与えた人の故郷を目の当たりにしたくて、全羅道へ行きました。
その時は、日本と韓国が対立関係になっていることや、全羅道が現文在寅大統領を支持する人が多い所であることを知りながら、あまり意識はしていませんでした。

空港は大きくなくて日本人も多くありませんでした。

●務安国際空港
韓国に着いてスマートフォンのシムカードを変えました。
電話が使える気配もなく、空港のコンビニの店員さんやインフォメーションセンターの方たちがあらゆる手を尽くして下さいました。特に日本語ができるインフォメーションセンターの方は昼食も食べずに2時間も時間を割いて下さいました。
韓国SKT社に電話したあとその方がおっしゃるには、日本のau社のコードを解除しなければいけないとのことです。それに対してau社はその必要は無いとこたえました。海外のシムカードを使うとうまくいかないこともあるもんだとのことです。
みかねて、その方が日本語でSKT社で聞いたことを伝えてくれました。すると、au社の方は私にコードの解除の方法を送ってくださいました。
やっとのことでスマホは繋がりました。(後で気づいたんですが、電話は繋がらずインターネットのまでした。)

●食堂にて
管理人が食堂でコムタンを食べている時、入れ墨のあるお兄さんが来られ、離れた席でビールを飲んでいました。常連らしく、自分で冷蔵庫からビールを出していました。
そして、店員の方が外に出た時に、「おいしいか?」と声をかけてくださり、話をしました。 その話の中には書くことができない下品な話もしました。そんな中でも「日本と韓国ファイティン」という話も出ました。
でもその方がいうには、日本の友達がいるようで、楽しく飲み歩いたりした思い出もたくさんあるようでした。そのあと、また、下品な話をしたあと、葡萄を一房もくださいました。

他の食堂ではご飯だけでなく、魚のおかずもお代わりしてくださり、食事のあとは土産の饅頭までいただきました。

その外には「ノーアベ」ではなく「ノージャパン」の横断幕がありましたが、関係なく親切にしてくださったので、それに気づくのに時間がかかりました。
その横断幕に気づき、そのような親切さがより身にしみました。

●道ばたにて
目的地であるお寺に行く道に、年配の女性が庭に3人ござを敷いてお話をしていらっしゃいました。挨拶をした管理人にどこから来たのか訪ね、日本からだと答えると、休んでから行きんかと言ってくださいました。
そこに私も座って話しました。
「男前やのに一人で来たんかいな」
「福岡や別府温泉はほんまによかった」
「暑いからここでしっかり水飲んでから行きなさい」
などたわいもない話からお気遣いまでしたくださいました。

目的地へ行ってから、またそこを通りかかり、そこでまた腰を下ろして話しました。
「韓日関係がよくなるといいね」
管理人もそう思いました。

我が国の経済や社会がよくない理由は韓国によるものではありません。それは経済格差が拡大する政策や表現の不自由によるものです。
姜沆も藤原惺窩も差別ではなく、自国の変化を求めていたのが本音だったと思います。



藤原惺窩像 三木市

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156.제가 한국 전라도에서 받았던 친절함(월간"제"2019.8월12호)

2019-08-11 10:25:17 | 韓国旅行案内
●전라남도에 간 이유
이번 한국여행은 주로 전라도 갔습니다.
2019년8월3일부터 11일까지, 9일간 여행이었습니다.
전라도를 고른 이유는 내산서원 가고 싶은것 입니다.내산서원(内山書院)은 강항(姜沆)을 추모하기 위해 1635년 건립되어, 1868년 대원군의 서당철폐령으로 없어졌은 후, 1993년 재건되었습니다. 강항은 후지와라 세이카(동웡성과・藤原惺窩)한태 큰영향을 주는 사람입니다. 동웡성과는 제 고향(효고형 미타사) 출신이어 일본근세 유학자로서 당시부터 지금까지 일본문화나 사고양식한태 큰 영향을 주는 사람입니다.

전라남도 영광군 내산서원
저는 제 고향 유학자한태 큰 영향을 주는 사람의 고향을 보고싶어서, 전라남도 에 갔습니다.
그럴 때는 일본과 한국의 대립관계가 있는 것이나, 전라도가 현 문제인 대통령늘 지지하는 사람이 많은 곳인 것을 알면서도 그다지 의식하지 않았습니다.

공항은 크지 않아서 일본사람도 많지 않았습니다.

●무안국제공항
스마트폰의 usim 카드를 바꿨습니다.
좀처럼 사용할 수 없어서, 공항 편의점 점원이나 인포메이션 센터 분들이 온갖 수단을 다해주셨습니다. 특히 일본어를 할 수 있는 인포메이션 센터 분은 조심도 먹지 않아서 2시간 정도로 도와주셨습니다.
한국 SKT사에 전화해서 그분이 말하기에는 일본au사의 코드를 해서하지않으니까라고 했습니다. 대해 au사는 필요없다고 했습니다. 해외Usim 카드는 이러한것이 있다고했습니다.
보다 못해서 직원분이 일본어로 다시 SKT에서 듣던것을 au사 직원에 다시 말하셨습니다.그리고 au사는 저에게 해소하는 방법을 문자를 보냈습니다...
겨우 연결 됐습니다.
공항 직원들은 진짜 친절했습니다.


●식당에서
제가 식당에서 곰탕을 먹었을 때 문신 있는 형님이 오셔서 달은 자리에서 맥주 드셨습니다. 항상 오시는 것과 같아서 자신으로 맥주를 냉장고에서 가져셨습니다.
그리고 점원 분이 나갔을 동안 그분이 "맛있어요?"라고 말걸어주셔서 이야기 했습니다. 그이야기는 쓸 수 없는 야한 이야기도 있었습니다. 그 안에서도 "일본과 한국은 파이팅"라고 하는이야기도 있었습니다.
그분 말하기에는 일본친구가 있어서 좋은 추억이 있는것과 같았습니다. 그 후 다시 야한 이야기를 해서(^_^;
그 분이 포도 한방 주셨습니다.

다른 식당에서는 밥만 아니고 생성 더하나 주셔서, 식사 후 선물로 과자도 받았습니다.

그 밖에서는 "노 아베"아닌 "노 재판"이라고 하는 현수막이 있어도 관계없이 친절하게 해주셔서 저는 현수를 알 수가 없었습니다.
현수를 찾은 후, 저는 이러한 친절함에 더 감동했습니다.

●거리에서
목적지 인 사원에 가는 길에서 어르신 아줌마가 3명 돗자리 깔고 이야기 해 계셨습니다. 인사 한 저에게 어디서 왔다고 묻으셔서 제가 일본이라고 해서 쉰 후 다시 가라고 해주셨습니다.
그곳에 저도 앉아서 이야기 했습니다.
"잘 생긴 남자 인대 왜 혼자로 왔어요?"
"난 후쿠오카나 큐슈 벳프 온촌이 좋아해요."
"더우니까 물 여기서 마시고 가요"

목적지에 간 후 다시 그곳에 갈 때도 앉아서 이야기 했습니다. 제가 듣기에는
"한일 사이가 좋게 되면 좋겠네요."
저도 이렇게 생각했습니다.

우리나라의 경제나 사회가 좋지않은 이유는 한국이 아닙니다. 그것은 경제격차가 학대하는 정착이나 표현의불자유가 이유입니다.
강항도 동원성과도 차별이아니어서 자국의 변화를 그냥 구했던것이 진심이라고 생각합니다.

동원성과 일본 미키시

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155.祭オタクのための韓国旅行のススメ(月刊「祭」2019.8月11号)

2019-08-09 19:00:29 | 韓国旅行案内
●このような時だからこそ
韓国が日本への渡航を制限(ヘイトスピーチの激化、放射能への懸念から)しようとしており、日本は韓国を貿易ホワイト国から除外する政令を公布しました。
政府間の関係は悪くとも国民間や文化間の関係は良くしたいものです。それが、本当の意味で自文化や祭に誇りを持つことにつながります。


それはさておき、一時期五万円ほどはらうようなことがあったのが、このような時なので一万円代と渡航費も安くなっています。
にもかかわらず、少なくとも管理人が旅行した間に日本人だからといって受けた嫌がらせは皆無でした。逆に日本人だからと受けた親切は数知らずです。今日コムタン(牛の内蔵煮込みスープ)を頼んだ食堂では、飲みに来ていたお客さんに、デザートにぶどう一房いただきました。


さらにそれもさておき、祭オタクとして朝鮮半島・韓半島の文化を知っていた方がいい理由を紹介します。

隣国から日本へ

・素戔鳴尊の曾尸茂梨の処降臨
播州の誇る祭文化の一つに刺繍業者「絹常」が挙げられます。そのお膝元の加東市八阪神社の屋台の刺繍工芸は全て絹常の作品です。八阪神社の屋台なので、神社の主神である素戔鳴尊をモチーフに水引幕を仕上げています。


この素戔鳴尊は「日本書紀」に「一書曰く」として下のような記録が残っています。

「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します」

曾尸茂梨の処がどこなのかにはいくつか説があります。このサイトによると、平安期の「続日本紀」の段階ではすでにわからなくなっていたみたいで、江戸時代には八箇所あげられていたそうです。
この8つの中にあるのか分かりませんが、
①現在の慶尚北道の海印寺あたりの牛頭峯(우두봉・ウドゥボン)だという説。

↑海印寺の大雄殿前から見る風景。
前掲リンク先のように江原道春川の牛頭山
など、牛頭天王との習合から考えられているのがいくつかあります。
その真偽のほどはわかりませんが、素戔嗚の出所を朝鮮半島に求める気風の中で、屋台文化が成熟してきたことは注目すべきです。

・儒教の伝達
祭りの中でよく言われる「上下関係」。これも儒教の影響といえそうです。古代より百済から仏教同様に伝わったそうです。
江戸幕府は、封建支配の強化の為に、儒学者の林羅山を重用しました。この時代のものが、今も比較的色濃く残っているように思われます。
その林羅山の師匠が、三木出身の藤原惺窩であり、彼に影響を与えたのが、文禄・慶長の役で捕虜となっていた姜沆(かんはん・강항・カンハン)です。



三木市細川町の藤原惺窩像


韓国全羅南道霊光郡内山書院姜沆像


韓国全羅南道霊光郡内山書院 姜沆の故郷。

「看羊録」という姜沆が書いたと言われる本を見ると、確かに秀吉のことを賊魁と書いたりもしています。ですが、三木合戦の前に秀吉が一人で三木側の陣内に入って長治公を説得しようとしたこと、秀吉を討つチャンスにも関わらず、長治公は秀吉を逃したことなど、長治公の人徳がある部分や、秀吉の肝の据わったさまも淡々と書かれています。

・仏教の受容と伝達

全羅南道霊岩郡法聖浦
この地にインドの僧摩羅難陀が到着し、山奥に仏甲寺を建てたと言われています。伝説ではここに百済の仏教が花開き、やがて日本にも伝わっていったと思われます。
面白いのは仏甲寺と内山書院は近い場所にあり、姜沆は仏甲寺にも文章を書いているそうです。
藤原惺窩が元々仏教僧であったように、儒仏習合からは抜け出せない一面があったのかもしれないし、そこに良さがあるのかも知れません。

今回は主に三つの例をあげました。全羅南道は伝統的に文在寅大統領の属する民主党の勢力がつよいところです。そんな中でも、本当に親切にしてくださった方がたくさんいました。政治的には対立しているところもありますが、祭文化のルーツの一つがある国だということに変わりはありません。政治を超えて差別的な発言をすることは、自分の屋台に唾を吐くようなものだと思う今日此の頃です。


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154.淡河八幡神社の屋台と祭(月刊「祭」2019.8月10号)

2019-08-08 08:26:27 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●淡河八幡神社の祭
淡河八幡神社は神戸市北区になっていますが、播州に属していました。おそらく北区で唯一の播州地域と言えるのがこの氏子地域でしょう。その祭もまた特徴的なものとなっています。今管理人は旅行中ですので、手元に資料もないまま覚えていることだけを書いていきます。


●四年に一度の祭り
この地域では確か12ほどの村を4地区に分けて年番制で祭をしています。当番地区は10月第1日曜日の秋祭りで屋台を担ぐだけではありません。中学生は神輿を担ぎ、2月11日のお弓神事もとりしきります。

また9月末には稽古屋台を地元に持っていきその宮で練習しますが、歳田神社地域の当番の時は、地域で屋台を持っているのでそれで練習をするようです。

●稽古屋台
播州では珍しい家屋屋根の屋台です。9月の最後の日曜日?か土曜日かに淡河八幡でなく、地域の神社で練習します。この時、太鼓打の中学生か小学生の運動会がずっと重なっており、毎回運動会と太鼓のダブルヘッダーだという話を2006年頃に聞きました。
さらに驚いたことに、屋根の部材に正徳年間(1711〜1716)の墨書きがあったそうです。これを即制作年代とするには早いのではないかという声もありますが、かならずしも早すぎると言い切れないと考えられます。神輿の先導の太鼓は中世の絵図には確認されています。この時は太鼓の打ち手も歩いていましたが、灘のけんか祭りでは神輿太鼓たる屋台を思い起こさせるものが、18世紀中頃にはすでに出ていたことが、文書から分かります。もしかしたら、稽古も祭りの一環と考えたら現行最古かもしれません。


●本番の屋台
本番では、着物の内側を思わせるものを法被として着ています。これは、吉川の若宮神社では伊勢音頭の歌い手がこれの着物ぐらいの長さのものを着ていました。また、東灘区のだんじりの昔の写真を見ると、浴衣地で、似た衣装を着ていました。
4、5年前に売店の方から聞いた話だと、この祭では屋台も人も決してカッパを着ないとのことです。気概は見習いたいですが、管理人にはできないです^_^;

神戸市北区大澤町ではかつて淡河から屋台を買っだことがあるという話を聞きました。


橘正義の彫り物と金具
精巧な彫刻が明石の名彫刻師橘正義(明治10年ごろだそうです)によってなされています。「橘正義 彫刻師」でグ●ると、東京の柴又帝釈天の彫刻にも名を連ねているようですが、昭和でのこと!?、みたいなので、別人でしょうか。
人物もさることながら、鳥や麒麟の体のねじれ、羽毛や鱗の一つ一つを丁寧に表現していることに驚きます。

金具は珍しい人物ものです。うすい屋根とよく合います。


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