月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

韓国旅行案内のカテゴリを開設するにあたって

2019-08-08 03:20:38 | 韓国旅行案内
南原市で食べたご飯が思いのほか美味しかったこと、ブログのアクセスアップも意識して、名所案内的なカテゴリを追加しました。
貧乏旅派、星の数は気にしない派、たまにはこんなんもええかな、という人むきです。

事故、損害は自己責任でお願いします。
オススメしますが、行けと命令はしていないことは重々ご理解のほどよろしくお願いします。オススメに従ったことによる事故、損害は自己責任でお願いします。
食レポ
特に食レポは、管理人の独断と偏見に満ちています。なお管理人の舌を友人が表すには、
「まずいと言ってるのを聞いたことがない。」
「なんでもうまいという」などです。
確かにここ20年、まずかったというのは、伸びきったラーメンが出た一回しか記憶にありません。そんな管理人の食レポです。

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153.美味しかった店 南原市20190807(月刊「祭」2019.8月9号)

2019-08-08 00:17:40 | 韓国旅行案内
●南原市(ナムォン市・남원시)
南原市は全羅北道の都市です。観光地としてよく知られているのは、広寒楼(クァンハルル・광한루です。韓国では幾度となく映画化され、演劇で上演されている古典の名作春香伝の舞台となりました。

↑写真をクリックすると広寒楼の地図にジャンプします。

また、萬福寺(マンポクサ・민족사)の跡地も高麗時代の石仏など見所があります。

↑写真をクリックすると、萬福寺の地図へとびます。


↑高麗時代の石仏

●白飯? -カシボシ- 広寒楼を歩き回り、さらに萬福寺跡を見回って、その周りも見て、また広寒楼近くの宿に戻ってきてからの食事です。他にも美味しそうな店があったのですが、決めたのは가시버시・カシボシ。불고기백반・プルコギペクパンを選びました。プルコギは焼肉。ペクパンは漢字で書くと白飯。8000ウォン約800円くらいです。
ですが、肝心の肉がないとのこと。お店の方がいうには、「(プルコギなしの)ペクパン・白飯でいいか?」と聞いてきました。
いや、「白飯だけでおかずないんやったらあかんやん。6000ウォン・約600円もするし」と思って、白飯てなんですかと聞きました。すると説明は難しいけど、一般的な定食とのこと。
出てきたのは下の写真です。
・奥一列
全部キムチです。左から 白菜、しそ?と唐辛子、もやし、菊名?
・真ん中
そこまで辛くないものが並んでいました。左から、海苔の佃煮、きゅうり?、じゃがいもの千切り、(てんぷら)オモク・오목のキムチ和え?
・手前
一番左の魚の唐揚げが、かなり美味でした。 ハタハタのように身が取れやすいのでかなり食べやすかったです。黄色いのは、出汁多めの鉄器焼き卵と言えるもので、その通りに出汁が聞いていて美味でした。右は味噌汁であまり辛くありませんでした。銀色の器がご飯です。
ここまでのボリュームと品揃えで6000ウォンはお得感があります。外観はこんな感じ↓です。 古民家カフェ -サンドゥルタホン-
肝心の頼んだエスプレッソ写真を撮り忘れました。管理人はダイエット中なので砂糖を入れずにいただきました。一杯一杯、豆を挽いて作っているのでしょうか、注文があるたびにバンという音がしていました。管理人はどの店でも格別に美味いと思ってしまうので通の人はあてにしないでください。
都市部の古民家をカフェなどに利用する動きは、今や日本ではあちこちで見られる風景です。かつての欧米志向の反省、日本の伝統工芸や芸術を見直す機運、都市部でビルでない古民家(=家賃収入、賃貸収入がほぼない)を手放す人の増加、などが理由に考えられます。
韓国でも同様で、南原も古民家がかなり残っているし、釜山やソウルでも見られます。
店内は古民家がほぼそのまま残っているようで丸い扇垂木や梁が上に見えました。これも写真撮り忘れました。外観はこんな感じ↓です。
注目すべきは下の写真で、樋があることです。韓国では樋のない建物が多く、屋根から落ちる水で濡れることも多そうです。




地図・アクセス
ここをクリックすると上の2つの店と同じ通り(南北)にあるモテルの地図ページへとびます。
下の写真と見比べて下さい。
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152.土産も有るかも!? ソウルメイン宮通りと東の仏教通り(月刊「祭」2019.8月7号)

2019-08-07 11:07:30 | コリア、外国
●ソウルのメインストリートは宮通り!?
ソウルのメイン通りと言えば、光化門(カンファムン・광화문)、景福宮(キョンボックン・경복궁)などの世宗大路(セジョンテロ・세정대로 )を思い浮かべます。地下鉄光化門駅のギャラリーに展示されていた1550年に描かれた備辺司契会図(비병사계회도・ピビョンサゲフェド・비변사계회도)を見ると既に門前の大通りができていたことがわかります。

名だたる光化門、景福宮を北にしてその南に大通りができています。通りの両側には名だたる大企業が並び、その中央線にハングルを考えた世宗大王、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)で日本軍と戦った李舜臣という二大英雄を軸線に置き威容を示しています。南に行くと徳寿宮(トクスグン・덕수궁)や南大門があります。
言わば、ソウル、朝鮮の王の宮通りともいえる様相です。
この通りの歴史は語ると長くなりそうなので、下の写真との掲載で省略します。

↑光化門の奥には景福宮があります。14世紀李氏朝鮮時代より建てられたが、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)や韓国併合による破壊を通じて再建移築を繰り返しています。今、復元作業の最中だそうです。


世宗大王像 セジョン大路・세종대로の名前の元になった王。世宗王(1397-1450)は、訓民正音つまりハングルを制定した王として知られています。像の建立は2009年。






李舜臣像。 李舜臣は文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)で朝鮮水軍を率いて日本軍と対峙しました。




●そして東の通りは仏教通り!?
・郵政総局の通り
先述の世宗大路が宮通りに対して、仏教通りといる通りもありました。それが世宗大路の東側にある郵政局路(ウジョングクロ・우정국로)です。漢字を見たら分かるようにこの地で、郵政総局が1882年に設置されたことにより、この道路も名前が付けられたようです(同所案内板による)。

郵政総局だった建物。創設後間も無く甲申政変によってしばらく機能は停止したそうです。後には教育期間などに使用されたと案内板に書かれていました。

・大韓仏教総本山曹渓寺
この郵政総局が仏教通りともいえる様相を呈しているのは、曹渓寺(チョゲサ・조계사)があるからでしょう。この寺は案内板によると、覚皇寺を1937年に移転し、1941年に太古寺と改名たそうです。大戦後の1954年に仏教浄化運動を経て大韓仏教曹渓宗の中心寺院として曹渓寺と名前を改めました。
下の四天王門の写真の扁額に「大韓仏教総本山曹渓寺」と名乗るように、韓国首都中心部にあるまさに中心となっています。
盂蘭盆が近いからか、形や色も様々な提灯で飾られていました。韓国はどこの寺院でもこのような提灯をたくさん飾る風習が見られます。このような風習が巨大化したものが韓国では燃燈会(연등회・ヨントゥンフェ)となり、日本ではキリコねぶた灯篭流しに現れ、タイにも同様の風習があると聞きましたし、インドや中国にもありそうです。






このように綺麗にライトアップされていたので、観光客や外国の方もたくさんいらっしゃいました。その一方で大雄殿、つまり本堂では信者の方が熱心に頭を下げていらっしゃいました。そして、韓国の寺院に行くとよく感じることですが、圧倒的に女性の割合が多かったです。

下の写真をクリックすると、曹渓寺への道のりが分かります。



・曹渓寺近くに立ち並ぶ店
曹渓寺近くの通り沿いに目を向けてみると、有る特徴が浮かんできます。殆どが仏教に関係した店でした。写真と一緒に見ていきましょう。













仏教関係の店が立ち並んでいますね。今回管理人は夜に訪れたので、店には入っていませんが、こういう店にはお土産になる小物が多いものです。是非、メイン通りの少し東側、ミョンドンの少し西側にも寄ってみてください。
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151.花道も流川もいない!?韓国語版スラムダンクに見る儒教(月刊「祭」2019.8月6号)

2019-08-06 08:31:16 | コリア、外国
日本のアニメや漫画は世界中で人気で、韓国も例外ではありません。しかし、国が違えば言葉も文化も違います。その翻訳の仕方に韓国の儒教文化が見えてきました。スラムダンクの最終巻から見ていきましょう。

桜木花道も流川楓もいないスラムダンク
まずは登場人物です。
プクサン高校 漢字で書いたら北山高校? 湘北ではなくなっています。
・カンペコ
赤い髪のパワーフォワード。一年生。高校生からバスケを始める。チェソヨンに一目惚れ。

・ソテウン
一年生のスーパールーキー。寡黙だが、極度の負けず嫌い。スモールフォワード

・チェチス
ゴリラ顔のキャプテン。バスケにかける情熱はすさまじいものがある。

・チェソヨン
チェチスの妹。ソテウンにゾッコン。夏の大会以後はマネージャーになる。

・ソンテソプ
イハナにゾッコンの2年生。スピード命のポイントガード

・チョンテマン
中学MVPのシューティングガード。一時期グレてたけど、再びバスケ部に戻る。

・イハナ
2年生のマネージャー。

サンワン(工業?)高校 漢字で書くと山王!?
・シンヒョンチル
元ガードの全国トップクラスのセンター。ゴリラを丸くした感じ。3年

・イミョンホン
キャプテンで、冷静沈着。語尾にいろんな言葉を使う。3年

・チョンウソン
強い相手だと燃える天才フォワード。2年生。張り合いがないと集中力を切らす場面も。



桜木花道・カンペコの言葉遣い
誰が誰だか分かったでしょうか。
一番上だけ答えをいうと、カンペコは桜木花道ですね。
花道は元ヤンの単純王で、マネージャーと晴子さんには敬語を使いますが、他には一切敬語を使いません。ある時はマネージャーのアヤコさんに「なんで私に敬語で安西先生には敬語じゃないの?」と突っ込まれる始末。こんなシーンもありました。背中を痛めて試合に出るのを咎められた花道・カンペコが、安西先生に話すシーンです。

(安西先生のアゴをビーとのばす。)
オヤジ。おまえの栄光の時代はいつだよ?
日本代表の時か?
オレは今だよ。

こんな感じだったはずです。

では、韓国語版ではどうでしょうか。

영감님의영강의 시대는 언제였죠

ヨンガンニムエ ヨンガンシデヌン オンジェヨッチョ?
국가대표였을 때였나?
クッカデピョ テヨンナ
난 지금입니다.
ナンチグムイムニダ


영감님ヨンガンニム
先生を呼ぶ場合、先生の韓国語読み선생ソンセンとなります。そして、儒教の国らしく様に該当する님ニムをつけます。ですが、カンペコ(花道)はそれは使いません。年配の男性の呼称の영감ヨンガンを使います。ですが、やっぱり敬称のニムを使っています。ではニムを外したらいいのかというとそういうわけでもなく、そうなると花道でもキツいニュアンスになるということでしょうか。

요ヨ
요ヨは口語の「です、ます」に該当します。韓国では子どもが両親に対しても요ヨを使います。これも、花道くらいワンパクでも、ヨを安西先生に使わないのは不自然な感じがするのでしょう。

입니다イムニダ
입니다イムニダは、文章にも使える-ですを表します。요ヨより改まった表現になるので、カンペコ(花道)が使っていることに少し驚きました。

敬語のハードル
韓国では儒教文化が今も大切にされています。なので、目上の人に対して敬語を使う範囲も広くなりました。かといって、先生や親とも他人行儀というわけでもないので、直訳すると「花道が敬語使ってる」ということもあるみたいです。








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150.韓国最初の仏教寺院仏甲寺大雄殿路盤擬宝珠瓦 (月刊「祭」2019.8月5号)

2019-08-05 00:45:51 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
日本では百済から仏教が伝わったとされていますが、その百済は韓国ではじめに仏教が伝わった地とされています。

●韓国最初の仏教寺院

寺全体や大雄殿の案内板によると、おおよそ下の内容になります。仏甲寺はインドガンダーラ出身の摩羅難陀によって西暦384年(枕流王元年、ちなみに仁徳天皇72年)創建されたそうです。摩羅難陀は百済に仏教を伝えるために東晋よりやってきた僧だと伝わっています。
仏甲寺の「甲」は「始まり」を意味するので、仏法の始まりの甲を意味するのだそうです。
高麗末期に覚真国師、朝鮮時代に法稜、蓮華、海稜、晴峰、龍岩、円潭、雪竇ら大禅師が経典の注釈を行いそれに伴い伽藍の修復や増築が繰り返されました。
大雄殿も例外でなく、現在のものは(乾隆二十九年*・1764年)に晴峰大禅師の主導で建てられました。正面側面とまに三間の建物です。


*清国の王の在位何年かで書いているのは、当時朝鮮が清国に朝貢していたことなよるものでしょうか。しかし、乾隆29年は実際には西暦1740年にあたり、案内板の表示とは異なります。

●屋根 上部中心の露盤擬宝珠瓦
目を凝らしてみると、建物の屋根の中心に路盤と擬宝珠のようなものが見えます。これは、創建当時のものではなく、後世修復したもので、創建当時のものは寺内の博物館で展示されています。


正面には文字はなく、側面に「畫工禅月羊」「畫手陟敏」と書いてありました。これら二人が作者と考えていいでしょう。畫・画の描き「手」は陟敏で、畫・画を加「工」した、つまり絵を元に作ったのは禅月羊といことでしょうか。
そして、背面には甲申五月と書いてあります。甲申は先述の大雄殿が再建された1762年と合い、案内板にもそう書いてありました。この甲申にはどのような意味があるのでしょうか。



仏「甲」寺と甲申の理由
仏甲寺の「甲」は十干のはじまりであり、「始まり」を意味します。なので仏甲寺は仏法の始まりを意味するのだそうです。寺院の名前に合わせて再建の年代を決めたと思われます。
そして、仏甲寺が創建されたと伝わる西暦384年(枕流王元年、ちなみに仁徳天皇72年)も、現大雄殿が再建された1762年も甲申の年になります。
申は「申す」で、仏法を伝える寺としてはいい年代になります。

仏甲寺の創建とされる年、大雄殿の再建年の甲申は、仏法を「はじめてつたえる」のに相応しい年代でしょう。大雄殿の再建は朝鮮時代前期の廃仏策を乗り越えて、あらためて伝え始める決意の年だったのかもしれません。


アクセス
仏甲寺불갑사 pulgapsa
・務安国際空港
1空港で日本語ができるガイドさんに聞いて市外バスで영광霊岩ヨングワンへ→150番市内バス仏甲寺불갑사 pulgaps行き
2務安国際空港→市外バス 光州광주クワンジュまで→ 市外バスで영광霊岩ヨングワンへ→150番市内バス仏甲寺불갑사 pulgaps行き


・ソウル、釜山から
高速バス 光州광주クワンジュまで市外バスで영광霊岩ヨングワンへ→150番市内バス仏甲寺불갑사 pulgaps行き
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149.神事を思い出させる屋台、太鼓台(月刊「祭」2019.8月4号)

2019-08-03 19:22:08 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台

屋台、だんじりによって祭がイベント化している?
昨今の祭がイベント化しており、儀礼性が薄れてきていることが名だたる民俗学者の方々に指摘されています。そして、屋台や太鼓台、だんじりの祭でその様子がよく見られていることも報告されています。しかし、たからといって、屋台や太鼓台、だんじりによって神事が忘れられているというわけではないようです。以前はだんじり編でしたが、今回は屋台・太鼓台編です。

⚫︎大市八幡神社の例
明治期に灘区新在家より購入しました。昭和40年代の巡行を最後にしばらくは、倉庫に保管されたままでした。 2014年に故郷香川で太鼓台の祭礼に携わっていた現地在住のS氏と太鼓台研究家のS氏のSSコンビともいうべきお二人と御神職さまや町の方々が中心となって復活しました。
はじめは台車の巡行がほとんどだったようですが、 年を追って担ぐ時間が長くなっているようです。人が多く集まりやすい阪急門戸厄神駅前で担ぐのも盛り上がる所の一つです。この意味では、祭がイベント化していると言えます。



ですが、宮入後は宮に参拝して締めくくっています。以前の記事でも挙げた写真ですが、太鼓台保存会の方が年末に集まって、注連縄を作っています。つまりイベント化に伴って、神事も大切にされている風景だと言えるでしょう。


●北条節句祭
加西市北条節句祭も華やかな屋台が担がれています。そして、屋台によっては、伊達花はその年に話題になった芸能人が書かれたり、いろとりどりの髪の色の青年が激しく屋台を揺らしながら楽しんだりしています。
その一方で主役の神輿や、龍王舞、鶏合せなどの大切さも認知しているようで、毎年、これらが終わった後は大きな歓声で包まれています。こらもイベント化が進む一方で、イベント化を通してより儀礼が大切にされている様子が見られます。







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148.日韓神話比較の面白さ‐ピョンピョン逃げる編‐(月刊「祭」2019.8月3号)

2019-08-03 02:13:33 | コリア、外国

●嗚呼、天につばはくこと無きように
 氏神の八幡さん、隣のダイニッタン(大日如来)、長治さん、ご先祖さんをはじめ、管理人は日本の祭のことを調べているだけあって、日本の神仏を敬っています。ここで勘違いなきようにしたいのは、(神仏を敬う、国を愛する)ことは、(隣の国を誹謗中傷する)ではないということです。「政(まつりごと)の悪しき常套手段として、差別する対象をつくり、為政者への不満をそらす。」に乗っかると、我らが神さんの天下りされた地を冒涜することになります。
 例えば素戔嗚尊は、新羅の曽之茂利(そしもり)の山に天下りされたと「日本書紀」の一書にあり、天日矛は新羅の王子の子で、その何代か後の直系の子孫が八幡さん・応神天皇になります。「政(まつりごと)」の悪しき常套手段にのっかって、横の国を誹謗中傷することは、氏神さんに唾はくようなものだと肝に銘じたいものです。


慶尚北道海印寺 一説によるとこのあたりが新羅の曽之茂利と言われています。

扶余のピョンピョン(参考文献 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)1992)

 『後漢書』東夷列伝には、下のような話が残っています。
 北夷索離国の王が出ている間に侍女が身ごもった。王はこれを殺そうとしたが、侍女が言うには、天上の大きな気が来臨したから身ごもったという。
 生まれた男の子を豚の檻に入れたら、豚はこれを口でふき、馬小屋でも似たようなことが起きた。王は是を神として東明と名付けた。しかし、東明の弓矢の腕を見て、またこれを殺そうとした。東明は逃げ行く。
 そして、次のようなことが起きます。

 水にいたり、弓をもって水を撃てば、魚鼈(ぎょべつ・魚や亀)みな水上にあつまり浮き、東明は之に乗りて渡ることを得、因りて夫余に至りて王となる。
 魚や亀が集まって、東明はを渡ります。『北史』のほうは「掩滞水」とあり、「掩」が覆う、滞水が滞るという意味から、湖となるのでしょうか。そして、王となります。『後漢書』はこれでおわりですが、『北史』ではやがて東明は百済の王となると書いています。

出雲のピョンピョン

 大国主は、80人の兄弟の荷物を持って従者として一番遅れて旅をしていました。そこに、皮がむけただれた兎が寝ています。兎の話を聞くとこうです。
「シ於岐(おき)の島に渡ろうとしたが、方法がなかった。だから海の鮫に、
『我ら兎と鮫の一族どっちが多いか比べよう。おきの島からこっちにむかってならんでごらん。私が渡って数えるから。』
ともちかけた。ピョンピョンとわたって、
『だまされたなー』とわらったら皮をむかれた。
 ないていたら、80人の兄神・八十神(やそがみ)が、海水を浴びて、風にあたるといいよっといわれてそのとおりしたら痛い痛い。」

 大国主は河口の真水で体を洗って蒲の葉を敷いてその上にねたらよくなると教え、その通りにすると傷がいえました。兎は言いました。
 「八上比売(ひめ)のハートは君のものさ」
 で、そのとおりになりました。
 フラれた80人の兄神・八十神は残念大国主を殺そうとしますが、失敗に終わります。

 

・水を渡るのは扶余は後に王となる東明、出雲は大国主が後に王となることを予言する兎
・扶余・東明は湖の魚鼈を渡り、出雲・兎は海の鮫を渡る。
・扶余・東明は牢に入れられ、出雲・大国主は従者となる。
・扶余・東明の敵は父、出雲・大国主の敵は兄
・扶余・東明は渡る前に命を狙われる。出雲大国主は渡った後に命を狙われる。

似ている
・水を水の生き物をつかって渡る。
・家族の目上の男に不遇の目にあわされ、命を狙われる。
・やがて一国の王となる。

後漢書の成立が記紀神話より早いことを考えると、出雲神話の源流も朝鮮半島に求めることができそうに思えます。


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147. 文身3(月刊「祭」2019.8月2号)

2019-08-02 15:00:45 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
⚫︎隠されはじめた入れ墨
昨今では入れ墨が隠されはじめています。分かりやすいのはリンク先のユーチューバー・アディ男さんです。

画像をクリック↑
夏ごろの映像を見ると腕にサポーターをつけています。「Ban(チャンネル停止)」されないための対策でしょうか?

このような入れ墨隠しを見るのが祭でも増えてきました。例えばマワシを巻く地域の祭の場合、入れ墨の所にテーピングを貼っているのを何度か見ました。また、露天商の方の中にもサポーターで隠している方もいました。そして、これときをいつにするかのように、祭でよく見られるようになった風景があります。
それが、露天商や神社が用意したゴミ箱です。ゴミ箱の設置はありがたいですが、「清く正しく」を過剰に意識しすぎるのもどうかと思い、昔の祭に思いを馳せるのは年をとったからかもしれません。熱い料理を作る中で暑そうなサポーターをつけるのは、少し気の毒にも思いました。



⚫︎入れ墨文化の伝播
このような「和彫り」は海外でも好まれています。このサイトによると明治期の入れ墨禁止令から、海外に活躍の場を移した彫り師もいるようです。
少し古いですが、元NBAバスケットボールプレイヤーのアレンアイバーソン選手も首筋に忠の文字を書いていました。先ほど見たヨーロッパ系の男性は左肩に和彫り、洋彫り混在したものと、行書体で「おかげさまで」と書かれていました。欧米系の方の和彫りは文字へのこだわりが強いように思えます。
そして、2011年頃はあまり見なかったのですが、最近は韓国の若い男性が和彫りの入れ墨を腕や足にしているのをよく見かけます。今のところ、隠す風潮は見られません。見るかぎりでは、足の膝より下や腕など目立つところ、ファッションとして楽しんでいる様子がうかがえます。整形が浸透しているので、彫り物にもあまり抵抗がないのかもしれません。

⚫︎韓国から伝播した若者文化
こういうと、またマネやとか言う人がいるので、韓国から伝わったファッションを三つ上げておきます。一つ目がハンド扇風機です。まだ、日本で普及してないときに、釜山かソウルの若い人たちの多くが、ハンド扇風機を持って歩いていたのに驚きました。もう一つがカラフルスニーカーと浅いギャツプです。2011年頃に韓国に行った時に、この二つを見かけました。その数年後に日本でも流行りました。

入れ墨シリーズまとめ
1、2、含めてまとめます。
・元々まじないのために発達した入れ墨文化で日本では一般的だった。
・明治期の禁制化でも依然入れ墨をしている人は多く、ちょんまげ、入れ墨の遅れているはずの人力車夫は、海外の人に好感をもたらせた。
・入れ墨を忌む風潮は明治期の禁制より続いており、今では隠されることが多い。
・海外に伝播した入れ墨文化は、欧米では文字を伴うのが好まれ、韓国ではファッションとして見えやすい腕や足にするのが好まれている。
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147. 文身2(月刊「祭」2019.8月1号)

2019-08-01 18:30:10 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
前号で魏志倭人伝の時代より続く入墨文化と海女の玉取り、そして屋台の水引幕まで考えました。
今号ではつい最近まで入墨が「文化として」定着していた様子を下に紹介する本で見ていきます。



●宮本常一「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」(講談社学術文庫)2014*より
明治十一年(1875)より幾度か日本を訪れたイザベラバードは、単身で日本を旅しました。それを民俗学者の宮本常一氏が約百年後に講義をしています。その中で入墨に関する記述がいくつかありました。一つは日本上陸間もなく見た人々、一つは人力車夫、もう一つがアイヌの女性です。ではそれぞれ見ていきましょう。引用は斜体字でイザベラの本文は(イ)、宮本の見解は(宮)とします。
* イザベラバード"Unbeaten Tracks In Japan"1885を高梨健吉が訳した「日本奥地紀行」が、平凡社東洋文庫から1973年に出版されました。それをもとに、1976年から1977年にかけて宮本常一が購読する講義を行いました。その講義をもとに1984年に未來社より刊行された『旅人たちの歴史3 古川古松軒/イザベラバード』の後半部分を文庫化したものです。

●はじめて接触した日本人
(イ)彼らは皆単衣の袖のゆったりとした紺の短い木綿着をまとい、腰のところは帯で締めていない。-中略-皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多い。
かなり入れ墨が一般的だったようですね。横浜の港の様子です。


●人力車夫
(イ)上着はいつもひらひらと後ろに流れ、龍や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた。入れ墨は最近禁止されたのであるが、装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった。
と人力車夫が禁止後も入れ墨を入れており、それは服の代用品だったことがわかります。さらに、ちょんまげも未だにしていることにふれ、宮本は
(宮) 車夫というのは、入れ墨をしているし、ちょんまげを結っていて、とても時代遅れの人たちのように思うのですが、とても良い人たちなのです。
と車夫たちが文明開化とやらに乗り切れてない状態を示しながらも、イザベラの車夫に対する肯定的な言葉を引用しました。原文とは前後しますが、あえて順序を入れ替えて紹介します。
(イ) 今まで私に親切で忠実に支えてくれた車夫たちと別れることになった。彼らは私に細々と多くの世話をしてくれたのであった。いつも私の服から塵をたたいてとってくれたり、私の空気枕をすくらませたり、私にはなをもってきてくれたり、あるいはやまを歩いてのぼるときには、いつも感謝したものだった。
車夫が悪い水を飲んでしまい痛みと吐き気に襲われてついてけなくなってしまった時はこんなことがあったそうです。
(イ) 後にのこしておくことにした。彼は契約を厳重に守って代わりのものを出し、病気だからといってチップを請求することはなかった。その正直で独自のやり方が私には嬉しかった。
(宮) と見た目には無智に見える車夫がそうではなかった。これはイザベラ・バードだけではなく、日本を旅行した外(国)人の記事の中にも人力車夫の悪口は殆ど出てこないのです。-中略-一番外(国)人に接触する機会を多く持ったのはこの
人力車夫たちで、彼らが外人に非常に良い印象を与えていたのです。

このように、入れ墨、ちょんまげの風紀を乱す要因とされた人達が、実際のところ開国間もない日本の外交を下支えしていたことがわかります。
最後に入れ墨、ちょんまげの車夫たちを言い表したイザベラの言葉を記します。
(イ) 車夫たちが私に対して、またおたがいに、親切で礼儀正しいことは、私にとっていつも喜びの源泉となった。

●アイヌの女性
イザベラ・バードが記述しているもう一人の入れ墨がある人物アイヌの女性です。ご存知の方が多いと思われることは、口の周りに入れ墨をする風習です。病気になったアイヌ女性をイザベラ・バードが看病するときの記述です。
(イ) 私は彼女の熱い手をとった。非常に小さな手で、背中には一面に入れ墨がしてあった。
(宮)これを見ると背中にもしている。こういうことをこんなものを読んで見ないとわからないものです。
アイヌの女性は口の周りだけでなく、背中にも入れ墨があったことがわかります。また、この頃はアイヌに対する強い偏見が倭人の中に根強く広まっていたことも記述しています。一方でイザベラ・バードは彼女を手厚く看護し快方にむかわせました。宮本氏は彼女のヒューマニスティックな態度が日本人に足らないものを教えてくれるとししています。



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