PART1西田敏行篇はこちら。
知らなかった。ショックだ。彼はわたしが愛読する映画雑誌「キネマ旬報」において、1968年から1976年まで編集長をつとめた。いわゆる“伝説の編集者”である。
何度も特集したように、わたしがキネマ旬報を読むようになったのは1975年のことだから、ギリで間に合ったということか。白井以前のキネ旬がどんな存在だったかといえば、“業界の官報”と揶揄されるように、硬直化した誌面だったらしい。
そのため、白井編集長は新しい血を雑誌にどんどん投入した。「読者の映画評」の常連投稿者たちに声をかけ、映画評論家デビューを果たした人も多い。文部官僚だった寺脇研さんもその一人だし、金髪好き(笑)の秋本鉄次や、映画の作り手の方にシフトした内海陽子さんもそうだ。
他に、「話の特集」の編集長だった矢崎泰久とイラストレーターの山藤章二、そして落合恵子のトリオが放談するシネマ・プラクティス、映画の名セリフをイラストとともに紹介した和田誠の「お楽しみはこれからだ」、加えてルポライターの竹中労の日本映画縦断などの連載によって、キネマ旬報は活気ある雑誌となった。面白かったなあ。
しかしそんなキネ旬の活況を、ひとり苦々しく思っていたのが、当のキネマ旬報社の社長なのである。彼は総会屋で、右翼でもあった。アナーキストだった竹中労の連載に難癖をつけ、白井とともにキネ旬から追放した。キネ旬黄金時代の終焉。
しかし以降、白井さんは映画評論家として健筆をふるい、テレビにも進出。大いに名をあげることになった。92歳の大往生。さみしいけれども、うらやましい人生ではないかという気もする。
北上次郎が亡くなったとき、「本の雑誌」は追悼特集を組み、それはまだつづいている。そこまではいかなくても、現在のキネマ旬報が、白井さんの死をどのように扱うのか、発売日が待ち遠しい。