お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

平和を願う

2008年08月07日 | 行事・案内
 昨日、佐賀教区の「平和を願う佐賀教区のつどい ~全戦没者追悼法要~」に私、仏教讃歌隊一員として参拝してまいりました。

 法要は、教務所長さん導師、各組組長さんが結衆(けっしゅう:導師の後ろで勤行される僧侶方のこと)で「正信偈」のおつとめ、焼香。

 勤行の後、仏教讃歌3曲「青草は」「みほとけのほほえみに」「いのちまいにちあたらしい」をご披露。

 ご法話は、安芸教区(広島)のS寺ご住職。ちょうど63年前の生々しい原爆の体験をお話くださいました。

 その日、中学1年だったS寺ご住職は、爆心地に近い場所で、家の取り壊し(焼夷弾による延焼をくい止め、道を確保するために、立ち退きさせられたお宅の撤去)作業にかり出され、屋根に登って瓦を降ろす作業をしておられたそうです。
 誰かが「Bが来た」と叫んだ。(当時B29が飛んでくるのは日常茶飯事だった)
 見上げたと同時に、ものすごい光が差し込んだ。Sご住職にとっては20~30秒にも思えた。
 あわてて屋根から飛び降りた。逃げようと思ったら、体から何かが垂れ下がっている。まるでシャツを脱ぎかけたように、後頭部・背中から腕の皮膚がベロンと垂れ下がっていた。
 それでも数㎞の道を歩いて避難所に向かった。
 途中、家屋の下敷きになっている人々の「助けて~」のうめき声をあちこちで聞いた。しかし、皆、自分も大やけど、大けがの身であって、誰も助ける者はいない・・・近くの太田川は死体の山。兵舎の若者も火傷で皮膚がめくれ、白身が出ている体に爆風で粉々になったガラスがささって苦しんでいた。

 避難所で応急手当を受けたS寺住職、3分の2の大やけどで「もう助からない」と宣告された。探し当ててくれた父親の手配で「どうせ死ぬなら家で死にたい」と10数㎞離れた実家まで、夜通し、リヤカーで運んでもらった。
 翌朝、実家の寝間に寝かせようとしたところ、夜間、体をくるんでいた毛布の繊維が火傷の身にくっついて、剥がせられなく、そのまま寝間に運ばれた。あまりの痛みで「死にたい」と叫んでいた・・・

 半年の療養でお元気になられたそうです。奇跡的に原爆症も出ず、9人のお子さんにも恵まれ、元気にご住職の職務をお勤めなさっているとのこと。
 「原爆で、同級生は、ほとんどが亡くなってしまいました。同窓会をしたくてもできません。」
 「今、スーパーなどで食品が山積みになっているのを見ると、飢えで亡くなっていった友人を思い、涙が出ます。」

 重い言葉です。 

 今、ノーテンキに生きている私ですが、多くの方々の犠牲の上に、今の恵まれた生活があることを忘れてはいけない 戦争は悲しい・・・ とあらためて思ったことでした。
コメント (3)
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