2日、寺族勉強会に出席。
講師のO先生が歎異抄の味わいをお話くださっています。
当日は第5条。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだ候はず・・・(略)」
日本人の仏教に対する伝統的感覚は
①攘災招福(災難をはらい、福を招く)の祈願祈祷
②追善供養(先祖供養)死者の霊を慰めるために読経
つまり、
「自分や自分の愛する者の幸せを願う」
「供養を物故者のためにしてあげる」
という、本来の仏教とは、かけ離れた感覚(自分自身の心が何も問題にならない)で仏教をとらえがち。
大切な人の幸せを願うのは誰もが持つ凡夫の情ですが、では見知らぬ他人の幸せはどうなのか。
また、死後さまよったり、たたったりする「霊」ではなく、尊い覚りの「仏」となっておられる先祖を煩悩だらけの凡夫の私ごときが「慰霊する」とか「冥福を祈る」など、何と不遜な考え方でしょう。
親鸞聖人は
亡き父母の孝行や供養のための念仏ではなく、仏さまへの讃嘆、報恩感謝の念仏であることをお示しくださっています。
故人の祥月命日や年忌法要を大切にお勤めするのは、故人のためでなく、私が仏縁にあわせていただくため。
故人の生前の御恩に感謝するのはもちろん、今は仏となって私を心配し、私が仏の教えに心を合わせ生きることを願ってくださっていることに気づかされるため。
普段なかなか手を合わせず、念仏も称えないこの私が仏前に座らせていただくための仏事、仏縁だと、あらためて味わせていただきました。
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