浄土真宗本願寺派の月刊誌『大乗』7月号の法話記事に
「迷わないことの恐ろしさ」
がありました。
例として、
「迷わない先生」と「迷う先生」
「迷わない先生」は真面目で一生懸命だが、自分の正しいと思う価値観で、生徒の思いを聞こうとしない先生。
一方、「迷う先生」は
「この子にとって一番いいことはなんだろう」と迷いながら接してくださる先生。
仏教で、仏さまの智慧なく、悟りに遠いことを「迷い」とか「無明」と表現されますが、
私が忘れてはならないのは、私が迷いの(私は必ずしも正しくない、自分の思いに固執する)存在である自覚。
私に迷っている自覚がないと
「人の思いを聞くこともなく、正しさを押しつけ、傷つけても気づきもしない、そんな確信に満ちた迷いこそ「無明」の姿」
と、筆者がお示しくださっています。
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