『この文章は眠れない深夜に書き込んだものである・・・』
自分がブログを始めて、そろそろ2年になる。
以前、文章で表現する仕事に携わっていた自分にとって、
自らが作者となり体験や日記等を記載して話題を提供できる
このブログというWebサイトは、転職以後、途絶えていた
「書く」という欲求を存分に満たしてくれるものだった。
そこに現在の仕事である「保津川下り」や「峡谷の自然」を紹介する
「情報発信サイト」という大義名分も加わり、この2年間、本当に
‘没頭’したという表現が大袈裟でないほど、このWebサイトは
自分の生活サイクル中で大きなウエイトを占める存在になった。
確かに「我こそは保津川下りの宣伝マン」という使命感はあった。
去年来「毎日更新」という‘こだわり’という名のノルマを
自らに課し、精一杯PR活動を展開してきた。
もちろんその点に置いては、日に4千件を越えるアクセス数を
確保するなど一定の成果があったものと自負するところであるが、
その反面、「公共性」の高いサイトとしての性格上、
自分の思考や意見が「保津川下り」というイメージを
形成する危険性もあり、書ける内容にも
ある一定の制限を設ける必要があったことも否めない。
これがブログ設立当初の動機であった‘本当に自分を表現する場’
になったかと聞かれれば「?」といわざるを得ない。
そしてなにより、今、自分というものが本当に表現できるのか
その自信すらない自分がいる。
ブログに関わる時間的な拘束、ただ更新だけが目的になった安易な文章、
ランキング数に捕われている低次元な虚栄心などに振り回され、
なくしてしまったものがあまりにも多いように感じられてならない。
鋭い感性、深い思考力があまりにも乏しくなったのは、
自らが書き込んでいる拙い雑文を読み返せば容易に察知できる。
およそ文章を公に公開するという事は、自らの頭の中の
思考力を公に晒す行為にも等しく、この2年間の投稿文を
読み返してみるとまさに赤面の至りでなのである。
学生の頃は試験前やゼミのプレゼン前には、毎日の様に徹夜で勉強出来た。
また、一日で2~3冊の専門書を読破しレポートも仕上げた。
記者時代の論説記事には、膨大な取材ノートや資料を整理し
800字~1000字内で起承転結をまとめ上げた。
もう、その頃の能力は自分にはない。
表現者としての舞台から降り、知性を磨くという努力を放棄した者が
味わう当然の報いなのだろうが、今はただ無性に寂しく感じるだけだ。
我が目の前に広がる、深夜の厚い帳は、どうやらまだ明けそうにないのである。
自分がブログを始めて、そろそろ2年になる。
以前、文章で表現する仕事に携わっていた自分にとって、
自らが作者となり体験や日記等を記載して話題を提供できる
このブログというWebサイトは、転職以後、途絶えていた
「書く」という欲求を存分に満たしてくれるものだった。
そこに現在の仕事である「保津川下り」や「峡谷の自然」を紹介する
「情報発信サイト」という大義名分も加わり、この2年間、本当に
‘没頭’したという表現が大袈裟でないほど、このWebサイトは
自分の生活サイクル中で大きなウエイトを占める存在になった。
確かに「我こそは保津川下りの宣伝マン」という使命感はあった。
去年来「毎日更新」という‘こだわり’という名のノルマを
自らに課し、精一杯PR活動を展開してきた。
もちろんその点に置いては、日に4千件を越えるアクセス数を
確保するなど一定の成果があったものと自負するところであるが、
その反面、「公共性」の高いサイトとしての性格上、
自分の思考や意見が「保津川下り」というイメージを
形成する危険性もあり、書ける内容にも
ある一定の制限を設ける必要があったことも否めない。
これがブログ設立当初の動機であった‘本当に自分を表現する場’
になったかと聞かれれば「?」といわざるを得ない。
そしてなにより、今、自分というものが本当に表現できるのか
その自信すらない自分がいる。
ブログに関わる時間的な拘束、ただ更新だけが目的になった安易な文章、
ランキング数に捕われている低次元な虚栄心などに振り回され、
なくしてしまったものがあまりにも多いように感じられてならない。
鋭い感性、深い思考力があまりにも乏しくなったのは、
自らが書き込んでいる拙い雑文を読み返せば容易に察知できる。
およそ文章を公に公開するという事は、自らの頭の中の
思考力を公に晒す行為にも等しく、この2年間の投稿文を
読み返してみるとまさに赤面の至りでなのである。
学生の頃は試験前やゼミのプレゼン前には、毎日の様に徹夜で勉強出来た。
また、一日で2~3冊の専門書を読破しレポートも仕上げた。
記者時代の論説記事には、膨大な取材ノートや資料を整理し
800字~1000字内で起承転結をまとめ上げた。
もう、その頃の能力は自分にはない。
表現者としての舞台から降り、知性を磨くという努力を放棄した者が
味わう当然の報いなのだろうが、今はただ無性に寂しく感じるだけだ。
我が目の前に広がる、深夜の厚い帳は、どうやらまだ明けそうにないのである。