保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

いのちの声を聴くまでは。

2006-06-06 06:40:48 | 船頭の目・・・雑感・雑記
前回の記事を投稿して以来ここ数日間、PCには座らなかった。

もう一度、自分とブログとの関わりを見直したかったからだ。

自分がブログというWebサイトと出会い、
この2年間で書き込んだ記事の数は671。

費やした時間とエネルギーは相当なものだったのと思うが、
その根底に流れていたものは、自己をアピールするという
実にそこの浅い虚栄心だったかもしれない。

誰にお願いされた訳でもないのに自分を曝け出し「仕事の広報マン」
まで務めたが、その内容は自己満足に満ちたもので、改めて読み返すと
自らの浅はかさに打ちのめされ自己嫌悪に陥った。

ブログに向かう間、自分の身にこべりついた虚栄の皮は
剥いでも、剥いでも次々と再生され姿を見せるのだ。

自らの精神的未熟さゆえのことであり、一切の言い訳は許されない。

だが、だからといってもうブログを書かないという
ことで誤魔化して済ませることに意味があるとも思えない。

たとえ底が虚栄に満たされていようとも、自らの
書こうとする欲求、表現する欲求は押さえがたく、
その表面を覆い尽すであろうからだ。

まだまだ未熟であることは自分が一番よくわかっている。

そんな自分のブログに、本物が書ける人たちは
大きくやさしい心で哀れみの眼差しを投げかけてくれるだろう。

自分には困難に遭遇した時、よく悩みを相談した人生の師といえる人がいた。

師は若き日、極限状態の途上国で難民キャンプの医療に携わり、
その人生の半分以上を、人の死とともにされた医師だ。

晩年、最先端医療を誇る日本有数の大病院の院長もなされたが、
人類愛の至情捨てがたく、宗教家として心の救済に生涯を捧げられた。

師が今、生きておられたら、どのように仰られるだろうか。

恐らく「未熟などと自らを慰め、高慢な虚栄に浸る暇があったら、
心の底から突き上げてくるものに自らを動かし、虚栄の
泥水のなかで、一生懸命のたうちまわること。
その中から悟れることが本当の‘いのちの声’だ」と叱咤されることだろう。

恥ずかしくてもいい。 裸の王様の姿を自らにみても構わない。

この虚栄の誘惑漂い渦巻く、ブログという世界で
のたうちまわり‘いのちを声’をこの心に聴くまで
自分は書き続け、立ち続けていこう、今はそう思うのである。