保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川下りの船頭さんが人命救助!

2005-07-21 23:09:53 | 船頭
京都で祇園祭が行われていた
3連休の中日の事です。

保津川下りの船が、川で溺れている
人達を救助する出来事がありました。

それは、午後2時過ぎの事、はっちんの船の
3隻前の船で起こりました。

その船が乗船場を出発してしばらく下った所に
上内膳堤跡の湾があります。
そこに人らしき影が二つ浮いているのが
目にとまったそうです。

その人らしき影は、やはり大人と子供二人の人でした。

最初は「また、無茶な人達が泳いでいるのか?」と
思ったそうですが、船が近づくにつれ、それが
泳いでいるのではなく、溺れているのだ、という
事の気がついたのです。

その事に最初に気がついたのは、船の舳先で棹を
さしていた船頭・田中雅夫さん。
「この人達、溺れている!」と叫んだ声を聞き、
この船の船長・疋田(ひきた)好一さんが
「船を回して、助けに行こう!」と決断!

乗って頂いているお客さんにも了解を取り付け、
舵を持ち船を方向を決めている船頭・大森秀樹君に、
方向変換を指示、親子らしい人達が溺れている
湾に船を向かわせました。

船が近づいていっても、気付かないほど、
その人達は意識が朦朧としており、時折、
頭が沈んだり浮かんだりを繰り返していました。

これは相当マズイ状態です。

田中船頭が棹を伸ばし、まず子供に差し出しました。
その子は、棹が体に当ったことで、気がついたらしく、
しっかり、掴み返してきました。
その手を離さないように、ゆっくり慎重に船に
導きます。
船の横へ体が引っ付いた時、船長と二人で一気に、
その子の体を引き上げ、見事救助成功!
子供はすでに多くの水を飲んでいたようですが、
消防で講習を受けた救助方法を使い、蘇生に成功。
何とか意識を取り戻しました。

その後、親らしき大人の男性も同じ手順で、
救助に成功し何とか二人とも、引き上げることが
出来、二人とも一命を取り留めたのでした。

二人を助けあげた時、乗っておられたお客さんから、
拍手が自然と沸き起こったそうです。

後で聞くところによると、彼らは親子ではなく、
叔父と甥っ子ということでした。

一緒に保津川乗船所の河原でバーベキュー
をしていたそうです。
あまりにも暑いので「川で泳ごう!」ということに
なり、子供が泳ぎ、深みに足を取られて、溺れた
そうです。それを助けようと、叔父さんが
飛び込んだものの、自分も溺れ流されたようです。

そこへ、運のいいことに、偶然、船が下って
来たということで助かったのです。

今回は船が下っていたので、事なきを得ましたが、
川はプールとは違います。

泳ぎの達者な人でも、溺れるのが川です!

公共性の高い川では法的な規制がかけ難い様ですが、
保津川は泳ぐのに適した川ではありません。
暑いからといって決して泳がないようにお願いします。


この夏、悲しい出来事が起こらない事を祈りたいです。

美しい保津川を取り戻せ!保津川ハートクリーン作戦!

2005-07-20 07:07:58 | 保津川エコ・グリーン委員会
美しい保津川を甦らせる運動
「保津川ハートクリーン作戦」が
昨日から始まりました。

三連休の後の保津川の河原です。
連日、たくさんのグループがバーべキューを楽しんで
いましたが、翌朝いつもゴミが散乱しています。
一部の人達でしょうが、自分達の楽しんだ
後始末だけはしっかりお願いします。
これらのゴミが河川の増水で下流に流れ、河川環境の
悪化に繋がっていくのです。



川掃除のスタートです。先日の増水で上流から
たくさんのゴミが流れて川の両護岸に打ち上げられて
います。ゴミのほとんどがペットボトルや食品のトレイ
などのビニール類です。これらの製品は土に返らないので、
拾わないと永遠にゴミとして存在し続けます。



川岸の足場の悪い所でも作業です。ゴミの一つ一つを
不燃物用のゴミ袋に入れていきます。あまりにも
多くたまっているゴミの塊。思わず気が遠くなりそうな
地道な作業です。このゴミの塊の中には、蛇やムカデなど
もいるので、十分、注意をして掛からなくてなりません。



ゴミは打ち上げられている物だけではなく、
川の中にもたくさんたまっています。
深い所は川中に入る事ができないので、陸から
長い竹の棒や網で集めて、掬いながら拾います。
川岸のテトラポットの上からの作業は、足場も
悪く、慎重に作業を進めます。


川掃除作業は午後の2時からはじめて、炎天下の中、
約3時間続けられました。
今回は渓谷の入り口付近まで、進めることができました。
それでも、ゴミの量は軽トラに山積みして4台以上、
ゴミ袋は200袋以上を使用しました。

今後は渓谷内に引っかかっているゴミを、
船を出して拾っていく予定です。

今回約40名以上の船頭が参加してくれましたが、
ほとんどが船を下って、帰ってきてから作業に
当ってくれました。
仕事で疲れているにもかかわらず、炎天下の中、
続けての川掃除、ご苦労様でした。

これからも頑張りましょう!

保津川ハートクリーン作戦!始動開始!

2005-07-19 17:17:19 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
今日、長年の懸案であった
保津川のゴミ問題解決を目指した
プロジェクト「保津川ハートクリーン作戦」
を開始しました。

私達の仕事場・保津川には、洪水のたびに上流から
大量のゴミが流れてきます。

これらのゴミは、船の航路両岸に引っかかり、
著しく景観をそこねており、観光業を営む者として
いつも心痛めていた問題でした。

このゴミ問題解決は私達にとって、至急に掛からな
ければならない問題でしたが、行政では管轄の問題等で
予算が取れず、遊船という会社で事業を行えば
作業中の事故などの際、労災などの補償問題が難しく
(おかしな話ですが、労災を使うと企業評価を下げるぞ!
と労働基準局に怒られます)
また水位の増水の度に作業に掛かると、
いたちゴッコという意見が多く、中々取り組めなかった
のが実情でした。

しかし、保津川下りは京都有数の観光産業です。
保津川が汚れていることは京都の恥、私達船頭の恥です。

行政や会社側の反応を待っている事はできません!
「私たちの仕事場を自分達がきれいにしなくて、
誰がするのか!」という気概のもと、
「私達船頭のボランティアの手で掃除をしよう」
と、このブログにも登場してくれた森田孝義君や
ロマンの男・保津川のジョニーこと、山内茂君ら
若手船頭達が立ち上がってくれました。

彼らは賛同する船頭の署名を集め、遊船本部に嘆願書
を提出、その熱い思いを会社側も受けてくれ、
ボランティアの許可を頂いた次第です。

このボランティア制度が許可されたことで、
今後、増水後のゴミを随時掃除できる
体制が整いました。

夏の川掃除は、足場の悪さだけでなく、
マムシやスズメ蜂の巣など、本当に
命にかかわる危ない作業となります。
それにもかかわらず、自分達の川を美しくしよう
という若手船頭の心意気、男気を感じてください。

今日実施した川掃除には、約40名の船頭が
参加してくれました。その中でも、
若手の熱い思いを意気に感じて下さったのか、
炎天下の中、大ベテランの船長さんクラスの方々も
参加して下さいました。
本当に目頭が熱くなる思いでした。

長年の懸案であったゴミ掃除を通じて、
保津川遊船の気持ちが一つになる手応えを感じました。

これぞ!まさにハートクリーンです!

船頭みんなのこの熱い思いを胸に、
夢である保津川下りと峡谷の「世界遺産」登録を
目指して進んで行きたいと思います。

これからも皆様のご指導、ご鞭撻よろしくお願いします。

いよいよ梅雨明け、京都の夏、保津川下りの夏が始まります!

2005-07-18 17:13:59 | 船頭
いよいよ、梅雨明け宣言も出され、
京都の暑い夏が始まります。

保津川でも、夏本番を感じさせる炎天下の中、
夏・最初の3連休を迎えました。

この3連休は毎年、京都を代表する祭・祇園祭とも
日が重なることから、私達船頭にとっては
とても忙しいハードな連休となるのです。

祇園祭の翌日となった今日も、朝から大勢の
お客さんが保津川下りの乗船所にお越しくださり、
私達船頭も大忙し、一日2~3回と嵐山まで
下って行きました。

乗船中のお客さんにお聞きするとやはり、祇園祭
帰りの方が大勢おられました。
「暑いから祇園祭を見て、寺観光も疲れると思い、
涼しいそうな保津川下りに来たよ!」と
嬉しい事を仰ってくださる方もおられ、
船を漕ぐ手にも力が入りました。

祇園祭の波及効果が保津川下りにも明らかに
出てきているようで、改めて京都観光の偉大さに
感謝です。

昨日ある友人が教えてくれたのですが、なにやら
FMラジオのパーソナリティが、祇園祭と保津川下り
のことを話題にしてくれていたようなのです。

話によると「明日京都では、祇園祭の山鉾巡航です。
暑い京都で雅な祭を見た後は、雄大な自然の中を
下ってく‘保津川下り’で京都の涼を感じてみてるのが、
通な京都観光らしいですよ!」と話されていたそうです。

友人曰く「よくよく聞いていると、その通なコース、
実ははっちんブログからのネタじゃありませんか~!」
と言うのです。

こんなところにも、はっちんの保津川下りブログの
効果が出ていたとは?
驚くと同時に本人としては嬉しい限りですが、
本当にブログネットワークの凄さを
感じずにはいられませんね。

ちなみのそのパーソナリティさん、ご本人は
保津川下りをされた事がないとのこと。
是非、機会がれば一度お越しください。
保津川を紹介して頂いた方なら
皆さん大歓迎です!

京都ではこれから、お盆に大文字の送り火や
などビックイベントが目白押しです。

保津川下りも忙しい暑い夏を迎えます。
私達もこの暑さに負けず、楽しい川下りを
演出していきたいと思っております。

祇園祭・宵山

2005-07-17 07:35:22 | 京都情報
昨日16日は祇園祭の宵山でした。
土曜日が宵山にあたるのは11年ぶりとの事。
凄い人出になることは分かっていましたが、
この時期になると、どうしても
‘コンコンチキチン、コンチキチン’が恋しくなり
ついつい、繰り出してしまうはっちんです。



京都の両親の家に車を止め、烏丸御池側から、山鉾を
目指します。まだ、6時前で人通りも少なめでした。


烏丸御池の名所といえば、やっぱり新風館!
新風館とは、大正十五年、逓信省の電話交換オペレーションセンター
として生まれ、その後NTTビルとして使われていた洋館。
今は最先端の情報発信型商業施設”新風館”として生まれ変わったもの。



昨日は宵山ということもあり、地元FM局αーステーションの
公開放送が催されていました。中央のエントランス広場には
ホットドックやかき氷の屋台が並び、大勢の若者で
賑わってました。



ここ新風館にははっちん御用達の金襴アートファッションの
お店「M-HERO」があります。



M-HERO」さんは、京都西陣織で使用される金糸を織り込んでハンチング帽子やベルト、携帯ストラップなど
を作られている、新進気鋭の京都アートの担い手なのです。

金襴とは「ひな人形」や「僧の使用する衣」、「掛け軸」などに
使用されている、柄を織り出した織物のことです。
この日は宵山に加えイベントも催されていたので、
お店の前には黒山の人だかり状態でした。
邪魔にならないように店員さんに少し挨拶し立ち去りました。


そして、恐ろしい人だかりの中、山鉾を目指して突き進みます。
しかし、想像以上の人の多さ、一回人ごみに入ると、
もう身動きがまったくできません。
右にも左にも、上にも下にも行けないのです。
もみくちゃにされながらも、祇園祭の花形鉾?長刀鉾を目指します。




人ごみにもまれること約30分、やっとのことで長刀鉾まで
たどり着くことができました。
シャッターを切ろうとするのですが、身動きがとれず、
いいアングルが定まらないです~

山鉾を通り過ぎても、わき道にそれるのに、
これまた、一苦労。合流する交差点では、人の
渦巻き状態ができ、体が捻じ曲げられそうに・・・

どこへ避けても人、人、人、の祇園祭。

京都人ならこの様な事態は、最初から分かっているのですが、
なぜか行ってしまうのが、祇園祭なのです。



英国王室お気に入り?保津川下り!

2005-07-16 23:35:57 | 船頭
先日、とっても驚いた話を聞きました!

それは、400年記念事業の事で、京都府庁の
ある局長さんとお話していた中での事でした。

以前英国のロンドンに滞在経験があるその局長さん。
英国の友人に日本のイメージについて話していたら
保津川下りの話が出たと仰るのです。

その内容とは?

英国人の友人曰く、「この英国で日本と聞いて真っ先に
イメージするものは、富士山と保津川下りですね!」
と言われたそうです。

思わぬところに地元・京都の保津川下りという
名前が出てきた事に、局長さんも大変驚かれた
そうですが、それを聞いたはっちんも椅子から
転げ落ちるほどびっくりしました。

あの七つの海を制した、栄光ある大英帝国の伝統を
持つイギリスの人達に、私達の保津川下りが
それほど認知されているとは、
思っても見ないことですから。

詳しく聞くとところによると、まだ日本と英国が
同盟関係にあった大正時代に始まる。

大正9年(1920)にルーマニア皇太子が欧州で
始めて保津川下りをされ、
大正11年(1922)に英国皇太子がご乗船された
時、渓谷の美しさとスリルを絶賛された事で、
ヨーロッパ全土に「日本の保津川下り」が
知れ渡ったというのです。

その後も昭和4年(1929)には英国グロスタニー公
ご一行を政府がご招待するなど、当時の国賓として
招かれた欧州諸外国の王族の多くが
保津川下りを体験されたということです。

戦後も、アレキサンダー内親王を始め、
ランドルフ駐日大使、昭和40年(1965)には
マーガレット内親王、スノードン卿が、川下りを
楽しまれたという記録が残っています。

国内でも大正4年(1915)に宮内大臣・土方泰山公が、
大正15年(1926)には昭和天皇、秩父宮妃殿下
昭和58年(1983)には常陸宮妃殿下と皇族の方々も
保津川下りを楽しまれなど、皇室外交には
欠かせない日本を代表する歴史的な観光地だった
というのです。

英国を中心とした欧州各国の来賓を魅了し、
堪能させた保津川下りの名は今でも
ヨーロッパ全土で健在だというのです。

これはかなり凄いことではないでしょうか!

現在、保津川下りでは、海外向けの
宣伝活動などは展開していないのですが、
それでも毎日の様に、海外からのお客さんが
多くお越しになります。

私達が意識してないだけで、実は保津川下りは
海外で人気の観光スポットという事なのでしょう。

この誇りある川下りの伝統を引き継ぐ者として、
また、観光を通じて日本のよいイメージを発信
する為、更なる意識と技術の向上に努めことの
必要性をひしひしと感じているはっちんです。

祇園祭とキャンペーン

2005-07-15 17:31:03 | 船頭
私達の保津川下りでは毎年、祇園祭が
行われるこの時期に、京都駅中央口前
で宣伝キャンペーンを開いています。

今年は宵宵山の今日に行いました。

地元紙・京都新聞の調べによると、昨日の宵々々山には
約20万人(午後10時現在、京都府警発表)もの
人出があり、歩行者天国となった四条通や烏丸通などは
浴衣姿の若者や観光客で凄い賑わいだったとのことです。

これだけの人を京都に集める「祇園祭 」はさすがに
日本の3大祭りであり、京都を代表する祭です。

この賑わっている好機を逃す手はないという
考えから、JR京都駅さんのご好意を頂き
この時期に宣伝活動をしているのです。

保津川遊船は私達船頭で経営する企業組合なので、
組合運営すべてを船頭自身で賄っていかなばなりません。

宣伝営業もすべて船頭で行います。
船頭たちはハンテンをスーツに着替え、
ハッスル!ハッスル!

夏のキャンペーンは、駅を通行している人達に、
保津川下りの写真を貼った団扇と「保津川下り」
のパンフレットを手渡しで配ります。

その努力の甲斐あってか、毎年、多くの方が
保津川下りにお越しいただいてます。

昼は保津川峡谷を渡る涼やかな風に吹かれて、
夜は熱く盛り上がる祇園へ行くのも、この時期の
京都観光の定番コースになりつつあるのかな~?
と感じてます。


祇園囃子が聞こえてくると京都はいよいよ梅雨明けです。

今年も暑い京都の夏が始まります。

400年記念委員会・大悲閣の法要にお参り。

2005-07-14 12:04:58 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「花の山 二町のぼれば 大悲閣」と
松尾芭蕉の句にも登場する「大悲閣」は
保津川下りの生みの親・角倉了以が
保津川開削工事の犠牲者の菩提を
弔うために嵐山の山中に建立した禅寺です。

7月12日はその角倉了以の命日にあたることから、
私達保津川遊船企業組合の400年記念委員の皆で
法要にお参りをさせていただきました。

参加した委員は14名。

大悲閣の裾野にある嵐山温泉・嵐峡館のご好意に
より、送迎船に乗船させて頂いての参拝でした。

了以については以前にも紹介しましたが、この大悲閣は
了以の悲願であった水運事業立ち上げの為、開削工事に
協力し命を落とした人たちの菩提を弔う寺であるので、
その犠牲者の尊い犠牲の上に、今の保津川下りが
ある事を再認識し、この400年記念行事を迎えたい
というメンバーの熱い思いから実現しました。

大悲閣とは、観世音菩薩を安置する山の上の
観音堂のことで、「大悲」とは仏教の慈悲の「悲」
から取られているそうです。
「全ての苦しみを抜きたい」という、やさしい慈悲の
心が右に左にと別れて、痛く悲しくどうにかしてやりたい
と思う心だと和尚さんから教えてもらいました。

大悲閣の本尊は千手観世音菩薩で、了以の念持仏
だったのですが、今ではその千手観世音菩薩を守る
本堂は、暴風雨によって全壊し
横に仮本堂が建てられているのみです。

檀家もなく観光寺でもない大悲閣の維持は
大変なようで、本堂の再建も難しいようです。
この400年を機会に保津川と大悲閣との
新たな関係が作られることを祈りたいです。


でも、この大悲閣、司馬遼太郎の「街道をゆく」
で多くのページを割いて紹介されている様に、
周辺の観光寺に引けをとらない、魅力ある寺だと
はっちんは思いました。

観光地・嵐山渡月橋から、右岸の散歩道をしばらく
歩いていくと嵐峡館が見えてきます。その左へ
分け入る道が大悲閣千光寺への参道です。

山の中腹に建っている寺なので、しばらく
つづら折りの石段を登って行かねばなりませんが、
参堂から見る景色には、一瞬言葉を失うほどの美しさ、
圧巻です!特にここからは京都の市内が一望でき、
遠くは比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰までも
見え、まさに聞きしに勝る絶景ポイントです。

混雑している渡月橋付近からちょっと足をのばしただけで、
こんな静寂な別世界が広がっているとは驚きです。

夏には冷たい抹茶も注文でき、涼やかな風が吹く参堂から
ほっこりと京都を一望し飲むのも粋だと思います。

ひと時、俗世間を離れてみるのもいいかも知れませんね。

京都・嵐山に来たら、是非、保津川下りゆかりの
大悲閣を訪れて見て下さい。

「保津川下りの船頭さん」ブログが1年。

2005-07-13 10:01:52 | 船頭
私はっちんのブログ「保津川下りの船頭さん」
を始めて今年の7月11日で1年を迎えました。

これもひとえに毎日、ごらん頂いている
読者の皆様のおかげと大変喜んでいるところです。

私の仕事である「保津川下り」をもっと多くの
方々に知って頂こうとはじめたブログでしたが、
始めてみると、いろんなことに興味を持ってしまう
自分の性格からか、京都の話題、趣味の話と
段々と書き込む内容も増え、思わぬ形のブログに
なった、というのが正直な気持ちです。
自分としては、ただただ、手探りで一生懸命に
書き綴った1年間だと思っています。

また、話題が広がるにあわせて、たくさんの方々とも
コメント等を通じて知り合いになることができるなど、
ネット機能のすごさを改めて感じることができました。

私のブログは、京都観光で全国的に有名な「保津川下り」
という知名度の高さのおかげか、ブログ開始直後から、
予想を上回るアクセスを頂きました。

GWやお盆、秋の紅葉時は、日に800件を超える
アクセスを頂き、サイトランキングの上位に入るなど
PCの前で感動したこともうれしい思い出です。

この感動を励みに、今後も独りよがりにならない、
保津川や京都の楽しい話題を中心に、紹介して
いく所存です。

これからも「保津川下りの船頭さん」・はっちんを
よろしくお願い致します。



☆コメント、TBもお気軽にお寄せくださいね。
 みんなで楽しく語りましょう!



保津川下りと角倉了以

2005-07-12 12:04:08 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
私達が日々仕事をしている
保津川を開削し、船の運航
を可能にしたのが、
京都は嵯峨出身の豪商
角倉了以(すみのくらりょうい)です。

その角倉了以が、保津川を開削してから
来年で400年を迎えます。

この記念すべき年を迎え、保津川下りの‘生みの親’
了以の功績を大いに讃え、広く内外に伝えながら
その人となりを偲ぶべく、保津川下りでは来年に
記念事業を開催する予定です。

そこでこの保津川下りの船頭はっちんのブログでも
400年記念事業というカテゴリを設けて角倉了以や
事業計画を紹介し、来年に備え盛り上げたいと
思っています。

そして第一回はやはり‘生みの親・角倉了以でしょう、
ということに。よくご存知の方も多いとは思いますが、
少し詳しくご紹介したいと思います。

了以は本姓を吉田といい、近江((滋賀県)・犬上郡
吉田村の出で、室町時代より医術で幕府に仕えた
家柄でしたが、嵯峨を拠点に土倉(金融業・質屋)も
営むなど、強い経済力も持っていました。

了以が生まれた16世紀半ばは、世界が大航海時代を
迎えていた時代。
当時の強国(スペイン、ポルトガル、オランダ)などが
世界の海に繰り出していました。日本でも大商人たちが
大船団を組織し、東南アジアを中心に貿易(朱印船)を
始め、巨額の富を手に入れていました。
了以はその大商人の中でも代表的な人物で、
朱印船貿易の数も通算航海数17回は、商人達の中でも
最多の航海数なのです。了以の朱印船は安南(ベトナム)
貿易で、リスクは大きいものの、成功すれば莫大な利益
を生む事業だったので、寛永の鎖国政策が発令される
までは、角倉家の経済戦略の主要分野だったようです。

多くの商人達が貿易で儲けた時代にあって、了以が
その時代の商人たちと大きく異なる事は経済戦略が
海外だけに向けられたものではなく、同時期に
国内にも新事業の展開を摸索していたことです。
安南貿易を開始した翌年の慶長9年(1604)に、
美作(岡山県)和気川で川底の浅い川を自由に行き来き
する高瀬舟をみて、了以は水運事業を思いつきます。

この事業、当時では物流の革命ともいうべき時代の
最先端事業でした。

その最初の舞台となったのが保津川です。

了以は2年後の慶長11年(1606)に
保津川開削事業に着手し、半年で完了させ
船の運航を始めます。

これが400年の歴史を今に伝える
‘保津川下り’の始まりとなるのです。