草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

幕末期の会津藩は第三の道を歩もうとした

2025年03月10日 | 歴史
 会津松平家の会津藩は幕末にあっては、水戸学の影響を大きく受けていました。8代容敬(かたたか)公からは水戸の血を引いているからです。
 会津藩は7代容衆(かたひろ)公の嗣子がいなかったので、家老田中玄宰が、水戸の6代藩主で文公と呼ばれた徳川治保(はるもり)の次男で、岐阜高須の藩主になった松平義和(よしなり)の子である容敬公を迎えたのです。その実の兄が父の後を継いだ松平義建でした。
 つまり、8代容敬公と9代容保(かたもり)公とは叔父と甥の関係でした。村上一郎にによれば、水戸学の特徴は「大義名分・尊皇、国体擁護・社会正義・農本思想」(『草莽論』)でした。さらに、水戸は皇室との縁組を繰り返しながら、譜代との結婚はご法度でした。幕府の中枢にある彼らとの関係強化は、いざ朝廷と幕府との戦いになった場合に、朝廷側に味方することができないからです。
 容保公が京都守護職となり、幕府でもなく、薩長でもない、第三の道を歩もうとしたのは、根本に水戸学があったことは確かです。会津藩が封建の世や幕府に殉じたという見方は、あまりに浅はかに思えてなりません。

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