本田勝博さん(左)と門馬史和さん(BumB東京スポーツ文化館)
サラリーマン時代(ショーボンド建設)に宮城県仙台市にある支店に赴任しておりました。宮城県で躰道の修練をしている志摩制基さんはじめ多くの躰道の仲間たちと知り合いとなって現在に至っています。長い間交流が続いており有難いことと喜んでおります。
全日本躰道選手権大会の会場で、本田勝博さん(宮城県理事長)と門馬史和さん(女川町出身)と久しぶりに会いました。
◆本田勝博さんは、現在宮城県躰道協会の理事長として県内の団体と会員をまとめている代表者であります。仙台に赴任した時には、毎週土曜日は石巻まで出かけて躰道の指導を担当していました。その時に本田勝博さんとは知り合いそれ以来親しく交流をしています。その後も大会や演武会等で石巻を訪問すると本田勝博さんは笑顔で迎えてくれます。当時の躰道の稽古の思い出話やその後の宮城県のことの情報を交換しました。現在の宮城県の躰道の基礎を築いたメンバーの一人が本田勝博さんであります。祝嶺正献最高師範から直接指導を受けたことにより、本田勝博さんは会社でも躰道の理念を生かして仕事で貢献をしていました。今は勇退して社会の地域の発展の為に尽力をしています。
◆門馬史和さんは、8歳から躰道を学んでいました。父親の門馬玉昇さんが熱心で練習日には女川町から石巻の道場まで車で送迎してくれました。少年部のときから稽古熱心であり、頭角を現して常に大会では優勝および入賞経験多数の実績があります。東北福祉大学躰道部時代には率先して部活動をリードしておりました。特に法形の演武では観客を魅了するほど素晴らしい実技を披露しておりました。志摩制基八段範士の尊父様の葬儀に参列をしたとき、帰りは石巻から仙台駅まで快く車で送っていただいたことがよみがえります。門馬史和さんは現在会社の札幌支店長として赴任しております。結婚して男の子にも恵まれました。そのお子さんが生まれること待ち望んでいたのが父親の門馬玉昇さんでありました。2011年3月11日のお昼前に女川町から札幌の家に電話があり「孫が生まれたら4月になったら札幌に会いに行くから」と元気な声でした。それから数時間後の2時46分に東日本大震災は発生して、門馬玉昇さん(74歳)は津波に呑み込まれて帰らぬ人となってしまいました。
門馬玉昇さんは、女川町で行政の仕事をしていて、定年で勇退した後も地域の区長として老人の介護等の世話役として尽力していました。躰道でも女川町躰道協会を設立して組織拡大を図っておりました。宮城県躰道協会の三代目の理事長として尽力をした方です。震災の時には老人たちを避難させることに奔走しておりましたが、そこに津波が押し寄せて瓦礫の下敷きとなり、2週間後に発見をされました。それはお孫さんが生まれた二日後でありました。そのお孫さんは門馬玉昇さんの生まれ変わりであると家族たちは話しています。
この事は、門馬史和さんと同じ会社の部下であり、そして今では漫才で活躍している人気のサンドイッチマン・伊達みきおさんのブログでも掲載されていました。(2011年11月)