つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

孫がくれた柿の種

2008年09月30日 | 日記
                  孫の凌也くんがくれた「柿の種」

9月が終わるときに思い出した。
9月15日の敬老の日、板橋に住んでいる孫の凌也くん(小2年・7歳)が一人で池袋の家に遊びに来た。
家に来る途中にコンビニによって、あれこれ物色していたようだ。

家に来て「ハイ!おじいちゃんへ持ってきたよ」とビニール袋を渡された。
中には、袋入りの柿の種が入っていた。
「なぜ、柿の種を選んだのか?」と聞いてみたら、
「お父さんがビールを飲む時によく柿の種を食べているから」と話す。

初めて一人で下赤塚から池袋まで来て、途中でコンビニによって土産を買ってくる孫をみて、ずいぶん成長したものであると喜んでいた。

「柿の種」を孫から貰ったが、なんだか食べるのがもったいなくいまだに食していなく、飾ってある。

その後、孫が水泳に取り組んでいる最中なので、豊島スポーツプラザのプールへ行って二人で楽しんだ。
プールで泳ぐ孫の動きにも成長が見られた。
とても楽しいひとときであった。

(9月30日記)
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劇団若獅子公演

2008年09月28日 | 芸能
                       劇団若獅子公演

劇団若獅子の秋の公演案内がありましたので、ご案内いたします。

藤沢周平作品 「山桜」、「時雨みち」の二本立て。
(あの時 あの人と あの道を 歩いて行けば よかった)

会場 三越劇場(日本橋三越本店 本館6階)
入場料  6,000円(全席指定)
日程 11月2日(日) 11時30分  4時
      3日(月) 11時30分  4時
      4日(火) 1時
      5日(水) 1時
      6日(木) 1時
      7日(金) 11時30分  4時
   11月10日(月) 鶴岡市文化会館 6時30分

出演  笠原 章  南條瑞江 御影伸介 桂 広行 水野善之 森田優一
    根本亜季絵 中條響子 舞戸礼子  他  
    (ゲスト出演) 仁科亜希子  光本幸子

観劇希望者は、池内和彦宛に連絡して下さい。
◆ケータイメール   k.5931.ikeuchi@docomo.ne.jp
◆ケータイTEL     090-1541-1573

(9月28日記)
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江戸売り声の宮田章司師匠

2008年09月26日 | 芸能
                  宮田章司「江戸の夢」の案内

江戸の物売り声で活躍している宮田章司師匠から案内が届いた。

「江戸の夢」公演について
平成20年度文化庁芸術祭参加公演
江戸売り声で、江戸の風情を届けます!

日時 11月7日(金) 午後6時30分開場
開演 午後7時開演
会場 深川江戸資料館 小劇場(江東区白河1-3-28)
出演 宮田章司 玉川スミ 宮田陽・昇 小娘
チケット 2,000円(全席自由)

チケット希望の方は、池内和彦宛に連絡して下さい。
携帯TEL 090-1541-1573
メール k.5931.ikeuchi@docomo.ne.jp

(9月26日記)
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王貞治監督が勇退

2008年09月25日 | スポーツ
                  世界ホームラン記録した王貞治選手

日本のプロ野球界で大きな功績を残した王貞治監督が勇退した。

(サンケイスポーツより)
いい野球人生だった-。
ソフトバンクの王貞治監督(68)が23日、日本ハム24回戦(ヤフードーム)後に、今季限りでの退任を発表した。
2006年に胃の全摘出手術を受けており、健康面の不安が理由で「プロ野球で50年、本当にいい人生を歩ませてもらった」。
現役時代はプロ野球記録の通算868本塁打。
指揮官として2度の日本一を含む4度のリーグ優勝(巨人で1度、ホークスで3度)を果たし、06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)も制した「世界の王」がついにユニホームを脱ぐ。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

地元の福岡ソフトバンク球場では、最後の試合でファンに対して挨拶をしていた。
その時の選手たちは、涙を流して聞いていた。
選手たちからも慕われていた人格者である王貞治監督であった。

王選手のホームラン世界記録(756号)の時には、実際に球場で見られなかったが、800号の記念のホームランは、後楽園球場で生で観覧した。
今でも鮮明に覚えている。

(9月25日記)

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呉越華さんのリサイタル

2008年09月24日 | 芸能
                  メゾソプラノ歌手の呉越華さん

メゾソプラノ歌手の呉越華さんのリサイタルが開催される。
今年は、日中平和友好条約30周年記念として行う。

2008年10月16日(木)
18:30開場 19:00開演
(会場)津田ホール(渋谷区千駄ヶ谷1-18-24)
    TEL 03-3402-1851
(入場料)4,000円(全自由席)
(プログラム)
夜来香、愛する中国よ、星(天人合一)
荒城の月、サッちゃんの家、千の風になって、見上げてごらん夜の星を
アヴェ・マリア、アメージング・グレース、タイム・トゥ・セイ・グッバイ
歌劇「カルメン」より ハバネラ、闘牛士の歌、ジプシーの唄
ワルツ、他

◆チケットの予約、問い合わせは、下記(池内和彦)へ
 k.5931.ikeuchi@docomo.ne.jp
 携帯TEL 090-1541-1573
     
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映画「グーグーだって猫である」

2008年09月22日 | 芸能
                 映画「グーグーだって猫である」

映画「グーグーだって猫である」を観た。
少女マンガの巨匠・大島弓子の同名マンガの映画化

吉祥寺で暮らす天才漫画家の麻子さん(小泉今日子)と愛猫との日々を描いた『グーグーだって猫である』。

自分が少年期を過ごした吉祥寺が舞台である。
お馴染みの場所がロケーションで次から次へと描き出されていた。
吉祥寺駅、井の頭公園、井の頭自然文化園、焼き鳥やいせや、メンチカツの肉屋佐藤、ハーモニカ横丁、武蔵野八幡宮等々・・・・

最近奇抜な設計で家を吉祥寺に新築した漫画家の楳図かずおも出演していた。
お笑いの森三中の3名もコミカルな演技で楽しませていた。
加瀬亮(それでも僕はやってない)、上野樹里(出口のない海)なども好演。
小泉今日子も最近映画出演が多く好調なようだ。

吉祥寺を舞台にしたドラマ「Cafe 吉祥寺で」は、テレビ東京で9月29日から始まる。
吉祥寺育ちの者としては映画やTVドラマで話題となることは嬉しいことである。

(9月22日記)



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石森木の実選手

2008年09月21日 | 躰道
                    石森木の実選手の法形演武

全国社会人躰道優勝大会に、宮城県石巻市の石森木の実選手が出場した。
石森木の実選手は、志摩制基8段範士に師事して精進してきて、現在は2段位。
宮城県大会、東北地区大会では、毎回優勝している優秀な選手である。

石森木の実さんは、老人介護施設の恵仁ホームで職員として活動している。
体の不自由な人で、車椅子を利用している老人たちに躰道を指導している。
それは体の不自由な人たちでも出来る呼吸法を取り入れた命の法形である。

この車椅子利用の方のための法形鍛錬は、高橋忠美先生が考案したもの。
躰道の創始者である祝嶺正献最高師範が創作した命の法形を多くの人に体験してもらいたいとの願望があった。
そして、宮城県の要望もあり、高橋忠美先生が雄勝町海洋センターで会員に指導をした。
その時、石森木の実さんも研修会に参加して習得して、この訓練法を仕事に取り入れたいと考えて、今の仕事に役立つこととなった。

石森木の実さんは、とても純真な心の持ち主であり、明朗快活なところが好評であり、施設の老人たちからは孫のように可愛がられている。
躰道は、万人のために社会で貢献している。

(9月21日記)
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エンディ・ファセット選手

2008年09月19日 | 躰道
                  エンディ・ファセット選手(東京武道館)

スポーツの秋。
東京武道館において、「全国社会人躰道優勝大会」が開催された。
今年の出場選手は161名。
葛西隆実行委員長をリーダーに準備は進められてきた。

命の法形競技にエンディ・ファセット選手が出場していた。
12年前に米国のアトランタへ躰道を指導に行った時に、アトランタ道場生で内田光信先生の指導を受けていた青年がエンディ・ファセット選手である。
私が米国会員の指導へために道場に行く時には、車の運転をしてくれたのが、そのエンディ・ファセット君であった。

今では、日本に来て大阪の吹田中学校で英語の授業を担当している教員となっていた。
躰道は、近くの東淀川区や豊中市へ行って練習をしている。

全国社会人大会に出場するために上京していた。
エンディとは、12年ぶりの再会となった。
競技では、基本に忠実な法形を行っていた。
命の法形では、見事に3位入賞を果たした。
これからも日本での精進を重ねてもらいたい。

(9月19日記)
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現代舞踊公演

2008年09月18日 | 友人
                         現代舞踊

秋は、芸術、スポーツ、そして食欲の秋として認識されている。
芸術の秋を満喫してきた。

友人の宮本舞さん の案内で、東京芸術劇場で開催された「2008 時代を創る 現代舞踊公演」を観覧してきた。
観客は、8割以上が女性である。
その様相から、現在稽古に励んでいる練習生や指導者らしき人たちも見受けられた。

2階席の最前列からは、ステージ全体がよく見渡せる。
午後7時開演の2時間公演。前半の1時間で5作品。1作品が約10分の披露。
音楽に合わせて、照明が演出を盛り上げている。

宮本舞さんは、後半の2番目に出場した。
作品名は「Dispersion」。
「Dispersion」
― 光の分散 ・・・・・
    そこここにある光を
        吸収し、蓄え・・・
      やがて、自ら放つ光へと進化する。。。
          光は、闇の中にこそ、強くしなやかに在る・・・―

振付は宮本舞さんよる作品。
共演は、赤石賀奈子、柿下さやか、藤本光恵の3名。
一人づつ出場して踊り始めると上部からの照明がステージに四角いスポットライトを映し出していく。
音楽が舞踊を引き出していく。

柔軟な身体が、伸縮自在に躍動する。強弱の動きがコントラストを表現している。
ステージ上に置かれた長方形の仕切りボードが一枚ずつ立てかけられて、4名の出演者がその後方に隠れるようになると、光が映し出されてシルエット映像となって踊る状態が描き出されていた。

宮本舞さんは、ステージで伸び伸びと踊っていました。
なぜかとても大きく見えたのは、熟達した演技の現れでしょうか。
素晴らしい作品を創作して披露してくれました。

正田千鶴先生に師事して活躍中。
コレオグラファー、ダンサーとして活動する傍ら、後進の育成にも力を入れ始める。
正田千鶴モダンダンススタジオ講師(1996~)、横浜国立大学モダンダンス部コーチ(1996~2004)、
Dance Studio MIYA FRIENDSを宮本奈緒美と共に主宰(2000~)。
2000年、文化庁芸術インターンシップ研修員に選ばれ1年間研修。
2002年、明日の新人賞。
2003年、東京新聞舞踊コンクール第3位。
2004年、文化庁新進芸術家海外研修員に選ばれ渡米、NYにて2年間研修。
2006年、ZERO to INFINITY( ZERO→∞ )を立ち上げ、NYのDNA Theater Presentsとして、初の自主公演。
現在、多数の研修生を指導している。

宮本舞さんのホームページ
http://maimai-zti.com

(9月18日記)


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映画「おくりびと」

2008年09月17日 | 芸能
                     映画「おくりびと」

人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと―――

映画「おくりびと」を観ました。
一見近寄りがたい職業、納棺師に焦点を当て、重くなりがちなテーマを軽快なタッチでつづる。
監督には『壬生義士伝』の滝田洋二郎があたり、人気放送作家の小山薫堂が初の映画脚本に挑戦。

遺体と接する職に戸惑う新人納棺師と、葬儀に集まる多彩な人々の姿を通して、愛する・愛されることの大切さに気づかせてくれるユーモアあふれる感動作「おくりびと」。

リストラされたチェロ奏者・大悟(本木雅弘)はひょんなことから<遺体>と接する職につくことになり、戸惑うばかり! 
しかしベテラン納棺師の佐々木(山崎努)に就くなかで、葬儀に集まる多彩な人々の思いに触れ、いつしか納棺師の仕事に理解を示すようになっていた。
そんな矢先、唯一の家族である妻・美香(広末涼子)は夫の仕事に嫌悪感を抱き実家に帰ってしまう……

全編に流れるチェロの演奏。
主人公である小林大悟が演奏するシーン。
撮影は、残雪が残る山形県酒田市、鶴岡市の庄内地方のロケがまたいいものだ。

「あぁこの広告、誤植だな。“旅のお手伝い”ではなくて、安らかな“旅立ちのお手伝い”。納棺を仕事とする佐々木社長の演技は素晴らしい。
また、同じ事務所社員の余貴美子やお風呂屋の女主人の吉行和子、そして大悟とは橋の上で出会い、風呂屋で交流を重ね、最後は火葬所職員と分かる笹野高史など脇役人がしっかりした演技をしているので、内容の濃さと深さを感じる。

大悟役の本木雅弘は、「しこふんじゃった」で演技開眼した。
この映画でも納棺師の仕事ぶりを格調高い演技で表現している。
今年後半の秀逸の映画であった。

(9月17日記)

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あゝ上野駅の歌碑

2008年09月16日 | 名所
                     あゝ上野駅の歌碑

上野駅を出たところに「あゝ上野駅」の碑が建立されている。
井沢八郎が唄って大ヒットした曲である。

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。
戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのが、この集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。
彼らを支えた心の応援歌「あゝ上野駅」は、昭和39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。

「あゝ上野駅」
どこかに故郷の 香りをのせて 入る列車の なつかしさ 上野は俺らの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった

『父ちゃん 僕がいなくなったんで 母ちゃんの畑仕事も大変だろうなあ、今度の休みには必ずかえるから、そのときは父ちゃんの肩も母ちゃんの肩も、もういやだって いうまでたたいてやるぞ、それまで元気で待っていてくれよな』

就職列車に ゆられて着いた 遠いあの夜を 思い出す 上野は俺らの 心の駅だ 配達帰りの 自転車を とめて聞いてる 国なまり

ホームの時計を 見つめていたら 母の笑顔に なってきた 上野は俺らの 心の駅だ お店の仕事は 辛いけど 胸にゃでっかい 夢がある

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浅草の天ぷら三定

2008年09月14日 | 友人
        三定の七代目真田会長(左)と記念写真(浅草・天ぷらの三定)

大学の同窓生たちと江戸情緒の残る浅草を散策した。
雷門からスタートして、仲見世を通り浅草寺へ参る。
外国人観光客もかなりいた。さすがに浅草は東京を代表する観光地である。
三社祭の浅草神社では、結婚式が行われていた。
奥山まちから木馬亭を通って、浅草六区へ出る。
昭和の最大の歓楽街も今は人通りが少ない。
浅草公会堂前は、「スターの広場」で、芸能人の手形がいっぱい並んでいる。
美空ひばりの手がとても小さい。

雷門に戻りに「天ぷらの三定」にあがる。
「一に浅草、二に観音様、三に三定」のキャッチフレーズがビルに書いてある。
ここの七代目会長の真田優さんは、東京国際大学の同窓生。
海老の天ぷらとかき揚げがとても旨い。
真田会長より、浅草の話と三定の歴史を聞くことが出来た。
それから、天ぷらの美味しい揚げ方も披露してくれた。
三定は表口と新館口があるが、土曜日の午後はどちらの場所もいっぱいの客で埋まっていた。
われわれは個室の部屋が用意されていた。
参加者の近況や情報を交換しながら、美味しい天ぷら料理も食べ終わった。

その後は、隅田川の吾妻橋を渡って、アサヒビール本社の22階スカイ展望ルームへ行って、美味しい生ビールを食した。
ここからの展望は素晴らしい。
業平橋のそばでは、第二東京タワーの建設が始まっっていた。

(9月14日記)
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スター広場

2008年09月13日 | 芸能
               吉永小百合の手形顕彰(スター広場)

浅草公会堂前には浅草にゆかりのあった芸能人の手形が残されています。
昭和54年に始まって年々追加されていますが、平成19年2月、新しく中村玉(俳優)、藤間蘭景(舞踊家)、藤村志保(俳優)、二葉百合子(歌手)、渡哲也(俳優)の5人が加えられて合計268人になっています。
松本幸四郎(俳優)、マギー司郎(マジシャン)
柳家金語楼(平成15年)、残念ながら金語楼は手形が取れませんのでサインと似顔絵が彫られています。
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浅草六区

2008年09月12日 | 歴史
                     浅草六区の賑わい

歴史
1873年(明治6年)の太政官布告により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)一区から七区までに区画された。
この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。
これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、歓楽街を形成した。

その後、1887年(明治20年)の根岸興行部の常盤座に始まり演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。
突き当たりに位置した凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、関東大震災で崩壊した。

昭和期に入っても「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博し、戦後も軽演劇、女剣劇、ストリップおよびその幕間に演じられたコントが注目を浴び、芸能の殿堂・一大拠点として、ここからスターとなった芸能人も数多かった。

1959年浅草寺五重塔再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」が埋め立てられ、跡地に楽天地の遊園地と東急グループの複合娯楽施設「新世界」が立つ。
また、奥山から新世界までの間が西参道商店街として整備される。

しかし1960年代に入り、テレビ時代を迎え東京オリンピック以降、新宿、渋谷、六本木など城南方面に若者の文化が芽生え、浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎える。
映画館・劇場は悉く閉鎖され、新世界の跡には場外馬券売場 (WINS) が移転して、以降平日は通行人がまばらで週末は競馬目当ての労務者が集中する光景が多くなった。
夜間は7時になると人通りも疎らになり、不夜城と詠われた嘗ての殷賑振りとは隔世の感がある。

こうした六区地区の斜陽に歯止めを掛けるべく、地元の「おかみさん会」等の下支え等により次第に復調の兆しを見せ、今日に至っている。

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浅草雷門

2008年09月09日 | 名所
                      浅草の雷門

浅草の象徴である雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。
正式の名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。

門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、
朱塗りの山門である。
門の中央には、重さ600Kgを超える提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっている。
日本を象徴する風景として、外国人向けに日本を紹介するパンフレット、お土産のレリーフなどに採用されることが多い。

歴史
941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。
翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。
初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。

雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。
知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。

山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。
最後の火災は1865年であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。

明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。
いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、時それぞれのイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。

1960年、松下電器の創設者、松下幸之助が門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立した。
風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っている。

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