睡蓮の咲く池と、風そよぐシダレヤナギ、そして華やかなバラのアーチを配した太鼓橋。
今から1,100余年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、不動堂を建立し不動明王を安置したことから始まる。
せんべいは、一番人気のあまから味をはじめ、バター味、マヨネーズ味、ゴマ入りなど20数種もの種類が並んでおります。
地下鉄副都心線「雑司が谷」、都電荒川線「鬼子母神」より徒歩5分。
天守台は江戸城天守閣のあったところで三度建てられましたが、明暦(1657年)の大火で焼失した後は、再建されていません。天守台から見える大芝生は大奥のあった場所です。本丸御殿のあった場所は、令和元年11月大嘗祭が執り行われました。
その一角には忠臣蔵でお馴染みの松の大廊下跡の石碑と案内板が設置されています。本丸御殿が豪華で凄かったであろうと想像できます。再建されたら良いと願っております。
中雀門跡から下っていくと大きな長い建物の百人番所があり、つつじの花がきれいに咲いております。大手門から出るとタイムスリップした世界から現実の社会に戻された感じがしました。
護身術の指導
志木市スポーツフェスティバルの躰道セミナーは、谷鐡太郎先生によるストレッチ講習でした。
セミナーの最後に女性のための護身術を実施しました。男性から両手を掴まれた女性は指の付け根に力を入れて手を返すと相手は力を入れてくるので反対の手を上方へ返すといとも簡単に男性をひっくり返すことが出来ます。
はじめは半信半疑であった女性達は、指導されるとおりに所作を行なうと力の強い男性をたたみの上に転がして護身術を体感していました。何回か試みるとすぐに慣れていました。
今回のセミナーに参加した人達は、体の柔軟性の大切さと護身術の醍醐味を味わって、とても参考になったと感想を述べていました。
勝木弘幸社長
友人の勝木弘幸さんを両国にある会社に訪れました。
勝木弘幸さんとは東京国際大学第一期同期生であり、躰道部の創設メンバーの仲間であります。
会社はコスタトレーディング株式会社の代表取締役社長として経営に尽力しております。
ポリウレタンを基軸にした競争力ある製品開発をしています。アンチグレアフイルム、傷自己修復フイルム、飛散防止フイルム、工程保護フイルム、インデックスマッチングフイルム、飛散防止フイルム(裏貼り用)、アンチニュートンリングフイルム、3D対応保護フイルム3Dなどを製造販売しています。携帯やスマートフォンの中の機器を保護するフイルムとのこと。特殊な製品でもあるため業績も急速に伸展していて好調なようです。
また、東京国際大学躰道部の後輩であるアメリカのアトランタで躰道を指導している内田光信さん(アメリカ躰道協会会長)が来日する度に多大な支援をしております。アメリカ躰道会員は現在500名以上の人が内田光信さんのもとで稽古をしております。
勝木弘幸さんの社会貢献は大きなものがあります。
徳川幕府の討幕活動をしていた西郷南洲は江戸城を襲撃する行動を起こすところでした。
勝海舟は芝の薩摩藩邸に赴き、西郷と話し合いをして、江戸城の襲撃を思い留めさせた。また、愛宕山に西郷を案内して江戸城を見させてここが火の海となったら後々後悔をすると説得しました。
現在、皇居があるのは、この二人の会見のお陰であります。
この碑のところには、当時の絵地図と説明文が付設されています。
当時は、薩摩藩邸のそばは海であり、落語の人情噺で有名な「芝浜」の場所でもあります。
勝海舟と西郷南洲の真剣な話し合いで、江戸城は開城して明治天皇が住む皇居となりました。
赤信号の交差点を暴走した乗用車が、母子2人を死亡させ、10人の重軽傷者を出した悲惨な事故です。
事故現場のすぐそばに慰霊碑が建っております。亡くなった母子のご冥福を祈ることと交通事故撲滅の願いが込められたのです。
自宅のすぐ近くなので、この場所を通る時には慰霊碑に向かい手を合わせてきます。 慰霊碑の除幕式には、ご遺族の松永さんと親族及び高野之夫豊島区長はじめ多くの人たちが参列しておりました。
この交通事故の裁判所の判決のあった日に、私は慰霊碑に行きました。
そこには報道関係者が多く待機しております。
いつものように手を合わせて亡くなられた母子のご冥福を祈りました。
慰霊碑を離れようとしたときに、待機していた報道関係者に囲まれました。
テレビ局のカメラが4台、マイクが8本ありました。
「本日の判決をどのように思うか?」と質問がありました。
「このような悲惨な交通事故が再び起こらないことを願っております。と亡くなった人へ報告をしました。そしてこの交通事故を風化されないようにいつまでも見守っていきます」と話しました。
その日の夕方のテレビニュースで、その時の模様が報道されました。
友人から「テレビニュースを観たよ」と電話がありました。
亡くなった母子の命日には、多くの方がこの慰霊碑に来られることでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。
下北沢から三軒茶屋へは茶沢通りがあり散策をしました。その通りから少し入ったところに円泉寺があり、その境内の一角に太子堂はあります。
石の階段を昇って行くと太子堂の建物があります。そばには聖徳太子の銅像が設置されており、台座には「和以貴」と明示されています。
世田谷区の住宅街の中にあり、とても静かな環境の場所です。
太子堂の隣には、林芙美子旧居の案内板が掲示されておりました。隣には壷井繁治、栄夫妻も住んでいました。芙美子の「放浪記」には太子堂での生活の一こまが描かれております。
太子堂近辺の地名も太子堂と付けられており、三軒茶屋の南北に1丁目から5丁目まであります。以前からこの地名に興味があり、ぜひ太子堂へ行ってみたいと希望しておりました。
町内には、烏山川緑道も通っていて樹木は花を咲かせており散歩道としてはとても相応しいところです。
尾久の原公園のしだれ桜
都立尾久の原公園のしだれ桜を観に行きました。
荒川区東尾久と町屋にまたがる公園です。
尾久の原公園は、旧旭電化工業(現:ADEKA)尾久工場跡地に整備された自然を活かした公園です。園内には、区民の憩いの場として芝生広場、原っぱ、トンボ池や、荒川区の木である桜(枝垂れ桜)が約200本植栽されて、近頃話題の春の花見スポットとなっています。
この公園の桜はほとんどがしだれ桜で道沿いに並木として植えられております。子供連れの家族や、グループでの花見や、公園内でトレーニングをしている外国人女性たちもおります。
遠くには日暮里・舎人ライナーの電車や東京スカイツリーなども眺められる憩いの公園です。
懇親会で司会を担当する膳場昭さん
TAMC(東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ)のメンバーで親しくしていた膳場(ぜんば)昭さんがおりました。クラブでは、懇親会や家族会、合宿研修会、新年会等のイベント委員長として企画運営を担当していました。
朝日新聞の「おやじのせなか」に膳場昭さんのことが掲載された。娘さんはフリーアナウンサーの膳場貴子さんであります。その貴子さんが語る父親・膳場昭さんは、三井物産勤務時代は海外生活が多かった。
平日はもちろん、土日も出張や接待でほとんど家にいなかった。子供の頃のイメージは、トレンチコートにパイプ。少しキザなところがあった。たまに早く帰って来ると嬉しくて、「おかえり!」といって抱きつくとコートに染み付いたタバコのにおいが、父の最初の記憶でした。
貴子さんが社会人となって、父の仕事ぶりを知る機会が増えた。財界の大物に取材に行くと「昔、お父さんにお世話になって」と笑顔で迎えられると気持ちが楽になった。
酒の弱い父が、顔を真っ赤にして宴会を盛り上げていたことを取材で知った。仕事中心であった父ですが、いつも家族のことを気にかけてくれました。ニュースキャスターという仕事柄、プライベートなことで騒がれることもありますが、父は「仕事のマイナスも含めて引き受けるなら、自分の思うようにすればいい」と冷静に声を掛けてくれた。人付き合いを大切にする姿勢は見習いたいと思います。と尊敬の念で父親・膳場昭さんのことを語っています。
TAMCの「トランプカード物語」のナレーター担当も膳場昭さんからの要請により貴子さんは快く引き受けてくれました。TAMCでも嫌な顔ひとつしないで任務をこなしている膳場昭さんの姿は人格者として慕われていました。何しろ真面目な人でマジック技術もコツコツとこなしており、どんどん高まっている人、それが膳場 昭さんの姿でした。