通りに面したところに「日高郵便局」があったとのこと。
今は営業をしていませんが、明治8年建設されたものであるという。郵便制度がスタートしたのが明治5年であるので、かなり早い時期に開局した郵便局であります。当時は高萩村であったため、「高萩郵便局」として営業しており、昭和30年代まで開局していたという。
高萩村が日高市と合併してからは、名称を「日高郵便局」として現在まで残してあります。このことは最近埼玉新聞でも紹介されていました。
犬竹一浩さんのお陰で、新たな土地と歴史を垣間見ることが出来ました。
日蓮聖人像
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百三十数年前の弘安5年(1282)10月13日、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
原敬首相の襲撃現場
東京駅の丸の内南改札ホールに原敬首相の襲撃現場が記録されています。 床にポイントで示されており、すぐそばの壁には襲撃の模様が掲示されています。
1921年11月4日。原敬首相は、立憲政友会の大会に向かうため、東京駅の改札口へと向かう途中、右翼の青年に暗殺される。
原敬が首相になってから行った財閥などに利益を誘導するような政策、普通選挙法への反対、ロシアによる日本人約700人を含む住民虐殺事件「尼港(にこう)事件」への対応などに不満があったと伝えられる。
原敬は1856年盛岡藩で生まれた。首相になった際には「平民宰相」と呼ばれるが両親は武士の家柄。成人後に分家して平民籍になっている。
新聞社や外務省への勤務を経て、1900年に立憲政友会に入党。1918年には、米騒動で辞任に追い込まれた寺内内閣が総辞職。
立憲政友会の党首として首相に任命されるという、日本で初の本格的な政党内閣を組閣する。
西郷・勝会見の碑(池上本門寺松濤園)
池上本門寺には新政府軍(西郷隆盛)の本陣が置かれていたところです。
西郷隆盛と山岡鉄舟が駿府での交渉がまとまらなかった後、慶応4年(1868年)3月12日、勝海舟が西郷隆盛を訪れ直接交渉へやってきて、本門寺の奥庭の「松濤園」の四阿(あずまや)で会見をしました。その記録を残す会見碑があります。
その翌日の3月13日には薩摩藩下屋敷、14日には薩摩藩蔵屋敷(田町駅前)で二人は会見をして、最終的に江戸城無血開城となった経緯があります。
歴史的に貴重な場所を拝見することが出来ました。