演武する法形は華麗にして重厚さがあり、後宙返りなどの高度な技も表現するテクニックを持っている。躰道の会員から憧れの選手として目標にされていました。
人の話を真剣に聞くことにとても長けた人です。
第1回全日本躰道選手権大会のプログラム
この写真は、第1回全日本躰道選手権大会のプログラムの表紙を飾ったものです。
東京国際大学躰道部の創設者である第一期生同期の原透氏と演武をした時のものです。大学3年の時、祝嶺正献最高師範が大学に直接指導に来られた時に、最高師範自らカメラを取り出して写真を撮影したものです。
上空に飛び上がり運体飛燕蹴り突きの技を演じているところの写真であります。シャッターチャンスもよく、この写真は祝嶺正献最高師範も大変気に入って、第1回全日本躰道選手権大会のプログラムの表紙と大会ポスターに掲載されたものです。
昭和42年(1967年)11月19日(日)は、町田市民体育会館で第1回全日本躰道選手権大会が開催されました。当日は冷たい雨が降っていました。
プログラムの中の特別演武では、作家の川内康範氏が躰道の攻防演武を披露していました。
谷口興一先生は東京医科歯科大学医学部の卒業生です。
大学在学中に玄制流空手道の祝嶺正献最高師範と出会う機会に恵まれました。祝嶺正献最高師範からは、空手の指導と人生論を学んでいました。また医学的な面からは谷口先生が知識をサポートしていました。
その後空手を進化させた新武道の理論と実技を祝嶺正献最高師範とともに考案していき、“21世紀への武道・躰道”として昭和40年に創始して日本躰道協会を設立しました。現在ある「躰道」の基礎を祝嶺正献最高師範と形成したのが谷口興一先生であります。
谷口興一先生は、競技大会における審判講習に力を入れて審判員の育成に力を注いでいきました。その研修には、映像をふんだんに用いるなど科学的方法を使用して画期的な指導をとってきました。
躰道の全日本選手権大会の実戦競技の決勝戦での主審審判員を担当した時の谷口先生の所作が鮮明に脳裏に浮かんできます。相対して隙あれば攻撃に出ようとする両選手が運足で移動する。選手が互いに動き始めて接近した瞬間に主審である谷口先生の右手が挙がったが、それは正に旋状蹴りの技が決まった瞬間でありました。
観覧席の観客は一瞬谷口先生の右手に注目が集まり、判定結果に納得しての万雷の拍手が次に沸き起こったのであります。審判は競技の演出者であることを実証した名審判のメモリアルシーンでありました。
谷口先生は、祝嶺正献最高師範が逝去された後は、躰道本院最高会議議長として正統なる躰道理念を伝承していこうと尽力されております。その指導力は卓越したものがあります。人の意見はよく聞いてバランス感覚よく的確にまとめていきます。
その根本的な思想のなかに祝嶺正献最高師範の唱えていた躰道の理念が活かされております。一回りも二回りもスケールの大きな人で、私が最も尊敬する人物の一人であります。いつも哲学を含んだ人生論なども話してくれる素晴らしい人です。それが谷口興一先生であります。
全日本躰道選手権大会(東京体育館)
全日本躰道選手権大会の観客7400名。東京武道館が建設される前は、全日本躰道選手権大会は千駄ヶ谷駅前にある東京体育館で開催されていました。
躰道創始者・祝嶺正献最高師範は「大会を開催する時には友人や知人たちを会場に来てもらうように呼びかけなさい。それが躰道の広報になり組織を拡大する大きな要素です」といつも話しておりました。
大会運営は大会会長である祝嶺正献最高師範も自ら多くの知り合いに呼びかけておりました。役員席の後ろ側に設置されたひな壇の来賓席には150名の各躰道協会の会長や躰道師範たちで埋め尽くされていました。
開会式の選手入場の時には、音楽家の山田竜也先生の作曲された「躰道行進曲」が生のオーケストラの演奏で威風堂々行われました。
当時の東京体育館は3階席まであり観客席は8千名入る施設でした。その大会を観ていた体育館職員は「躰道さん、よく観客を集めましたね。3階の一部に空席がありますが、本日の観客は7千人を超えていますよ」と話していたことを鮮明に記憶しております。
祝嶺正献最高師範は「大会は人が集まりやすい広い会場で開催すること」を常に話しており、大会開催についてはメディア関係にも訪問したり、案内をしておりました。
「躰道行進曲」の作曲者・山田竜也先生 祝嶺正献最高師範と躰道紋章