第1回全日本躰道選手権大会のプログラム
この写真は、第1回全日本躰道選手権大会のプログラムの表紙を飾ったものです。
東京国際大学躰道部の創設者である第一期生同期の原透氏と演武をした時のものです。大学3年の時、祝嶺正献最高師範が大学に直接指導に来られた時に、最高師範自らカメラを取り出して写真を撮影したものです。
上空に飛び上がり運体飛燕蹴り突きの技を演じているところの写真であります。シャッターチャンスもよく、この写真は祝嶺正献最高師範も大変気に入って、第1回全日本躰道選手権大会のプログラムの表紙と大会ポスターに掲載されたものです。
昭和42年(1967年)11月19日(日)は、町田市民体育会館で第1回全日本躰道選手権大会が開催されました。当日は冷たい雨が降っていました。
プログラムの中の特別演武では、作家の川内康範氏が躰道の攻防演武を披露していました。
祝嶺正献最高師範は、玄制流空手道を発展させて21世紀への武道「躰道」を社会に発表したのが、1965年(昭和40年)1月23日です。40歳の時でした。躰道の指導と組織発展の為に日夜尽力されていました。
第1回全日本躰道選手権大会は1967年(昭和42年)11月19日に町田市立体育会館で開催されました。
祝嶺正献最高師範は、1925年12月9日に誕生しましたので、今年は生誕100年の記念年となります。 日本躰道協会ではいろいろと企画しているようです。今年の活動が楽しみなところです。
毎年齋藤育代さんとは同行してお墓参りをしております。今回伊東市に在住している木部満さんから命日にはお墓参りの同行を希望されていましたので連絡をして伊東駅で待合わせをしました。
墓前に捧げる仏花を花屋で購入してから、お墓のある高台まで登って行きます。お墓を清掃してから花を手向けて、線香を捧げます。躰道の活動報告をします。特に今年9月に東北地区躰道優勝大会が50回記念大会として宮城県の気仙沼市で開催され成功裏に終了したことを報告しました。
お墓からは伊東市街と相模湾の展望が素晴らしく見えます。
祝嶺正献最高師範は来年(2025年)には生誕100周年の記念年となります。現在躰道を修練している若い人たちは写真でしか祝嶺正献最高師範のことを知らないので、創始者から直接教わったことの様子などを詳しく伝承していくことを墓前に誓いました。
木部満さんは、学生時代躰道部の合宿で祝嶺正献最高師範の指導について思い出を語っておりました。今では躰道を修練していたことがとても役に立っていたと話しておりました。
お墓参りの後には、木部満さんの案内で寿司屋に行き、新鮮で美味しい寿司を食べながら躰道について三人で懇親のひとときを過ごしました。流石に伊東の鮮魚は新鮮で寿司種もしっかりとしています。
食後にマジックを披露したところ二人からとても喜ばれましたのでお土産にトランプマジックをプレゼントしました。
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祝嶺家のお墓 お墓から伊東市街が展望できます
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木部満さん(東京国際大学躰道OB)
一方、躰道の指導者として多くの会員を育成してきました。和歌山県の躰道指導者として活躍していた小西美智子さんも山西義彦さんから指導を受けた一人です。
自分が日本躰道協会関西事務局で組織活動をしていた時には、大阪から和歌山県海南市まで行って山西義彦さんとよく交流を図っていました。
谷口興一先生は東京医科歯科大学医学部の卒業生です。
大学在学中に玄制流空手道の祝嶺正献最高師範と出会う機会に恵まれました。祝嶺正献最高師範からは、空手の指導と人生論を学んでいました。また医学的な面からは谷口先生が知識をサポートしていました。
その後空手を進化させた新武道の理論と実技を祝嶺正献最高師範とともに考案していき、“21世紀への武道・躰道”として昭和40年に創始して日本躰道協会を設立しました。現在ある「躰道」の基礎を祝嶺正献最高師範と形成したのが谷口興一先生であります。
谷口興一先生は、競技大会における審判講習に力を入れて審判員の育成に力を注いでいきました。その研修には、映像をふんだんに用いるなど科学的方法を使用して画期的な指導をとってきました。
躰道の全日本選手権大会の実戦競技の決勝戦での主審審判員を担当した時の谷口先生の所作が鮮明に脳裏に浮かんできます。相対して隙あれば攻撃に出ようとする両選手が運足で移動する。選手が互いに動き始めて接近した瞬間に主審である谷口先生の右手が挙がったが、それは正に旋状蹴りの技が決まった瞬間でありました。
観覧席の観客は一瞬谷口先生の右手に注目が集まり、判定結果に納得しての万雷の拍手が次に沸き起こったのであります。審判は競技の演出者であることを実証した名審判のメモリアルシーンでありました。
谷口先生は、祝嶺正献最高師範が逝去された後は、躰道本院最高会議議長として正統なる躰道理念を伝承していこうと尽力されております。その指導力は卓越したものがあります。人の意見はよく聞いてバランス感覚よく的確にまとめていきます。
その根本的な思想のなかに祝嶺正献最高師範の唱えていた躰道の理念が活かされております。一回りも二回りもスケールの大きな人で、私が最も尊敬する人物の一人であります。いつも哲学を含んだ人生論なども話してくれる素晴らしい人です。それが谷口興一先生であります。
法形競技、実戦競技の個人戦及び団体戦と団体展開競技が行われました。競技進行もプログラム通りに進んでいきます。進行スタッフたちが慣れていて、選手の誘導、タイム表示、審判用用具の準備、競技結果などをスムーズに対応しておりました。
熱戦を繰り広げられた結果、最優秀選手賞には男子の部では佐々木尚希選手(宮城県)、女子の部では小松優選手(宮城県)が受賞しました。
特に小松優選手(高校2年)は実戦競技で優勝、団体実戦競技でも優勝、法形競技では2位と立派な成績を収めていました。父親が小松武師範、母親の小松万里子師範も躰道の指導者であります。小学校へ入学する頃から両親に躰道を学んでおり、その後出場する全国少年少女優勝大会、東北地区優勝大会、宮城県優勝大会など各種大会での優勝実績がありました。高校生になっても躰道の稽古を続けて精進しており、一般の部に出場するようになってもよい成績を残しております。各種大会で優勝するたびに気仙沼新聞、河北新報などに採り上げられて掲載されていました。
NHKテレビの「50のボイス」番組にも出場して、躰道で優勝したことが報じられていました。
今後は全日本躰道選手権大会や世界躰道選手権大会での活躍が期待されている小松優選手です。
閉会式では、志摩制基審判審議長から大会の講評が述べられました。
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小松優選手の法形演武 躰道五条訓を指揮する小松優選手
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小松武審判長(気仙沼総合体育館) 大会講評をする志摩制基審判審議長
開会式の時に祝辞を述べさせてもらいました。
「この東北地区大会が開催された経緯についてお話をします。私が仙台に赴任していた時に東北各県の躰道指導者たちと交流を重ねていました。昭和47年、東京から躰道創始者である祝嶺正献最高師範を仙台にお迎えして、東北の各県指導者たちにも集まってもらい懇談会が開かれ、その中で東北地区大会の開催することが決まりました。
翌年の昭和48年に福島市で第1回東北地区躰道優勝大会が開催されました。第2回は青森県弘前市、第3回は宮城県石巻市で開催されました。その後毎年各県が持ち回りで東北地区大会が開催されてきて今回が第50回記念大会となりました。
その間、東北地区で指導的立場である志摩制基師範や工藤善己師範の指揮により大会開催実績を積み重ねてきました。その大きな要因は、躰道の正統な理念と実技を継続してきた真摯な東北気質の賜物であります。東北人の素晴らしさと逞しさが垣間見えます。益々精進をして躰道の発展を祈念しております」
東北地区大会の初期の頃の模様と50回大会まで継続されてきた努力について祝辞を送りました。
開会式では、勝沼栄明大会会長、日本武藝躰道三代宗家祝嶺正献先生、小野寺五典衆議院議員、菅原茂気仙沼市長たちが来席されてご挨拶がありました。
選手宣誓は木村貴希選手(宮城県)が行い、躰道五条訓は小松優選手の指揮で選手全員が唱和しました。その後、競技は開始していきました。
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第50回東北地区躰道優勝大会横断幕 躰道紋章と創始者祝嶺正献先生
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第50回東北地区記念プログラム表紙 各種目の入賞者のメダル
祝嶺正献最高師範が足柄山で執筆活動をしていた時の記念写真。昭和46年9月のこと。
ショーボンド建設の仙台支店に赴任していた時代。そこで宮城県で躰道を指導している人や会員たちとの交流ができました。仙台では、東北大学と東北学院大学に躰道部を創設して指導を担当していました。週末は、境一成先生の実家である石巻市まで行って日和山道場で指導を担当していました。そこに石巻道場の指導者として三浦照雄さんと和田さんがいました。
全国各地から144名の選手が参加しておりました。
開会式では、山田重幸大会会長、祝嶺正献躰道宗家の挨拶後、前回最高師範杯を受賞した佐々木尚希選手(宮城県)が選手宣誓をして競技は始まりました。
法形競技、実戦競技、展開競技の男女・壮年・個人・団体など13種目の競技に白熱な熱戦が繰り広げられていました。
今大会の最高師範杯は、女子個人実戦競技と女子個人法形競技で優勝をした稲見安希子選手(千葉県)が選ばれて、祝嶺正献躰道宗家から授与されました。
稲見安希子選手は千葉大学に入学して躰道部に入部し、中野哲爾監督から指導を受けてから上達していき、卒業後も仕事をしながらも精進してきました。
その他優秀な選手として、木村雅和選手(愛知県)、佐々木尚希選手(宮城県)、金子智一選手(東京多摩)、土井光司選手(山梨県)、木間一紀選手(新潟)などがおりました。
自分は全国社会人躰道優勝大会には第1回から第6回大会まで個人法形の部で出場をしておりました。
自分の躰道の大会出場の思い出をコメントします。
学生時代には1967年(昭和42年)に開催された第1回全日本躰道選手権大会、第1回全国学生躰道優勝大会から試合には出場をしておりました。
卒業後は指導者となり各種大会では競技運営と審判を担当していました。
壮年期である40歳代から試合に出場をすることを再開して10年ほど、躰道の各種大会に出場してきました。
全日本躰道選手権大会、全国社会人躰道優勝大会、国際躰道優勝大会、日米親善躰道大会などに多く参加しました。大会に出場できる環境にも恵まれて、そこで体験できたことは世界の躰道仲間との交流も広がり多くの財産となって蓄積されていきました。
躰道創始者の祝嶺正献最高師範が考案した呼吸法を取り入れた鍛錬形を主体とした「勢命の法形」「活命の法形」「延命の法形」で競技に臨みました。大会に出場するためには多くの時間を稽古にあて仲間たちと汗を流して精進してきました。その結果、優勝もして金メダルも多く獲得しました。「努力は裏切らない!」を実感した人生の良き時代でした。
学生時代から継続してきた躰道を、壮年期においても各種大会に出場をすることに喜びを感じて楽しんでいた頃でした。全国社会人躰道優勝大会では最優秀選手賞となる「最高師範杯」を4回獲得したことが記録に残っております。
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全日本躰道選手権大会(東京体育館)
全日本躰道選手権大会の観客7400名。東京武道館が建設される前は、全日本躰道選手権大会は千駄ヶ谷駅前にある東京体育館で開催されていました。
躰道創始者・祝嶺正献最高師範は「大会を開催する時には友人や知人たちを会場に来てもらうように呼びかけなさい。それが躰道の広報になり組織を拡大する大きな要素です」といつも話しておりました。
大会運営は大会会長である祝嶺正献最高師範も自ら多くの知り合いに呼びかけておりました。役員席の後ろ側に設置されたひな壇の来賓席には150名の各躰道協会の会長や躰道師範たちで埋め尽くされていました。
開会式の選手入場の時には、音楽家の山田竜也先生の作曲された「躰道行進曲」が生のオーケストラの演奏で威風堂々行われました。
当時の東京体育館は3階席まであり観客席は8千名入る施設でした。その大会を観ていた体育館職員は「躰道さん、よく観客を集めましたね。3階の一部に空席がありますが、本日の観客は7千人を超えていますよ」と話していたことを鮮明に記憶しております。
祝嶺正献最高師範は「大会は人が集まりやすい広い会場で開催すること」を常に話しており、大会開催についてはメディア関係にも訪問したり、案内をしておりました。
「躰道行進曲」の作曲者・山田竜也先生 祝嶺正献最高師範と躰道紋章
勢命の法形の創作の基本には中国拳法の所作を参考にしております。躰道の勢命の法形には、体気九法という九つの呼吸法を採り入れております。体軸に角度を持たせることにより氣が移動していくことを理解させております。その理念の基となったのが、植物の樹木の生態を基準にして形成しております。
昭和49年、祝嶺正献最高師範は、躰道の法形を創作した中で唯一「勢命の法形」を、茨城県の鹿島神宮において奉納演武をしております。躰道を会員に普及していこうとの強い現れがありました。
祝嶺正献最高師範が、躰道の中で最高にして最大の法形となったと言及しているのがこの「勢命の法形」であります。裏の部分である後半は、所作が左右反対で行いますが、これは人間の機能を高めるための鍛錬法が盛り込まれており、躰道の理念を表現しているものです。
特別演武は、壮年会員の風格のある重厚性を表現する「勢命の法形」であった。観客から万雷の拍手で演武を賞賛された出演者たち笑顔を見せて満足な顔であった。
天国の祝嶺正献最高師範も特別演武「勢命の法形」を喜んでいることだろう。
護身術の指導
志木市スポーツフェスティバルの躰道セミナーは、谷鐡太郎先生によるストレッチ講習でした。
セミナーの最後に女性のための護身術を実施しました。男性から両手を掴まれた女性は指の付け根に力を入れて手を返すと相手は力を入れてくるので反対の手を上方へ返すといとも簡単に男性をひっくり返すことが出来ます。
はじめは半信半疑であった女性達は、指導されるとおりに所作を行なうと力の強い男性をたたみの上に転がして護身術を体感していました。何回か試みるとすぐに慣れていました。
今回のセミナーに参加した人達は、体の柔軟性の大切さと護身術の醍醐味を味わって、とても参考になったと感想を述べていました。
音楽家の山田竜也先生と池袋でお会いして懇親のひとときを過ごしました。ランチは中華料理店の天府酒家で、多田廣士さん(躰道指導者)も同席しました。
山田竜也先生は、躰道に関する音楽を沢山作曲してくれた方です。「躰道ひとすじ」、「躰道賛歌」、「躰道行進曲」、「勢命の法形の曲」など素晴らしい音楽を提供してくれました。
躰道創始者・祝嶺正献最高師範との親しい交流のなか音楽が作曲されました。第10回全日本躰道選手権大会(昭和51年)でのエピソード。
東京体育館で実施され観客は3階席まで満席となり、7400名の人が試合を見守っておりました。
開会式の入場行進は、山田竜也先生の指揮するオーケストラによる「躰道行進曲」です。全国から選出された選手たちは威風堂々入場してきて、開会式に臨みました。
来賓席には全国から集まった各躰道協会会長や躰道師範ら150名が臨席しておりました。躰道創始者・祝嶺正献最高師範の力強いスピーチが今でも甦ります。
躰道の良き時代を山田竜也先生と一緒に懐古した一日でありました。
(2015年3月15日)