スターギャラリー
東京・日比谷シャンテ前の合歓の広場(ねむのひろば)に設置されていたスターたちの手形が、「The Star Gallery(ザ・スター・ギャラリー)」として姿を変え、ミッドタウン日比谷と日比谷シャンテをつなぐ地下通路の壁面に設置されています。
日本を代表するスターたちの手形がずらりと陳列されています。
歌の女王・美空ひばり、文化勲章の高倉健、男性のあこがれの女優・吉永小百合、新国劇の緒形拳など、日本の芸能界で活躍してきたスターたちの勢ぞろいです。日比谷へ行ったら必見の場所です。
スターギャラリー
ミッドタウン日比谷と日比谷シャンテを繋ぐ地下2階の通路には「スターギャラリー」があります。映画で活躍したスターや女優たちの手形が展示されています。
高倉健、緒形拳、吉永小百合、池内淳子、高峰秀子をはじめ多くの有名人が並んでおります。
この手形は以前は日比谷シャンテ前の広場に埋設されていましたが、ミッドタウン日比谷が完成するのに合わせて広場の模様も変えられたために地下の通路へ移転したものです。
◎辰巳柳太郎氏について
少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら、1926年(大正15年)に旅回りの一座に入り長野で初舞台を経験する。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団、東伍作の名で舞台に立つ。
その後、新国劇の沢田正二郎の魅力に引かれ1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中の沢田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し新国劇への入団を許される。新国劇での初舞台では『国定忠治』の駕篭かき役を演じた。
芸名を「辰巳柳太郎」と改める。芸名は師匠の沢田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったことに由来する。1929年(昭和4年)、沢田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田正吾とともに沢田の後継者に大抜擢される。抜擢の理由は沈着冷静な島田と明るく奔放な柳太郎を合わせると沢田の芸風に似たものが出来るだろうという考えからであった。
その後『大菩薩峠』の「机龍之介」や『宮本武蔵』、『無法松の一生』、『王将』の「坂田三吉」などの主人公を豪放磊落に演じきり島田正吾と共に二本柱として新国劇を支える。
戦後になると映画界に進出し1949年(昭和24年)に『どぶろくの辰』で初出演、以降は映画でも島田とたびたび共演したのをはじめ1954年(昭和29年)には日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約、映画界においても「辰巳・島田ブーム」が巻き起こした。
しかし大衆演劇の衰退と共に新国劇の観客数は減少、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇は解散することになる。解散の2年後、1989年(平成元年)に辰巳は世を去った。
弟子に大友柳太朗、緒形拳、笠原章らがいる。
島田正吾・辰巳柳太郎の手形顕彰
1987年(昭和62年)に新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演をうけて劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍していました。
島田正吾氏95歳の誕生会
映画「風雲三条河原」で岡田以蔵を演じる
モネがカキ養殖業者の娘であることで大島のヤマヨ水産の作業場を撮影現場に活用しておりました。ヤマヨ水産は躰道仲間の小松武さんの会社です。ドラマでは永浦水産となっています。撮影終了後にこの看板を譲り受けヤマヨ食堂のところに飾ったところ、ヤマヨ食堂に訪れる人たちが記念になると看板と一緒に写真撮影をしていくようです。
モネたちが通っていた学校のシーンでは地元の生徒たちもエキストラとして参加していました。東北地区躰道大会で優勝をした小松優さんも参加していたとのこと。
大島の田中浜は、砂浜のとてもきれいな場所で朝ドラの中でもよく撮影をしておりました。「おかえりモネ」の素晴らしいラストシーンもこの田中浜で行われたものです。
撮影終了後にヤマヨ水産に訪れた出演者の藤竜也さんと竹下景子さんはとても楽しい印象を受けたようです。ヤマヨ食堂が開店した時には竹下景子さんから役名(永浦雅代)の名前で素敵な祝い花が贈られてきたと小松武さんはエピソードを話してくれました。
朝ドラの「おかえりモネ」が終了した後、気仙沼大島のヤマヨ水産、ヤマヨ食堂に来る観光客が多いようです。
朝ドラ「おかえりモネ」の永浦水産 ドラマのモデルとなったヤマヨ水産
気仙沼大島大橋 ヤマヨ水産のカキ筏と大島大橋
気仙沼大島大橋 ヤマヨ水産小松さん一家
気仙沼内湾・魚市場
①コの字岩壁 出漁船が出発する時に乗組員の家族や友人たちが航海の安全と大漁を願い、5色のテープなどを使って岸壁からお見送りする場所。ドラマのタイトルバックの撮影地で七色の布を持って走っていました。
②浮見堂 海上の遊歩道から停泊中の漁船が並ぶ気仙沼湾の風景が展望できました。立ち姿の恵比寿像は大漁を祈願する気仙沼のシンボルです。
③PIER7 モネの職場(海のまち市民プラザ)として劇中に登場した場所。市民が自由に使えるシェアスペース、コミュニティFMラジオ気仙沼があります。
④出漁準備岩壁 劇中のフェリー乗り場までの道。道沿えを歩けば漁船がずらりと並んでいます。出港準備の漁船も見られます。
テレビの画面で見ていたところを実際に散策できてとても良かったです。
市民のコミュニティースペース コの字岩壁
浮見堂の海上遊歩道 出港準備中の漁船
大漁を祈願する立ち恵比寿像
寅さん記念館
映画「男はつらいよ」の世界を存分に楽しみことができる寅さん記念館。入口から笑いを誘います。寅さん自身が館名の看板文字を取り付け中であり、真下の床面には雪駄の片方が転がっています。
中に入るとくるまやだんご屋のセット。これは実際の撮影に使用されていた「くるまや」のセットを松竹撮影所から移設したもの。寅さんが店先で居眠りをしています。映画の中に入り込んだ気分が味わえます。
その他にタコ社長の朝日印刷所、名場面集では寅さんのマドンナたち、寅さんが愛した鈍行列車の座席の車窓には、啖呵売の名場面が再現されています。吹き抜けの中庭には、全ロケ地を焼き付けタイルで地図化してあります。
引き続き山田洋次ミュージアムでは、「男はつらいよ」以外の映画作品のほか、山田洋次監督の創作活動の資料が展示されています。中央には映画づくりのカメラや照明、録音・編集機材などが披露されています。映画ファンならたまらないコーナーが網羅されています。
今回の「国定忠治」の中で重要な役柄を演じていた山形屋籐造役の緒形拳さんも参加していました。新国劇の重鎮である清水彰さんも川田屋惣次役で出演しておりました。年齢を聞いてビックリ、なんと91歳とのことでした。赤城天神森の場で国定忠治と対峙する重要な役割を演じておりましたが、全く年を感じさせない演技でありました。本人は「役者に年はありません」と言っておりましたが、何と素晴らしい役者根性の持ち主でありましょう。
島田正吾氏との想い出の写真
新国劇の座長を長い間務めていた島田正吾氏。
昭和62年9月に70年の歴史のある新国劇の看板を下ろした後も、一人芝居に出演をしておりました。
当時、毎年5月29日、30日の二日間、新橋演舞場で上演される島田正吾一人芝居には、演劇、芸能関係者も多く来場しており、チケットが取れないとの現象も起こした名物公演でした。
島田正吾氏は98歳で亡くなりましたが、その3年前には「95歳の誕生会」が開催され参加しました。日本演劇界で最高齢となる誕生会には緒形拳夫妻や芸能関係者も多く出席されていました。
重鎮の俳優として存在感のある島田正吾氏は、スピーチの内容も素晴らしいものであり、貫禄に満ち溢れておりました。
とても素晴らしい誕生会に参加できたことを喜んでおります。
その活動写真弁士による上映会が池袋の新文芸坐で開催されていましたので鑑賞にいきました。名匠稲垣浩、再発見「映画界に入って100年」の特別企画です。長谷川伸原作 稲垣浩監督「番場の忠太郎・瞼の母」(1931年)片岡千恵蔵主演。
活動弁士は、澤登翠さんです。弁士の第一人者として国内外の公演を通して幅広い世代に活弁の魅力を伝えています。1972年松田春翠氏に入門しここまで50年の実績があります。
映像に合わせて台詞を入れていきます。出演者に合わせて声を変えています。スクリーンに映っている俳優が話しているように錯覚をしてしまう。自然と映画に見入ってしまうほど巧みな弁士の解説でした。
観客は年配者が多くおりましたが、若い人も来場しておりました。終演後には会場からは割れんばかりの大きな拍手が弁士に贈られていました。
著書は『活動弁士 世界を駆ける』(1973年)
豊島区ミュージカルは、豊島区の歴史や文化の魅力を伝えています。今までに公演したものは、豊島区の花ソメイヨシノ、すすきみみずく、富士塚、谷端川、トキワ荘と雑司が谷隧道などをテーマにしたものがありました。
今公演は、巣鴨プリズン~サンシャインシティで東池袋をテーマにした作品で「IKEBUKURO EASTSIDE STORY」です。
二部構成となっていて、第1部は戦中・戦後の東池袋物語(根津山、空襲、巣鴨プリズン)。第2部はサンシャインシティ、イケサンパーク、キッズパーク、水族館、プラネタリウム、南池袋公園などを歌と踊りでつないでゆくレビューであり、華やかなミュージカルが披露されました。
会場のロビーでは、根津山と巣鴨プリズンの歴史パネルや東池袋案内、そして毎公演に観覧に来ていた高野之夫前豊島区長の絵画作品集などの展示もありました。
ミュージカルのラストは(第九交響曲「合唱」)を出演者全員で披露されていて、来場者を魅了しておりました。
いつもながら劇団ムジカフォンテの豊島区ミュージカルの素晴らしさに賛辞を送ります。
根津山と巣鴨プリズンの歴史を展示
高野之夫前豊島区長の絵画作品の手はがき
竹早高校の先輩「緒形拳氏」
緒形拳氏は、東京都立竹早高校では私の七年先輩にあたる方です。国語の時間に国広教諭から緒形拳氏についてのエピソードをたくさん聞いておりました。秋の文化祭を迎えるころになると授業を抜け出して出演する演劇の稽古に熱中していた。
憧れの新国劇に入団するとNHKの大河ドラマの「太閤記」の主演に抜擢されて名声を得るとともに人気俳優となった。国広教諭の話に影響されて緒形拳先輩の所属する新国劇をよく観劇するようになりました。
劇団若獅子(新国劇の継承劇団)の「国定忠治」公演に客演として出演をしていた緒形拳先輩に打ち上げパーティーで一緒になったときに、「緒形拳先輩、母校である竹早高校同窓会(篁会)の会長になってくれませんか?」と話をすると、緒形拳先輩はにっこりと笑いながら「俳優を引退した時に考えてみるか」との回答でした。
後からよく考えてみると俳優には引退はなく、緒形拳先輩も最後まで映画やドラマに出演をしていて亡くなってしまいました。相手を気遣う見事な返事であったことを後から認識しました。
緒形拳氏は、日本の男優の中では5本の指に数え上げられる名優であると思っております。(2000.11.25)
映画のロケ―ションは、豊島区の雑司が谷近辺が多く出てきました。鬼子母神、雑司が谷ケヤキ並木、大鳥神社、都電と高層マンション、豊島区役所、雑司が谷公園など日頃散歩をしているところなので親近感を感じて観ていました。
小野武彦が初の主演を務めた作品。共演者は宮崎美子、貫地谷かおり、浅香航大、鷲尾真知子ら。
ストーリーは、自宅を改装してシェアハウスをスタートする春山夫妻。年齢も職業も国籍もバラバラで個性的な住人たちは共同生活を営んでいる。管理人を務める妻は不慮の事故に遭い入院する。夫が妻の代わりに管理人を務めることとなる。自分の価値観でのみ物事を判断し、誰とも打ち解けようとしない。さまざまな境遇の人たちとの交流から、少しずつ相手を思いやることを学んでいく。
物語の中には小説家の名前や脚本家の存在が組み込まれていて不思議さを表出している。とても面白い作品でありました。
この映画は、豊島区も後援をしており、劇中に出てくる絵画は、前高野之夫豊島区長が描いたものでありました。
「シェアの法則」主演の小野武彦
「シェアの法則」のスチール写真
鬼子母神参道ケヤキ並木
鬼子母神境内
小林一三は宝塚歌劇と東宝を創った男として名を残しています。
朗らかな日本社会を作り出そうとした。阪急阪神東宝グループの創業者の東京での活躍を紹介したイベントです。
宝塚歌劇を創り今年で110年となります。
東京では、東京宝塚や東宝映画、新宿コマ劇場、日本劇場(現有楽町マリオン)などを創設して発展に貢献をしました。東宝映画では、「ゴジラ」を発表して大きな反響を得て続編が次々と上映をされました。当時のポスターが飾ってありました。
また政界では、昭和20年に戦災復興国務大臣という要職を担当しておりました。小林一三語録も「朗らかに、清く 正しく 美しく」をはじめ5つほど掲示されていました。
戦災復興国務大臣を拝命される
映画「ゴジラ」のポスター。
このイベントは、ことのは殺陣道場の指導者であります宗像拓郎先生が主催したものです。
劇団ムジカフォンテ(知久晴美代表)の劇団による踊りと歌の披露に続いて、宗像先生に指導を受けていた殺陣の発表もありました。
ことのは殺陣道場生による殺陣の演武は迫力がありました。基本の型から初めて、殺陣を組み入れた芝居も演じてくれました。流石に上手い剣さばきでした。如何に相手をきれいに切るか、また切られる方は如何にうまく倒れるかにより見せ場を高揚させます。
津軽三味線は、澤田一咲さんとそのお弟子さんによる合奏です。津軽三味線の歴史と意義について説明があり、お馴染みの「津軽じょんがら節」からスタートしました。次には唄入りの「東京音頭」や津軽三味線のお馴染みの演奏が続きました。
やはり目の前でライブ鑑賞をすることは、親近感も持てます。自分の出来ない芸事はなるべく見て楽しむようにしております。
劇団ムジカフォンテの殺陣発表
ことのは殺陣道場生の演技
切られるところの殺陣演技
澤田一咲さんによる津軽三味線