つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

蝉の死骸

2010年08月31日 | 日記
                      蝉の死骸

今年の夏は、路上に蝉の死骸を多く見かける。
気温35度以上の猛暑に見舞われた今年の夏。
蝉の一生も猛烈な暑さで鳴き続けて力尽きて路上に落下した。
こんなに蝉の死骸を多く見た年はない。

“30度でも 涼しく感じる 今年の夏”

地球温暖化の影響を表現した今年の日本の夏
9月に入ってもまだまだ続く猛暑
熱中症で亡くなる人も多く出た今夏

健康には気をつけて参りましょう!

(9月1日記)
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樋口一葉の井戸

2010年08月30日 | 日記
                      樋口一葉も利用した井戸

文京区の本郷3丁目交差点から、菊坂通りを下り、一本路地を入ったところに樋口一葉が住んでいたところがあります。
案内などは掲示していないので分かりづらいところです。

樋口一葉が明治23年9月から約2年10ヶ月を母と妹とともに過ごし、作家活動を始めた地。
一葉が暮らした建物はすでにないが、露地や共同井戸の佇まいに当時の暮らしぶりが感じられる。
共同井戸は今も健在で、当時を忍ばせてくれる。
井戸の後の石の階段や木造建て住宅が風情を醸し出している。
文学愛好者や樋口一葉について興味を持つ人達がよく訪れてくる。

(8月30日記)


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せんだんの木

2010年08月29日 | 日記
                   せんだんの大木(吉祥寺境内)

文京区の吉祥寺境内に大きなせんだんの木がある。

センダン(栴檀) は、ムクロジ目・センダン科の植物の一種。
西日本を含むアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木である。
日本での別名としてアミノキ、オウチ(楝)などがある。

「栴檀は双葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)の諺でよく知られるが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指す。

樹高は5-15mほどで、成長が早い。
葉は奇数2-3回羽状複葉で互生し、一枚の葉全体の長さは50cm以上ある。
小葉は草質で薄い。
楕円形で浅い鋸歯がある。
若い樹皮は紫褐色で楕円形の小さな横斑が点在するが、太い幹の樹皮は縦に裂け、顕著な凹凸ができる。
葉や木材には弱い芳香がある。

温暖な地域の、海岸近くや森林辺縁に多く自生する。
背が高い上に、新芽・開花・実生・落葉と季節ごとの見かけの変化も大きく、森林内でも目立ちやすい。
夏の日の午後は梢にクマゼミが多数止まり、樹液を吸う様子が見られる。

5-6月頃に、若枝の葉腋に淡紫色の5弁の花を多数、円錐状につける。
花にはアゲハチョウ類がよく訪れる。

果実は長径1.5-2cmほどの楕円形の核果で、10-12月頃に黄褐色に熟す。
秋が深まり落葉してもしばらくは梢に果実が残る。
果実は果肉が少なく核が大きい。
たまにヒヨドリなどが食べに訪れる。
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駒込吉祥寺について

2010年08月28日 | 日記
                     吉祥寺の山門にて(文京区本駒込)

文京区の本郷通りを駒込方面に行くと右側に吉祥寺がある。
八百屋お七と吉三郎の逸話でも有名な寺である。
江戸時代の明暦の大火事で当寺の門前町の住民が焼き出されて住居を失い、武蔵野の五日市街道沿いの吉祥寺に移住し開墾したことに由来する。民衆が集団移住したところが武蔵野市吉祥寺だ。武蔵野市の吉祥寺には、吉祥寺という寺はない。

吉祥寺は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
山号は諏訪山。群馬県の永源寺の末寺、神奈川県の最乗寺の孫末寺にあたる。

室町時代1458年(長禄2年)に太田道灌の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。
道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。
山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。
のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。

境内には後に駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)があり、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。
多くの学寮・寮舎を備え、常時1000人余の学僧がいた。
各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となっていた。
寮主はさらに役員を選び、これら役員によって学問の指導や日常生活が話し合いによって運営された。
教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中間期以降は漢学が重視された。
そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍に聴講を許した。

寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみとなった。
現在は復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。
また境内には「二宮金次郎」で知られる江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑、明治時代の小説家・川上眉山の墓、幕末に幕臣として最後まで抵抗を続け、その後新政府の外交官・閣僚を歴任した榎本武揚の墓などがある。
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三越劇場の祝い花

2010年08月27日 | 日記
                 三越劇場のロビーを埋め尽くした祝い花

劇団若獅子公演を開催している三越劇場のロビーは、出演者の贈られてきた祝い花で埋め尽くされていた。
特に本公演に特別出演していた淡島千景さん、緒形幹太さん、池坊美佳さん、森朝子さんらには大勢の人からラン等のきれいな花が贈られていた。
祝い花の背景の壁には、劇団若獅子次回公演の「一本刀土俵入り」のポスターが貼付されていた。

公演終了後、楽屋を訪れた。
笠原章さん、御影伸介さん、桂広行さん、水野善之さん、中川歩さんら劇団関係者に観劇の感想を述べていった。
緒形幹太さんは、国立劇場の「王将」出演以来だった。父親の緒形拳さんは逝去されているが、母親も新国劇の出身の女優さんであったので、幹太さんにとっても感慨深いものがあるだろう。母親は翌日に観劇に来ると話していた。

(8月27日記)
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劇団若獅子公演「特攻の郷・知覧」

2010年08月26日 | 芸能
                  劇団若獅子公演後の挨拶

日本橋の三越劇場で公演されている劇団若獅子「特攻の郷・知覧」と「蛍火・お登勢と龍馬」を観劇した。
「特攻の郷・知覧」は劇団若獅子初公演である。
特攻隊生き残りの男と、鹿児島県知覧に実在した“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメ家族との愛と苦闘の戦後史を描いたもの。

九州の南端、鹿児島県の知覧を訪れた香川正三(笠原章)。平成22年8月15日、戦後65年となるこの年、87歳。薩摩ホタル館に流れる“君が代”を聞く香川の胸に去来する思い出・・・
昭和20年3月26日。香川は陸軍飛行学校の教官として、知覧で少年兵達の指導にあたっていた。朗らかな浅田博史(浅井弘二)、物静かな宮下二郎(緒形幹太)ら、少年兵の憩いの場となっていたのは「薩摩食堂」である。女主人・高島マキ(南條瑞江)と二人の娘、奈津子(森朝子)、小夜子(池坊美佳)は家族のように香川や少年兵達に接し、彼らもまた母や妹のようにマキ母娘を慕う。

終戦後、知覧の薩摩食堂を訪れる元陸軍飛行学校の関係者達の模様が描かれる。
中でも圧巻の場面は、浅田俊之(御影伸介)と清子(中條響子)夫妻が特攻隊員であった息子の最期の地を訪れ、香川正三と高島マキと話すところ。
新国劇の3人のメンバーとベテラン中條響子が、がっぷり組んだ場面。
その素晴らしい演技に体がぞくぞくとしてきた。
重厚な舞台演劇を観劇した。
元整備兵の渡辺新吉(桂広行)、元知覧高女恩師の安永(水野善之)と特攻隊員の菊池晴男(中川歩)の演技も芝居を引き締めていた。

◆三越劇場での公演は、8月29日(日)まで。当日入場チケットもあります。

(8月26日記)
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興南高校野球部の優勝(3)

2010年08月25日 | スポーツ
                    興南高校野球部沖縄へ凱旋

沖縄初の深紅の大旗に、那覇が大フィーバーした。
第92回全校高校野球選手権大会(甲子園)で沖縄勢として初優勝、史上6校目の春夏連覇の快挙を成し遂げた興南ナインが22日、沖縄に凱旋した。
那覇空港は今春優勝時の倍近い約4000人であふれかえり、那覇市内の同校で行われた優勝報告会にも約3000人が集結。

我喜屋優監督は、野球部選手の合宿寮の整理整頓から教えた。
5S(整理、整頓、清潔、清掃、しつけ)を徹底して指導した。
会社時代の採用担当の体験から「一流の野球選手より企業が欲しがる人材を育てたい」と言い切る。
「野球部の卒業生達が野球で活躍するのもうれしいが、それ以外のところで人生のホームランをかっ飛ばした喜びを分かちあうことを今は楽しみにしている」我喜屋優監督である。
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興南高校野球部の優勝(2)

2010年08月24日 | スポーツ
                   我喜屋興南高校野球部監督

興南高校野球部の我喜屋優監督は「うちには練習はない」という考えを徹底させている。
つまり、いつも実践を意識して考える行動を身につけることを指導している。
稽古には、(1)数稽古、(2)工夫稽古、そして(3)見取稽古があると躰道で祝嶺正献最高師範から教えられたことがある。
自分が稽古の控えや大会を観戦しているときは、人の演武を観て勉強をする。
実践を意識して行なうと法形を行なう時に一度と同じ内容でできたときはない。

我喜屋優監督は、普段の練習や練習試合に気が抜けたプレーをする選手がいれば、全員を集めて指導を徹底する。それはいつも公式戦さながらの緊張感を持ち込むため。
普段から本番を意識している練習を積んでいるのだから、ピンチになっても選手が自主的に考えて動く。

計画性のある選手でないと成長しない。
「計画」をきちんと立てられたら、その後の「行動」は半分以上決まったようなもの。
自分でとった行動を省みる姿勢がないといけない。
Plan(計画)、Do(実行)、Check(検証)、Action(見直し)という流れを選手に諭している。
どういう人間が社会で求められているか野球部活動を通して生徒に教えている。
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興南高校野球部の優勝(1)

2010年08月23日 | スポーツ
               甲子園で春夏優勝を果たした沖縄・興南高校バッテリー

夏の甲子園が終了した。
沖縄の興南高校が、春の選抜大会に優勝して、そして今夏の大会も制した。
春夏連覇の学校は6回目となる。
優勝監督となった我喜屋優監督の指導法がユニークである。
監督自身、社会人野球の大昭和製紙チームに所属して会社の仕事をしながら練習を積んできた。大昭和北海道の時には都市対抗野球で優勝している。
4年前の甲子園夏の大会は、駒大苫小牧対早稲田実業が決勝戦で、ハンカチ王子と呼ばれた斎藤佑樹投手と田中将大投手の投げ合いが話題となった。
その試合を応援に行ったときに、沖縄の興南高校理事長から野球部建て直しの依頼を受けた。
我喜屋監督は、興南高校の生徒なら希望した者は誰でも野球部の入部を認めた。そして退部をする者はほとんどいなかった。
企業にも雇用に対する責任があるように、高校野球にも生徒の意思を尊重する責任があると考える。
「勝てない言い訳を環境のせいにするのは嫌い」だという。

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芙蓉の花

2010年08月22日 | 日記
                        芙蓉の花

■神話&伝説■
フヨウの花のように美しいしとやかな顔立ちの事を「フヨウの顔」と言います
昔から美しい女性のたとえにもちいられ 花言葉も「しとやかな恋人」です

中国、後蜀(ごしょく)の後主昶(こうしゅちょう)は、
居城のある成都に、160Kmもの長さにわたり芙蓉を植え、数千人の美女たちと艶やかさを褒めたたえたと言われています。

中国では、芙蓉は、ハスの花をさし花木の芙蓉は、木芙蓉の字をあてています。
観賞用に植えられ親しまれ、絵画や陶磁器 服 建物の模様に好んで描かれています

一重咲き 八重咲きがあります。
八重咲きは、朝 咲き始めは、白昼は、ピンク 夜は、紅に花色が変化します
まるでお酒を飲んで紅くなっていくようなので「酔芙蓉」の名前が付けられました

■名前由来■
漢名の一つ「芙蓉」が和音読みから

■花言葉■
しとやかな恋人・繊細美、微妙な美しさ

■解説■
アオイ科 フヨウ属 落葉低木
別名・・・・・ コットンローズ
開花期・・・・7月~10月
原産地・・・・四国 九州~琉球 中国
花色・・・・・・白~ピンク 赤
葉の形状・・互生 有柄 径10cm~20cm
草丈・・・・1m~3m
花持ち・・・1~3日程度
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千駄木 くらしのみち

2010年08月21日 | 名所
                   文京区千駄木の「くらしのみち」

文京区に千駄木という町名がある。
台東区の谷中、文京区の根津と合わせて「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、東京の散策スポットとなっている地区である。

千駄木の名前の由来は、雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだからという説や、太田道灌が栴檀(せんだん)の木を植えた地であり、この栴檀木が転訛したとの説がある。江戸時代の古地図の下駒込村内に「上野東漸院持ち駒込千駄木御林」・「上野寒松院持ち駒込千駄木御林」の記載がある。

文京区内を回遊する豆バスである「Bぐるバス」で行くと千駄木駅から団子坂上の交差点を右に入ると「くらしのみち」に入る。
この道がとても情緒のある道路となっている。
団子坂上から駒込病院前までの一方通行。
この「くらしのみち」は千駄木3丁目、4丁目、5丁目地区をを通過して「くらしのみちゾーン」として整備している。
歩行者を優先するために道は蛇行している。

このくらしのみちの両側には高級住宅街が並んでいる。
東京大学が近く、川端康成、北原白秋、高村光太郎、夏目漱石、森鴎外など多くの文人が居を構えた。
千駄木の高台付近は、本郷台地の端、昔の山の手に含まれる。
故大平正芳首相の邸宅も現千駄木2丁目にあった。
五代目古今亭志ん生は昭和20~26年まで千駄木に住む。
天外天の総料理長中川優は赤坂四川飯店で11年(内5年間は料理長)活躍した後、この地で独立した。
千駄木3丁目は、林町と呼ばれ、高級住宅街として有名な街である。

(8月21日記)
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丹波水別の中央分水界

2010年08月20日 | 日記
                  丹波水別の中央分水界(足立尚陽さん撮影)

友人の足立尚陽さんから貴重な写真が送付されてきた。

足立尚陽さんのコメント
7月の下旬に兵庫県に帰省したおり、戻りしなに、丹波水別(みわかれ)に実在する、中央分水界の写真を撮ってきました。
写真は公園になっていて、海抜100M強の所にあります。
川の流れは、写真向かって右側にながれると加古川となり播磨の国に流れていき瀬戸内海(太平洋)へ。
手前の方に流れてくると春日・福知山を通り、由良川となり日本海に注ぎます。
全国に数有る分水界ですが、もっとも低い所を流れております・・・

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東京大学の安田講堂

2010年08月19日 | 名所
                 東京大学キャンパスの安田講堂

東京大学の正門から入り、キャンパスの銀杏並木を通り正面に威風堂々と建っているのが安田講堂
いろいろと歴史を見てきた建物である。

東大安田講堂事件とは、全学共闘会議(全共闘)が、暴力的手段をとり東京大学本郷キャンパスを違法に占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。
東大安田講堂攻防戦ともいう。

事件の背景
1960年代後半、高度経済成長の裏で、ベトナム戦争の激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。
それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の極左暴力集団である全共闘や新左翼の学生が武力、暴力闘争を展開する学園紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という暴力的な強硬手段に訴えた。
学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。

事件発生までの経緯
その中で、東京大学においては、医学部の新左翼学生が登録医制度反対などを唱え通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。
その後、更に闘争は激化し、1968年3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。

6月15日に医学部の新左翼学生が安田講堂を再度暴力的手段を使い占拠し、これに困惑した大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する一部の学生によるストライキや、主要な建物多数の暴力的手法による封鎖が行われた。
11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

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星眞子作品展

2010年08月18日 | 日記
              星眞子先生のブロンズとデッサン作品展(銀座渋谷画廊)

イタリア在住の星眞子先生の作品展が、日本橋高島屋画廊での開催に引続き、今週は銀座渋谷画廊(銀座7-8-1)で8月21日迄行なわれている。
中野英人さんがこの画廊のオーナーである澁谷昌也さんと懇意にしている関係で、夏の期間に開催することができた。

銀座渋谷画廊へ行くと、星眞子先生のデッサン画30点と犬を主体としたブロンズが6体展示してあった。
デッサン画はとてもソフトなタッチでイタリアの風景画と犬の絵が飾ってあった。
画廊の中央のスペースを利用して、犬のブロンズ像が展示してある。

星眞子先生にお話を聞くと
「何しろデッサン画を描くことが好きで好きでたまらない。
ブロンズ像は、粘土で形を創り、型をとってその中に青銅を流し込む。
表面は色を吹き付けて完成をさせる。
ブロンズ像は、とても手がかかる作品である。
イタリアで制作した作品を日本へ送る作業も大変であった。
今回は友人であるトゥッティコンサルタントの小熊美恵子さんがプロデュースをしてくれたので、とてもラッキーであった」
と感謝の気持ちが溢れていた。

(8月18日記)
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小柴昌俊教授について

2010年08月17日 | 日記
          小柴昌俊教授の業績を讃えるプレート(東京大学キャンパス)

小柴昌俊教授の業績を讃えるプレートが東京大学のキャンパスに設置されている。

小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年9月19日 - )は、日本の物理学者。
2002年「天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」によりノーベル物理学賞を受賞。
素粒子物理学・宇宙線物理学の分野で多大な業績を上げた。
日本学士院会員。

愛知県豊橋市出身。東京大学理学部物理学科卒業。
米国ロチェスター大学大学院博士課程修了。
ロチェスター大学にて18か月でPh.D.を取得。
同大学における最短期間での博士号取得者。
この最短記録は現在でも破られていない。

学位は東京大学理学博士、ロチェスター大学Ph.D.。
称号は東京大学特別栄誉教授・東京大学名誉教授、明治大学名誉博士、東京都名誉都民、杉並区名誉区民。
勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。

現在は、平成基礎科学財団 (HFforBS) 理事長、21世紀臨調特別顧問。

自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、現場主義の研究者としての立場を貫いている。
また後進の教育・指導にも手腕を発揮し、「私の研究を受け継いだ者の中から、ノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言、注目を浴びている。
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