今日で40代最後の誕生日を迎えた。
産まれた時も入院中はカラリと晴れていたそうだが、いざ退院して帰宅すると毎日雨続きでオムツの洗濯が大変だったそうだ。それでも今まで誕生日当日が1日雨降り、という記憶はない。
今日も真夏日。朝からすごい日差しだった。咳も鼻水もまだ止まらないし、すっかりガラガラ声で冴えない誕生日であった。
人生50年、と言われた時代を思えば、もう十分、という年まわりなのだな、と実に感慨深い。それでも若い頃は女性で「50歳間近・・・」などというと、もっと重厚で落ち着いたマダムのようなイメージだったけれど、今や“アラフィフ”などという呼称で実に軽いノリになっているし、昔に比べて50代の男性も女性もとても若々しく元気になっているから、いざ自分が迎える段になると(こんなに軽いものか・・・)という何やらあっけないような感じもある。それは30歳になったとき、40歳になったときも同じだったけれど。
再発した時、46歳だったから、50歳まで生きられるかなあ・・・、とぼんやり思った。それでもこうしてなんとか治療を続けてきて早くも50歳まであと1年となった。よほどのことがない限り50代突入も大丈夫だろう、という気がしている。
いつだったかあけぼの会の事務局のTさんが「50歳の誕生日を迎えられたことが本当に嬉しかった。」と言っておられたことを思い出す。ちょうど初発も再発も私と同じくらいの年まわりであったので、前を元気に走ってくださっているのがとても心強い。
いくら平均寿命が男性80歳超え、女性85歳超え、となっても、50年という半世紀の重み、たとえ何らかの病気を抱えていようが病気と共存しつつ、とにかく50歳を迎えられるということは凄いことだと思う。
生まれたときのことを少し。
母から預かった母子手帳がここにある。身長51センチ、体重3500グラム、胸囲・頭囲34センチという大きな赤ん坊だった。母は小さかったので、それは難産で、三日三晩苦しんだと聞いている。(ちなみに息子の母子手帳を並べてみると、身長51.9センチ、体重3315グラム、胸囲32.5センチ、頭囲34センチだ。頭囲だけ一緒、身長以外は私の勝ちだ。)それでも私のように力尽きて帝王切開、でなく、自然分娩で頑張ったというのだから、敬意を表する。出産後のげっそりやつれた病室でのセピア色の写真は、今思い出しても実に痛々しい。
あまりに重そうで「誰もだっこしてくれなかった・・・」というほどのおデブちゃんで、小さい母がいつも顎を出して背負っているほどだったという。「赤ちゃんコンテストに出してみたら・・・」という声に推されて出かけて行ったところ、上には上というか、もっと大きくて立派な赤ちゃんが沢山で、すごすごと帰ってきたそうだ。
髪の毛が薄くて1歳を過ぎるまで殆どスキンヘッド状態だったらしい。心配して両親は海藻類をうんと食べさせたようだが、いつの頃からか太くて多くて硬い髪質になった。
もちろん40代で再びスキンヘッドになるとは思わなかったけれど、髪質は再び生え始めたときのクリンクリンの柔らかなクセ毛だった頃に比べて大分元に戻ってきている。
母は難産が原因でその後腎臓を患い、私が2歳になるかならないかで長期入院をした。その頃、私は母方の祖母に預けられ、毎晩のように「遠くの遠くのおうちに帰りたいなあ・・・」と外を見ながら言っていたそうだ。
数ヶ月後、母が無事退院して帰宅したとき、「ママのところにおいで・・・」と両手を差し伸べて私を呼んでも、私は祖母の後ろに隠れて決して母のところに行かなかった、という。母は「あれほど辛かったことはなかった。子どもは絶対に手から離してはいけないと思った。」と涙を浮かべて話していた。
さて、健康優良児候補だったおデブちゃんも幼稚園に上がる前には背高のっぽの痩せっぽちになっていたようで、それ以来ずっと身長や座高(!)は平均よりずっと上、体重と胸囲(!)は平均よりずっと下、ということで推移してきている。
そんな母ももう70代後半。一時は減塩の食生活を送っていたのが嘘のように、量はそれほど多くなくとも何でも食べて、血圧が少し高いもののいちいちクヨクヨしないし、泣き虫ではあるが、5歳上の父に比べると実に元気である。
子どもの誕生日というのは、実は母にとって名実ともに母になった日。「お母さんお疲れ様、産んでくれてありがとう。」と言わなければならない日なのだな、とこの年になって改めて思う。
そして、母にとっても自分の子どもの誕生日はいくつになっても決して忘れることのできない日なのだろう、との思いを新たにする。
産まれた時も入院中はカラリと晴れていたそうだが、いざ退院して帰宅すると毎日雨続きでオムツの洗濯が大変だったそうだ。それでも今まで誕生日当日が1日雨降り、という記憶はない。
今日も真夏日。朝からすごい日差しだった。咳も鼻水もまだ止まらないし、すっかりガラガラ声で冴えない誕生日であった。
人生50年、と言われた時代を思えば、もう十分、という年まわりなのだな、と実に感慨深い。それでも若い頃は女性で「50歳間近・・・」などというと、もっと重厚で落ち着いたマダムのようなイメージだったけれど、今や“アラフィフ”などという呼称で実に軽いノリになっているし、昔に比べて50代の男性も女性もとても若々しく元気になっているから、いざ自分が迎える段になると(こんなに軽いものか・・・)という何やらあっけないような感じもある。それは30歳になったとき、40歳になったときも同じだったけれど。
再発した時、46歳だったから、50歳まで生きられるかなあ・・・、とぼんやり思った。それでもこうしてなんとか治療を続けてきて早くも50歳まであと1年となった。よほどのことがない限り50代突入も大丈夫だろう、という気がしている。
いつだったかあけぼの会の事務局のTさんが「50歳の誕生日を迎えられたことが本当に嬉しかった。」と言っておられたことを思い出す。ちょうど初発も再発も私と同じくらいの年まわりであったので、前を元気に走ってくださっているのがとても心強い。
いくら平均寿命が男性80歳超え、女性85歳超え、となっても、50年という半世紀の重み、たとえ何らかの病気を抱えていようが病気と共存しつつ、とにかく50歳を迎えられるということは凄いことだと思う。
生まれたときのことを少し。
母から預かった母子手帳がここにある。身長51センチ、体重3500グラム、胸囲・頭囲34センチという大きな赤ん坊だった。母は小さかったので、それは難産で、三日三晩苦しんだと聞いている。(ちなみに息子の母子手帳を並べてみると、身長51.9センチ、体重3315グラム、胸囲32.5センチ、頭囲34センチだ。頭囲だけ一緒、身長以外は私の勝ちだ。)それでも私のように力尽きて帝王切開、でなく、自然分娩で頑張ったというのだから、敬意を表する。出産後のげっそりやつれた病室でのセピア色の写真は、今思い出しても実に痛々しい。
あまりに重そうで「誰もだっこしてくれなかった・・・」というほどのおデブちゃんで、小さい母がいつも顎を出して背負っているほどだったという。「赤ちゃんコンテストに出してみたら・・・」という声に推されて出かけて行ったところ、上には上というか、もっと大きくて立派な赤ちゃんが沢山で、すごすごと帰ってきたそうだ。
髪の毛が薄くて1歳を過ぎるまで殆どスキンヘッド状態だったらしい。心配して両親は海藻類をうんと食べさせたようだが、いつの頃からか太くて多くて硬い髪質になった。
もちろん40代で再びスキンヘッドになるとは思わなかったけれど、髪質は再び生え始めたときのクリンクリンの柔らかなクセ毛だった頃に比べて大分元に戻ってきている。
母は難産が原因でその後腎臓を患い、私が2歳になるかならないかで長期入院をした。その頃、私は母方の祖母に預けられ、毎晩のように「遠くの遠くのおうちに帰りたいなあ・・・」と外を見ながら言っていたそうだ。
数ヶ月後、母が無事退院して帰宅したとき、「ママのところにおいで・・・」と両手を差し伸べて私を呼んでも、私は祖母の後ろに隠れて決して母のところに行かなかった、という。母は「あれほど辛かったことはなかった。子どもは絶対に手から離してはいけないと思った。」と涙を浮かべて話していた。
さて、健康優良児候補だったおデブちゃんも幼稚園に上がる前には背高のっぽの痩せっぽちになっていたようで、それ以来ずっと身長や座高(!)は平均よりずっと上、体重と胸囲(!)は平均よりずっと下、ということで推移してきている。
そんな母ももう70代後半。一時は減塩の食生活を送っていたのが嘘のように、量はそれほど多くなくとも何でも食べて、血圧が少し高いもののいちいちクヨクヨしないし、泣き虫ではあるが、5歳上の父に比べると実に元気である。
子どもの誕生日というのは、実は母にとって名実ともに母になった日。「お母さんお疲れ様、産んでくれてありがとう。」と言わなければならない日なのだな、とこの年になって改めて思う。
そして、母にとっても自分の子どもの誕生日はいくつになっても決して忘れることのできない日なのだろう、との思いを新たにする。