ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.8.30 事実と向き合い、うまくつきあう

2012-08-30 20:03:17 | 日記
 8月から読売新聞の医療サイトyomiDr.(ヨミドクター)で新しい連載が始まった。
 いつかもご紹介した高野利実先生のコラムだ。今回は「がんと向き合う~腫瘍内科医・高野利実の診察室」というもの。先週分と今週分、転載部分がちょっと長くなるのだが、ここでもう一度、私が今私の病と向き合っているスタンスが間違いではないということを力強くバックアップしてくれるものとして、掲げておきたい。

※  ※  ※(転載開始)

治らない事実と向き合う(2012.8.22)

 さる7月に、日本臨床腫瘍学会学術集会で、田原総一朗さんの司会による市民公開シンポジウムが開かれ、私もパネリストとして参加しました。テーマは、がん医療のあり方についてでしたが、「病気を治してほしいという患者さんの気持ち」と、「治らないという現実」のはざまで、患者さんと医者はどのようにコミュニケーションをとっていくべきか、という議論になりました。
 田原さんの、「患者は病気を治してほしいんだよ」という言葉はその通りでしょうし、治せる病気を治すのは、医者の大事な仕事だと思っています。でも、腫瘍内科医の扱うがんの多くは進行したもので、基本的に、治ることは期待できません。そのような「治らない病気」といかに向き合うか、そして、治らない病気と向き合いつつ何を目指すのか、を考える必要があります。
 治らないという事実を見ないようにして、治るつもりで治療を重ねていく、というのも一つのやり方かもしれませんが、そうすると、結局目標は達成できず、つらい治療のあとに得られるのは深い絶望だけ、ということになりかねません。
 私は、患者さんに、「治らないという事実」はきちんと伝えるようにしています。その上で、「治らないということは、けっして絶望ではない」「治らないけれども、目指すべき目標はあり、そこに希望もある」「あなたに対して医療にできることはたくさんある」ということをお伝えします。
 世の中には、病気を治すことに価値をおく風潮があり、多くの医者はそこにやりがいを感じています。でも、病気を治すことに価値をおく医者ばかりだと、治らない病気を抱えた患者さんは見捨てられてしまいます。私は、そんなふうに見捨てられがちな患者さんにこそ、希望と安心と幸せをもたらすような医療が必要なのだと思っています。私が腫瘍内科医を志した理由はそこにあります。
「治らないけど希望がある」というのは、「言うは易し」ですが、この難しいテーマについて、数回にわたって考えてみたいと思います。

がんとうまく長くつきあうこと(2012.8.29)

 前回、進行がんの患者さんに、「治らないという事実」を伝える、と書きましたが、それは、重大な事実を押し付けるわけでも、絶望の宣告をするわけでもありません。むしろ、「治る」と「治らない」の線引きはあいまいで、その線引きにあまりこだわるべきではないということを説明します。
 そもそも、「治る」というのは、どういうことでしょうか?病気が体から完全になくなる、すなわち、がん細胞が1個残らず、体から根絶される状態のことでしょうか? そうであれば、確かに、進行がんは、「治らない」ということになります。でも、体の中にがんがあっても、それと共存して、天寿を全うした場合、それは、「治る」のと何が違うでしょうか?
 私は、こんな風に説明します。「がん細胞がゼロになることを目指す必要はありません。がん細胞が体の中に残っているということを受け止めた上で、それが悪さをしないように、『がんとうまく長くつきあうこと』を目指しましょう」。
 がんとうまくつきあいながら、自分の人生を生き切ることこそが、たとえその長さが他の人より短かったとしても、「天寿を全うする」ことだと言えるかもしれません。
 確かに、進行がんの患者さんの多くは、がんによって命を落とすわけですが、たとえば、糖尿病や動脈硬化も、「治ることは期待できず、いつかは死に至る可能性が高い」という点では、あまり違いません。でも、糖尿病や動脈硬化を告げられた患者さんよりも、進行がんの患者さんの方が、「あとは死を待つだけ」と思い詰めたり、絶望に打ちひしがれたりすることが多いようです。この違いは何でしょうか? 私は、一番の問題は、がんにつきまとう「イメージ」にあると思っています。
 がんの患者さんにとって、「治る」と「治らない」のイメージには、天と地の差があります。治るといえば、勝利であり、いいことであり、希望と安心と幸せを感じることができます。治らないといえば、敗北であり、よくないことであり、絶望と不安と不幸を感じることになります。「治らない」ということは「死」とイコールだという思い込みもあります。進行がんの患者さんの多くは、がんそのものよりも、このイメージで苦しんでいるのではないでしょうか。
 「治る」としても「治らない」としても、イメージに惑わされることなく、常に、希望と安心と幸せを目指すこと。それが、医療のあるべき姿だと思います。

(転載終了)※  ※  ※

 そう、私も今の病院に転院した4年半前、主治医から一番最初に「完治は難しい」ということを言われた(もちろん、言葉を選びながらとても丁寧に時間をかけて話してくださった。突き放すということでは全くなく。)。そして「そのこと(治らないこと)についてどう思いますか?」とも問われた。その時は不思議と落ち着いていた。「これまでそう(再発)ならないように治療を真面目に続けてきたつもりでしたが・・・こうなってしまったのだから、仕方ありません。」というような答えをした記憶がある。

 確かに「もう治らない」と言われることはエンドレスの再発治療を意味することだから、それまで続けていた術後の再発防止治療とは全くスタンスが異なる。そのことをきちんと理解しないまま治療を続けると、途中で心が折れてしまう心配があるからだろう。医師によっては、再発患者に対して最初に「もう治らない」と言うことは冷たすぎる、厳しすぎる、とおっしゃる方もあるけれど。

 もちろん、4年半を超えて再発治療を続けている今もなお、治るものなら治りたいというのが本音だし、治らないでいいと言っているわけではない。けれど、それが今の医療をもってしても叶わないというなら、やはり受け容れるしかないし、共存するのが唯一許された賢い方法だろうと思う。事実に眼を塞いだまま、見ないふりをしたまま治療を続けるのは精神的にかなり辛いものではないか。絶望することが病気の一番の敵のように思う。

 だから、確かに今は治らないと言われているけれど、希望を捨てずに今の生活(仕事も家庭も趣味も治療も!)を続けながら少しでも病と長く共存していくこと、を目指しているわけである。そして、そのことは先生がここで主張されていることと同じことだと理解している。
 これからも細く長くしぶとく病とつきあいながら、自分なりの人生を生き切ることを目指したい。健康な人たちに比べて少し短い人生になるかもしれないけれど、比べても仕方ない。それは間違いなく私の「天寿の全う」なのだろうから。
 「治らない」ということは決して「死」とイコールではない。そして「敗北」でもない。がんだけが特別なわけでもない。治らなくても希望も幸せもある。本当にそうなのだ、と改めてその思いを強くする。

 今日も終日暑かった。昼休み、ちょっと外を歩いただけで、本当にクラクラした。ここ数日暑さがますますパワーアップしているような錯覚に陥る。けれどこの暑い中、日傘を差しながらではあるが、汗をかきかき自分の足で歩ける。好きな所に行ける。なんて幸せなことだろう、と思う。

コメント (3)
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