朝日新聞社のネット記事BOOK.asahi.comで2012年8月14日掲載分に気になる記事があったので、以下転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
僕を憎み愛した妻・河野裕子 歌人・永田和宏が手記出版 [文]伊佐恭子
戦後生まれを代表する歌人河野裕子が乳がんで死去して、ちょうど2年。夫で歌人の永田和宏(65)が、壮絶だった河野と家族の闘病生活をつづった手記『歌に私は泣くだらう』(新潮社)と歌集『夏・二〇一〇』(青磁社)を出した。夫婦とは短歌とは、そして死を受け止めるとはどういうことかを鮮烈に描く。
河野は2000年に手術、8年後に再発転移が分かった。一昨年夏の最後の3週間、手帳に鉛筆で175首を書きつけ、その力もなくなると付き添った家族が口述筆記した。最後の絶唱は永田が聞き取った。
〈手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が〉
夫婦愛、家族のきずな、歌人としての見事な最期を多くの人がたたえた。しかし、そこに至るまでには「地獄のような」日々があった。手術後、何年も河野が激しい怒りの発作に見舞われるようになったのだ。
体の不調と再発への不安、以前から常用していた睡眠導入剤の影響もあったのだろう。ささいなきっかけで、延々と何時間も永田をののしり、夜中に包丁を持ち出して迫ったこともあった。絶望した永田は死も考えた。
〈この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし〉
それでも持ちこたえられたのは、河野のこの一首のおかげだった。
〈あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて〉
こんな修羅場を迷いながらも書いたのは、自分に向けられた怒りの理由を考えるためだった。そして分かった。「あの頃、河野は本気でぼくを憎んでいた。憎みながら、誰よりも愛していた。そして一番心配していたのは、置いていくぼくのことやったと」
再発後、河野は驚くほど冷静で、今度は永田が打ちのめされた。思いを伝えるために決心してうたった。
〈歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る〉
「彼女はどんどん澄み切っていく感じがした。苦しんで苦しんで、ようやくたどりついたのが最後まで歌を作り続けること、歌人として生き切ることだった。この人が女房だったことを改めて誇らしく思う」
この手記を原案にしたドラマ「うたの家」が26日午後10時から、NHKBSプレミアムで放送される予定だ。
(転載終了)※ ※ ※
ちょうど2年前の夏、河野さんが亡くなったことについてこのブログでも触れた記憶がある。同じ病ということで、どうしても自分に引き寄せ、重ね合わせてしまう部分があり、涙なしには読めなかった。
今年で三回忌を迎えるわけだが、最期まで歌を詠い続けた河野さんの、再発に怯え続けた8年間の地獄のような日々。そうした日があったからこその再発転移後の諦観、夫婦愛、家族の絆を思うにつけ、息苦しくさえなる。
絶望の中、死をも思った修羅場を経験してもなお、上の1首(あの時の壊れたわたし・・・)で持ちこたえることが出来たという永田さん。それほど歌の力、言葉の力は重いのだ、と圧倒される。
ドラマ「うたの家」は早速予約録画をした。楽しみである。
今日も暑い。青空の下、準々決勝の第一試合。残念ながら準決勝には進めなかったけれど、エースは今日も15奪三振、4試合合計で68奪三振は大会通算歴代3位の成績で、既に直筆サイン入りの記念ボールが歴史館に展示されているという。
息子は昨日の帰宅後「学校のためなら(明日)勝てた方がいいけど、彼のためには負けた方が良い。肩を壊すから」と冷静に言っており、ふーん、と思った。確かにそうなのだろう。けれど、そんな息子も、試合終了後に号泣する同級生を笑顔で慰める女房役の先輩を見て、貰い泣きしたとのこと。そんなことを聞くと、こちらもまた涙線が故障してしまう。
まだ2年生。来年もある。おかげさまで久しぶりに、高校生と一緒に興奮する良い夏の夢を見させてもらった。初のベスト8おめでとう。そして、素敵な夏をありがとう、と言いたい。
土日の両日とも都心に出かけたせいか、疲れがとれず、胸痛がぶり返してしまった。自業自得以外の何物でもないのだが。自分の身のほどを知り、皆にいい顔をするのは止めて、我慢する所は我慢しようと反省する私である。
※ ※ ※(転載開始)
僕を憎み愛した妻・河野裕子 歌人・永田和宏が手記出版 [文]伊佐恭子
戦後生まれを代表する歌人河野裕子が乳がんで死去して、ちょうど2年。夫で歌人の永田和宏(65)が、壮絶だった河野と家族の闘病生活をつづった手記『歌に私は泣くだらう』(新潮社)と歌集『夏・二〇一〇』(青磁社)を出した。夫婦とは短歌とは、そして死を受け止めるとはどういうことかを鮮烈に描く。
河野は2000年に手術、8年後に再発転移が分かった。一昨年夏の最後の3週間、手帳に鉛筆で175首を書きつけ、その力もなくなると付き添った家族が口述筆記した。最後の絶唱は永田が聞き取った。
〈手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が〉
夫婦愛、家族のきずな、歌人としての見事な最期を多くの人がたたえた。しかし、そこに至るまでには「地獄のような」日々があった。手術後、何年も河野が激しい怒りの発作に見舞われるようになったのだ。
体の不調と再発への不安、以前から常用していた睡眠導入剤の影響もあったのだろう。ささいなきっかけで、延々と何時間も永田をののしり、夜中に包丁を持ち出して迫ったこともあった。絶望した永田は死も考えた。
〈この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし〉
それでも持ちこたえられたのは、河野のこの一首のおかげだった。
〈あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて〉
こんな修羅場を迷いながらも書いたのは、自分に向けられた怒りの理由を考えるためだった。そして分かった。「あの頃、河野は本気でぼくを憎んでいた。憎みながら、誰よりも愛していた。そして一番心配していたのは、置いていくぼくのことやったと」
再発後、河野は驚くほど冷静で、今度は永田が打ちのめされた。思いを伝えるために決心してうたった。
〈歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る〉
「彼女はどんどん澄み切っていく感じがした。苦しんで苦しんで、ようやくたどりついたのが最後まで歌を作り続けること、歌人として生き切ることだった。この人が女房だったことを改めて誇らしく思う」
この手記を原案にしたドラマ「うたの家」が26日午後10時から、NHKBSプレミアムで放送される予定だ。
(転載終了)※ ※ ※
ちょうど2年前の夏、河野さんが亡くなったことについてこのブログでも触れた記憶がある。同じ病ということで、どうしても自分に引き寄せ、重ね合わせてしまう部分があり、涙なしには読めなかった。
今年で三回忌を迎えるわけだが、最期まで歌を詠い続けた河野さんの、再発に怯え続けた8年間の地獄のような日々。そうした日があったからこその再発転移後の諦観、夫婦愛、家族の絆を思うにつけ、息苦しくさえなる。
絶望の中、死をも思った修羅場を経験してもなお、上の1首(あの時の壊れたわたし・・・)で持ちこたえることが出来たという永田さん。それほど歌の力、言葉の力は重いのだ、と圧倒される。
ドラマ「うたの家」は早速予約録画をした。楽しみである。
今日も暑い。青空の下、準々決勝の第一試合。残念ながら準決勝には進めなかったけれど、エースは今日も15奪三振、4試合合計で68奪三振は大会通算歴代3位の成績で、既に直筆サイン入りの記念ボールが歴史館に展示されているという。
息子は昨日の帰宅後「学校のためなら(明日)勝てた方がいいけど、彼のためには負けた方が良い。肩を壊すから」と冷静に言っており、ふーん、と思った。確かにそうなのだろう。けれど、そんな息子も、試合終了後に号泣する同級生を笑顔で慰める女房役の先輩を見て、貰い泣きしたとのこと。そんなことを聞くと、こちらもまた涙線が故障してしまう。
まだ2年生。来年もある。おかげさまで久しぶりに、高校生と一緒に興奮する良い夏の夢を見させてもらった。初のベスト8おめでとう。そして、素敵な夏をありがとう、と言いたい。
土日の両日とも都心に出かけたせいか、疲れがとれず、胸痛がぶり返してしまった。自業自得以外の何物でもないのだが。自分の身のほどを知り、皆にいい顔をするのは止めて、我慢する所は我慢しようと反省する私である。