今日も駅前(AKIBAオジン)

ツクバEX開業日から始めた親父居酒屋の放浪記。下町の居酒屋、旅先の地酒・酒蔵・秘湯、森と水の話や、たまには政治談義など。

藤岡温泉と世界遺産「富岡製糸所」と「ろうばいの郷」

2016年01月26日 | 

 一月の半ばの金曜日、家族四人で群馬県の藤岡の温泉へと向かう。ネットでは泉質のPHが9.8と紹介され、奥方や娘には喜ばれるかと予約した。渋滞せずに案外すんなりと藤岡JCに到着。まずは土日は大混雑と聞いているので平日の世界遺産「富岡製糸場」へと向う。富岡製糸場は近代製糸工場の先駆けとしてつとに知れている。「女工哀史」などで歪められて伝えられているが、その当時の女工は地方の良家の子女が地元に技術を伝えるべく集められた女子で結構な高給を貰っていたとも聞く。

 富岡製糸場へは、五年前と世界遺産登録の一年前と二回訪れ、誘致運動真っ盛りの時に地元青年部の方とオデンをゴチになりながら語りあったこともあった。富岡ICで降りたが、当初覚悟していた混雑は無く、駐車場はガラガラ、場内では見学者が少なく案内もゆっくりと聞けた。案内の女性からは、土日は芋洗い状態で写真も満足に撮れない混雑状態であると聞くにつけ、金曜に訪れたことの判断に過ちは無かったようだ。土日の駐車場は、駐車待ちと出車待ちで両方30分は覚悟とのこと。クワバラクワバラ・・

 宿は藤岡温泉ホテルリゾート。藤岡ICから約30分、平野部を抜け渓流沿いの道を山に入って暫く走る。やけにいろいろなゴルフ場の看板が目に付く。宿泊ホテルはゴルフ場の併設ホテルであったようだが、現在では一年前にゴルフ場は閉鎖、いい湯が出るとのことで宿泊ホテル専用となっている。残念ながら掛け流しではないが、宿の泉質表ではPHが9.5前後と表示、ヌルヌルの肌触りが美人の湯と評判とのこと。金曜の夜は宿泊客は少なく、我々とあと2~3組のようだ。新館の大浴場に行くのに暖房が効いていなくて寒い。

 

 翌朝、愛車のフロントガラスに霜が一面にこびり付いていた。ここ数年で久しぶりのことだ。ここでは当たり前のことだが。二日目の予定は、下仁田ICから高崎の倉渕に抜ける地蔵峠沿いの安中の「ろうばいの郷」へと向う。12月から1月にかけてが花が見頃とのことだが香りは既に飛んで少なかった。正月から1月の初旬が花、香りとも最高のようだ。それでも青い空と小ぶりな黄色の花びらが山を背景に美しい。匂い立つ一月初旬に訪れたいものだ。

 「ろうばいの郷」見物から、下仁田から碓氷峠に向かい下道を旧中仙道を走り、妙義IC前を通り抜け「妙義神社」へと辿り着く。妙義神社前の道の駅で藤岡から高崎に広がる遠くの町並みを眺める。青い空に岩礁そそり立つ妙義山はいつ見ても威厳がある。

 昼食を摂るため旧中仙道沿いの、横川の釜飯で有名な「おぎのや」へ。途中気がつかない内に「碓氷バイパス」に入ってしまったようだ。「碓氷バイパスでの20人近くの若者の命を奪ったスキーバス事故」は三日前、慌てて引き返し途中から中仙道へと入る。バス事故は、現在のバス業界の過当競争と労働市場では起こるべくして生起した感がある。

 「おぎのや」の駐車場が観光バスで一杯だたため、昼食前に旧横川宿を通り抜け、レンガ積の鉄道橋のめがね橋を見物。橋の下に駐車し、鉄道橋の上まで上るが人がいない。二回ばかり来てはいるが休日では考えられない静かさだ。人がいないので暗い鉄道トンネルに入るのは遠慮する。

 横川から松井田、安中にいたる地域は、江戸時代は安中藩の所領である。、「碓井の関所」は東海道の「箱根の関所」と並び江戸時代の重要な関所があった。「皇女和宮」が数千人のお供を連れ家茂に輿入れした際、横川の宿場の街道沿いの家は殆んど立て替えたそうだ。信州と上州を行き来していた「国定忠治」もこの関所で捕縛されたとのこと。また、最近読んだ浅田次郎のテレビドラマにもなった「一路」では、安中藩が日本マラソン発祥の地であることを知った。

 相当昔のことではあるが、夜行列車に乗り野沢温泉にスキーにいくため、真夜中にアブト式機関車で急峻な碓井峠を越え信州に入ったこを思い出す。今では北陸新幹線でしか信州に入れない。トンネルが殆どであり車窓の景色には旅の風情は感じられない。

 二泊目は土曜日、ホテルは客も多く団体も入り賑やかになった。静かなのもいいが、やはり賑やかなほうが性に合っている。翌日は藤岡IC近くの「ららん藤岡」に立ち寄り、新鮮で安い野菜と白菜の漬物ダルなど愛車のワゴン車の後部ドアが閉まらなくなるほど買い込む。暫くは野菜には不自由しなかった。

 


アキバおじんの新春下町速歩14km

2016年01月02日 | まち歩き

 正月二日、元旦は殆ど歩いていない、遅い朝食の後にウォーキングを決意。ルートは気まぐれ足任せであるが、本日は「アキバおじん」の生年月日による、日盤、月盤による気学九星の大吉方方位、西方へと秋葉原から浅草橋方面へ、いざスタート。

 浅草橋西口近く、八幡太郎源義家公が植えた由来の「銀杏岡八幡神社」でお参りし、稲穂の着いた「かっこめ」をいただく。神田川に係留する屋形船を横目に柳橋を渡り、両国橋の上から隅田川の川面に映るスカイツリーを見ながら両国側(墨田区)に渡る。   照国、霧島のチャンコ相撲部屋の前を通りJR両国駅前へ。正月場所間近の国技館横を東京江戸博物館入り口へ。レオナルド・ダ・ヴンチ展を開催中なら立ち寄るつもりでいた。しかし、1月16日からとのことで、博物館の中を斜めに通り抜け北斎通り側(錦糸町方面)に出る。50年前の思い出の母校の横に出る。後はひたすら北斎通りを錦糸町へと、ひたすら西へと歩く。途中、部活(テニス部)で毎日練習していたテニスコート脇を通る。当時、高いフェンスにフンドシを吹流しのように掛け干していた「いすゞ部屋」は、今はなく再開発のビルの建設中である。フンドシに何発ホームランを打ちつけたことか。

 錦糸町駅に近く公園脇の「津軽八幡神社」にお参りする。向島の桜土手傍にある「牛島神社」の分社である。牛島神社のお札をいただく。そろそろ休憩、錦糸町駅前のエクセルシオールでコーヒータイムと持参のノートP/Cで4日からの仕事のスケジュール調整。一時間ほど休んでいると店内大混雑のアナウンス。休みすぎると歩くのが辛くなるため席を空ける。

 大吉方の終点は、江東楽天地の宝くじ売り場で初夢を買う。西方から北方に方向転換することとした。錦糸町駅からスカイツリーに一直線に整備された「タワービュー通り」、スカイツリーをまっつぐに見つめながら歩く道である。電柱もなく両側に歩道が整備され、建物も比較的新しい家も多く、お洒落な店は未だないが下町らしくない雰囲気である。いまは、歩行者は少なく静かな道だが駅からツリーまで約15分~20分、知名度が上がれば駅からスカイツリーへと向う人が多くなることが十分予想される。

 スカイツリーに突き当たり、手前の川沿いをツリーを仰ぎ見ながら写真を撮りつつ浅草方面へと向う。這いつくばって写真を撮っている姿が滑稽である。大通りに出てみると浅草方面からツリーに向う人が多い。押上の飲み屋に浅草との「はしご」をしていた往時を知るものとしては驚きだ。雷門通りを隅田川手前の金色に輝く誰でも下町では普通に呼んでいる「う〇こビル」の横を通り抜け隅田川に架かる吾妻橋を渡る。

   流石に浅草、正月の賑わいは凄まじい。雷門通りの歩行者天国も人々人である。「おじん」のいつもの立ち寄りどころの雷門前の観光案内所の8階、仲見世の賑わいを見ながら一休み。いつもながら日本人よりも中国人が多いのはいたし方ない。上から見た仲見世の浅草寺に参詣する人の波の動きは極端に鈍い。お参りするには相当時間がかかるので後日に回す。ここまでほぼ10km、足裏に応え始めたがアキバまでひと踏ん張りとするか。

 上野に向う道すがら、西浅草の「東本願寺」に寄る。「浄土真宗」の東京での本山である。大晦日にお参りしたところではあるが、我が家の宗旨への初詣となる。広い本堂の椅子に座り、厳かに阿弥陀如来に手を合わせる。二日の夕刻近くともなると参拝者も少ない。落ち着いてお詣りできた。

  上野への途中、「下谷神社」に立ち寄り、ほどなく夕暮れ時の上野駅前デッキに到着。デッキ上からみるアメ横と上野駅を連絡する横断歩道は人の波。まともにアメ横に突入せずにガード下の正月休みの「大統領」の前から横切り中央通りに出る。それでも中は歩くに儘ならない賑わいである。ようやく中央通りに出てく御徒町の松坂屋方面に歩き、途中アメ横脇にある二木の菓子の売り場の上に立つ「魔利支天」にお参りする。魔利支天様には浄行菩薩が祀ってありタワシで病で病んでいるところを洗うといいと聞く。頭と目、肩と肘、腰と膝タワシでこする。よく考えると菩薩さんから欲張りすぎるとお叱りを受けるかも。

 中央通りを銀座方面へ、秋葉原の電気街に入ると人種が代わる。名実ともに人種が入り乱れている。歩行者天国でないため歩道に人が多く、すれ違い、並び歩く人の声は中国語、韓国語、英語、スペイン語等々、異国の地とも見まごう。ただし、秋葉原中央口駅前のAKB48cafeガンダムカフェの前には、明らかに日本人と見られるオタクっぽい若者が多い。不思議にホットする。

 あっち寄り、こっち寄りの全行程14.5km、久しぶり2万歩達成である。それにしても、まだまだ歩けそうだ。自宅での夕食後には、毎日曜の日課である神田か浅草橋の銭湯に行き、浄行菩薩様になり替わりジャグジーで筋肉に施しを与えたい。だが待てよ!!正月の三ヶ日は朝風呂だけだったような気がする・・・