2015年7月5日(日)
JC説教はシカルの井戸端、サマリアの女とイエスの例のやりとり、ヨハネ福音書4章1~26節である。これ自体、一幕ものの演劇脚本の味わいがある。
サマリア人の女は、ユダヤ人であるイエスと相互疎外の関係にあり、しかも「不身持ちな女」としてサマリア人コミュニティの中で疎外されている。後者の疎外ゆえに炎天下の井戸にひとり水を汲みに来てイエスと出会い、前者の疎外を乗り越える縁(よすが)を与えられるというお膳立てが、既に相当にドラマチックである。そしてその後のやりとりの面白いこと。
「私が誰だかわかっていたら、あなたの方から水を請うただろう」というイエスの挑発に、女が本気でかみついてくるのが、リアルであり痛々しくもある。所属しながら疎外されているサマリア人コミュニティの伝統において、女はイエスに反論する。
汝は我らが父祖ヤコブよりも偉大なりというか、汝何者なりや・・・
そのひたむきが、女をイエスに確実に結びつけていく。
何度も読んだはずなのに、子どもたちに語ろうとして読み直すと必ず(必ず!)新しい発見がある。これが恵みというものだ。
その一、女は水瓶を置き忘れたまま町へ駆け戻り、「メシアらしき男と出逢った」と人々に告げる。イエスの到来を告げ知らせる熱心が、疎外の垣をあっけなく乗り越えさせている。炎天下に人目を盗んで井戸に出かけていった女とは、既に別人格になっているともいえるが、何しろ「コミュニティからの疎外とコミュニティへの復帰」をこの箇所の大事なテーマと見ても間違いではないはずだ。
その二、「ゲリジム山でもなければエルサレムでもない、生身の人間という『神殿』において内面的・霊的な礼拝を捧げる新時代が来ている」というイエスのメッセージは、宮清めの結句においてイエスが「三日で立て直してみせる」と宣言した、あの言葉と直接連続している。エレミヤの預言した「新しい契約」の成就を、ヨハネ福音書は繰り返し証言しているのである。
ともかく一行一行が面白いんだよ。4章4節「しかし、サマリアを通らねばならなかった」・・・なぜ「ねばならなかった」なのか、とか、そこからしてね。
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夕食後の戯れに、次男と三男がアルジェリアとナイジェリアで言葉遊びしている。
「アルジェリアの首都はアルジェ、ナイジェリアの首都はナイジェ」
「それは、ないない」
ふと思いついた。
「アルジェリアの女性とナイジェリアの女性、奥さんにするならどっちがいい?」
「・・・」
「・・・」
「ナイジェリアの女性に決まってるだろ、『ナイジェの功』っていうじゃないの」
「?」
「?」
シラケ鳥が羽音高く飛びすぎた。しまった、スベったかと思ったらそうじゃないんだって。二人とも「内助の功」という言葉を知らなかったのである。
親バカのようですが、彼らの語彙は今どきの同世代水準をはるかに上回っている。その二人が知らないということは、どうやら死語なのね。そりゃそうか、男女機会均等の時代だもんな。
でもね、「機会均等」は掛け声倒れで進まず、良くも悪くも「内助の功」を果たしている女性は今でも多いのに、それを賞賛する言葉が先に廃れるのを進歩とは呼べないよ。
古くて良いものも、新しくて良いものも、どちらも遠いという平和な日曜の晩でした。