散日拾遺

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映画の『バラバ』

2015-07-20 16:43:20 | 日記

2015年7月20日(月)

 『バラバ』は映画化されている。

 1961年の伊太利亜映画、主演がアンソニー・クイン × シルバーナ・マンガーノと聞いては、見ないわけにいかない。幸いDVD化されている。

 ラーゲルクヴィストの原作に依っていることは間違いないが、粗筋を見ると例によってそこそこ翻案されているようだ。どうなんだろうね。

   


『バラバ』 / ラーゲルレーヴとラーゲルクヴィスト

2015-07-20 10:55:14 | 日記

2015年7月20日(月)

 遅くなりましたが、勝沼さん、コメントありがとう。

 御承知のように僕はテレビ等を見ないので、小林節氏の発言についてほとんど何も知らず、反応することができません。ただ、僕自身の在学中に大学に二人の憲法学の教授がおられ、そのお一人が小林直樹先生であったことを思い出しました。なお、もうお一方は芦辺信喜先生で、僕らはもっぱら芦辺先生の講義を聴いたのだったと思います。

 などと書いていましたら、次のコメントをいただきました。

 「昨年、石丸先生に教えていただいだ『妻と飛んだ特攻兵』が8/16にテレビドラマとして放送されます。」

 ありがとう、泣き虫で腰抜けの石丸は、ちょっと見ることができないかもしれません。『火垂るの墓』も見られないんですから。また感想を聞かせてくださいね。

***

 買ったからには、(なるべく)読みましょうね・・・ 少なくとも『バラバ』は読んだ、その晩のうちに。文庫本で165ページほどのもので、特に晦渋なところはないから、丁寧に読んでも時間はかからない。それに、聖書の脇役的な登場人物に注目しようと企てる場合、ピラトの面前でイエスと天秤にかけられ、「バラバを!」という民衆の声によって死刑を免れたこの人物は、最有力候補リストからまずもって外れようがないだろう。

 もっと多くの作家がバラバについて書いていても良いような気がする。ただ、ノーベル賞作家のラーゲルクヴィストにこういう作品があるとは知らなかった。などと知った風に言うが、ラーゲルレーヴとラーゲルクヴィストの違いも分かってなかったんだから、お恥ずかしい。「活躍時期が半世紀も違う、だいいち性別からして違うでしょ」って、そうだったんですか。以前に岩波文庫の『キリスト伝説集』(これはラーゲルレーヴ)を読んでいて、そのイメージを要(かなめ)に相互移入を起こしちゃったんですよ。それにしても「ラーゲル」って、スウェーデン語でどういう意味なのかな。

 

 バラバは文句なく面白い。この水準のものの面白さを解説するなんて、野暮な話だし手にも余るから、「読んでみたら」と言うに留める。ラーゲルクヴィストの死に際し、ある瑞典の新聞が「ラーゲルクヴィストの作品に解答を見出そうとしてもそれは見当たらぬ」「彼は決して倦むことなく問いかけをした」と記したと「あとがき」にある、それを踏まえて「かくもスリリングな問いかけを生き生きと織りなす作品の面白さ」とでも言っておこうかな。

 ただ、翻訳は少なからず問題アリですよ。あら探しみたいで悪いけど、たとえばね、

 「おそらくその話をしようとはだれも考えてはいたかもしれないが、結局はしなかった」

 これって、どういう意味ですか?中高生がこういう文を書いたら、国語のテストで点もらえないでしょうよ。

 訳出されたのが1953年とある、スウェーデン語の専門家も多くはなかろうけれど、この原作にふさわしいこなれた翻訳の登場を待ちたい。

 

 それにしても、ラーゲルクヴィスト大先生も、イエスをひ弱な身体の男と描くんだね。

 「それは決してがんじょうな男ではなかった。体はやせていて弱々しかった。腕はこれまで何の仕事にも使われたことがないように細かった。妙な男だ。ひげは薄くまばらで、胸には少年のようにまったく毛がはえていなかった。」(P.5)

 妙じゃないか、だってイエスは大工の息子で、自身も大工だったんだよ。宣教活動を始める30歳前後までは、大工仕事で一家を支え弟妹を養ってきたのだ。「何の仕事にも使われたことがないように細い」腕の男であるはずがないし、そんな男が神殿で暴れたところで、たちどころにつまみ出されるのがオチだったろう。少なくとも標準的な身体の、とりたてて闘士型ではないまでも生活に必要な筋肉をしっかり備えた、精悍な壮年者であったはずだ。

 

 バラバがラザロ ~ ベタニヤのマルタ・マリア姉妹の兄弟で、イエスによって復活させられた男 ~ に会いに行く場面が面白い。ラザロは不気味な男として描かれ、喜びをもってというよりはやむを得ざる自分の役割として復活を証している。そのラザロに会って、バラバは他人の訊かなかったことを訊く。

 「冥府?そこはどんな具合だった?おまえさんはどんな目にあったのだ?」

相手は不審そうにバラバをみつめた。彼にはバラバの言葉の意味がよくわからなかったことは明らかであった。(これも悪訳!)

 「わしは別にどんな目にもあってはこなかったよ。わしはただ死んでただけさ、それに死、それはなんでもないのさ」

 「なんでもないって?」

(P.60~61あたり)

 戻ってきたバラバに、ペトロを中心とする弟子たちが「どうだった?」と訊くのに対し、バラバの答えが振るっている。

 「あの男が死んで、あとで死者の中から甦らされたことは疑ってはいないが、あの男を甦らせたことはおまえさんたちの師匠としては正しいことではなかったと思う。」

 というのだ。これを聞いた弟子たちは驚きまた憤激し、その後は一致しかつ一貫してバラバを黙殺・排斥するようになる・・・

 これはどんなものだろうか、僕が弟子だったら、逆にそれまでとは違ってバラバに強い関心をもつだろうと思う。まあいいや、簡単なことではないからね。ともかくそれは彼らの最後の別れではない。彼らは羅馬で思いがけない再会を遂げる。そこでバラバの果たす役割、これぞ小説家の至芸というものだ。

 最後に結句、こればかりは誰が書いてもこうでなければならない。そう思わせて、実はこの作家にしか書けないのであろう。

 「彼は暗闇のなかへ、まるでそれに話しかけるかのようにいった。

 ー おまえさんに委せるよ、おれの魂を。

 そして彼は息たえた。」

 (P.165)

 この文の「不明瞭さ」がアンドレ・ジイドなんかによって論議されているそうだが、これについては訳者は明解な注記を付している。一行目の「それ」は、スウェーデン語原文では det という中性代名詞で、従って直前にある中性名詞「暗闇」を受けるとしか、解釈しようがないというのである。ジイドは、それにもかかわらず「実はキリストに話しかけ訴えたのではないか」という「疑い」が生じるというのだが、これまた無理のない話で、上の描写にある「わが魂を汝に委ねる」という最後の言葉は、ルカ福音書23章46節の告げるイエス絶命の場面とぴったり重なるのである。キリスト「に」話しかけたかどうかはとりあえず置くとして、物語の冒頭で秘かに目撃した十字架上の身代わりの姿に、物語の最後でバラバが自身を重ね「同一化」していることは疑いない。

 全編を通して蹉跌と葛藤を繰り返してきた二つのイメージが、ここでぴったり重なる。その重なり合いが多重の意味を帯びている。見事である。

 

 あと面白いのは、後半のかなり長い部分で、アルメニア人サハクとバラバの「鎖による連帯」が描かれていることだ。アルメニアはマイブームだが、ここに登場することだけをとっても、キリスト教史におけるアルメニア(人)の古さがよく知れる。ちなみに、サハクとバラバが解放後にも見えない鎖でつながれるありさまは、シドニー・ポワチエとトニー・カーチスの映画『手錠のままの脱獄 The Defiant Ones』を思い出させるよ。1958年度、スタンリー・クレイマー監督の名作だ。描かれた現実に見るアメリカは実にひどい国だが、こういう映画がこんな時期に作られた事実がアメリカの底力を示してもいる。

 

***** ラーゲルレーヴとラーゲルクヴィスト ***** おおむね Wikipedia に依拠

 セルマ・ラーゲルレーヴ(スウェーデン語: Selma Ottilia Lovisa Lagerlöf、 [ˈsɛlˈma ˈlɑːɡərˈløːv]、1858年11月20日 - 1940年3月16日)は、スウェーデンの女性作家。

 『ニルスのふしぎな旅』(1906年・1907年)の著者で、1909年に女性初、スウェーデン人初となるノーベル文学賞を受賞したことで名高い。現行の20スウェーデン・クローナ紙幣には、表にラーゲルレーヴの肖像、裏にニルスが描かれている。

 

***

 ペール・ラーゲルクヴィスト(Pär Fabian Lagerkvist ,1891年5月23日 - 1974年7月11日)は、スウェーデン・スモーランド地方のベクショー出身の作家・詩人・劇作家・エッセイスト。

 1951年度ノーベル文学賞受賞者。人間の善悪という普遍的なテーマで作品を執筆し続けた。幼少期から受けた伝統的なキリスト教教育の影響から、バラバやさまよえるユダヤ人という人物像を通して創作をした。最も広く知られる作品は「バラバ」(1950年)で、イエス・キリストの身代わりに釈放された犯罪者バラバの数奇な運命を描いた傑作。

 

 

 


先週の本屋めぐり

2015-07-20 10:55:03 | 日記

2015年7月20日(月)

 3日戻って16日の木曜日、この日は台風の接近で帰途の電車が乱れるかという噂もあり、御茶ノ水の仕事を終えて早々に帰宅した。といっても本屋は通り道なので、立ち読みにハマらなければ時間のロスにはならないと言い訳。手に入れたいものがいくつかあったのだ。

 で、首尾はというと・・・

・ ラーゲルクヴィスト 『バラバ』 岩波文庫 ・・・ 予定通り

・ フロイト 『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 光文社古典新訳文庫 ・・・ 予定外

(予定は『文化への不満』だったんだが、なかったので代わりに買ってしまった。)

・ 川島隆太 『ホットケーキで「脳力」が上がる』 小学館 ・・・ こないだの「本のツボ」から、予定通り

・ 三浦雅士 『身体の零度』 講談社選書メチエ ・・・ 予定通り

・ 金谷武洋 『日本語に主語はいらない』 講談社選書メチエ ・・・ 予定外

( 『身体の零度』 を探していて、つい目に留まってしまった。)

 予定外2冊だけなら、今日はまだ良い方かな。買ったからには読むんですよ!

 


ヤコブの梯子 ~ 何と散文的な

2015-07-20 09:36:37 | 日記

2015年7月20日(日)

 いつになく切り立った虹の脚を見て、ヤコブの梯子を思い浮かべたこと、それにヘブル語ネタからの連想。

 このイメージのひとつの面白さは、天使という超常的な存在が、梯子/階段という散文的なものを使って上り下りするところにある。すごいミスマッチだ。原語はほんとうに「梯子」なのかな。

 「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28章10-12節)

 そうか、新共同訳では「梯子」ではなく「階段」だった。英語でも Jacob`s ladder というぐらいで、原語が「梯子」のような「階段」のような未分化なものなんだろう。

 何しろヘブル語は一筋縄ではいかない言葉らしい。イメージが豊かで多義的であり、翻訳者泣かせらしいのである。たとえば、かつて「らい」と訳されたツァーラート צרעת という言葉は、長く誤解されたようなハンセン病に相当する疾患概念ではなく、その皮疹や類似の模様に対する形態イメージを表すものだった。カビなんぞが壁に作るもやもやした輪状斑も「ツァーラート」である。気に入りの皮のショルダーバッグを蒸し暑い部屋に一夏ほったらかし、秋になって引っ張り出したらその内面に豹紋状にカビがついて、こすったぐらいではびくともしない。それを見たとき、これが「ツァーラート」なのだと悟った。今は「(ハンセン病に限らぬ)重い皮膚病」と訳語が変更されているが、実はそれでも修正不足なのである。この件、翻訳の罪はきわめて重いが、日本語訳だけの罪ではない。

 ・・・などと能書きを垂れておいて、「梯子/階段」の原語を引いてみた。ヘブル語原文を眺めていても、"This is a pen." のどれが this でどこが pen だか分からないという、原書の、いやさ原初の混沌。推理と勘を思い切り働かせ、10分ほどで目ざす単語を identify したのは自分でも偉い。さて、どんな豊かなイメージが開けることだろう?

  סלם

発音は、「スーロム」とか、そんな感じかな。意味、意味は?

ただ一言

 ladder

ほんとに~~?