散日拾遺

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朝刊紙面から ~ 断言首相 / 大事なのはこれから / 沖縄と本土を考える

2015-07-31 07:31:05 | 日記

2015年7月31日(金)

 【朝刊1面】 『断言首相』

 このフレーズは久々アタリかも。

「戦争に巻き込まれるということは絶対にないということは断言したい」

「徴兵制が敷かれるということは断じてないと明快に申し上げておきたい」

「(専守防衛が)防衛の基本であることにいささかの変更もない」

 まったく、神さまみたいな人だ。

 

 【朝刊20面】 大事なのはこれから

 「あの夏」のコーナーは、1969年51回大会決勝の松山商対三沢高、既に49回目で、終わりも近いのだろう。両チームメンバーのその後の人生を追う記事が続いている。今朝の記事が含蓄深い。

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 いまは愛媛県高野連の審判委員長を務める久保田には再試合後に印象に残る出来事があった。宿舎に見知らぬ男性が久保田を訪ねてきたのだ。松山商が松山東と統合していた1950年に全国優勝したときのエース、池田勉だった。

 「私の育った地区と同じ出身ということだった。『これからが大事、これからが大変なんだ』と言ってました」。全国優勝メンバーという事実を背負い、それに恥じない生き方をという意味だった。

 三沢の校内には当時の活躍をたたえる石碑がある。詩人佐藤ハチローが贈った「敗れて悔なし三沢高校 ほめてもほめてもほめたりない三沢高校」で始まる詩が刻まれている。が、決勝を戦った選手名はない。当時の校長、藤林広太郎の判断だった。「この後、選手がどんな人生を送るか分からないという配慮だったようです」と副部長だった高田憲一は話す。

 三沢の同級9人は「九球志会」という会をもつ。意味は「野球を志した9人の会」。名簿を見ると行方不明の人物もいる。世話役の菊池はいま、三沢市社会福祉協議会に勤める。「一生分の運をあれで使い果たした」と笑って、続けた。「あの試合をずっと背負っていかなきゃならない。でも、また何か野球に貢献できればと思う」

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 赤穂義士の吉良邸討ち入りの後、助命を主張する意見もあったといい、義士自身の中にそういう期待もあったとかなかったとか、古来話の種が尽きない。制度的には通らない話で、そのあたりを新井白石が明快に論じたのを、米倉先生が『法学入門』に紹介している。(読めば読むほど面白いテキストである。)

 これにまつわることとして、「その後」を案じる藤林校長的な配慮があったとも伝えられる。47名の人間がいれば、中にはその後の不品行で美談を汚すものが出ないとも限らない。それよりも潔く腹を切らせ、不朽の名を残させてやろうというのである。この話は、確か父から聞いたのだな。

 それでもやっぱり、三沢高校野球部の碑には選手の名がほしかったと思うのは、大和男子の美学に遅れているかしらん。誰がというのではない、名をもつ個人がそこにいたことを刻んでおきたいと思うのだ。田舎の忠霊塔のことを思い出して、鳩尾のあたりがズキンとした。そこには個人/故人の名がはっきり刻まれている。

 

 【朝刊16面】 シンポジウム「いま、沖縄と本土を考える」

 翁長雄志知事の「沖縄からの提言」を受け、山口昇、佐藤優、寺島実郎の三氏がパネル討論。議論の行方はともかく、この付置を見てようやく「緒に就いた」との印象をもつ。

 遅きに失した?いや、まだ間に合うかもしれない。