散日拾遺

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パール・バックが宣教師を辞めた事情

2015-07-23 19:05:11 | 日記

2015年7月23日(木)

 情報をかじるにつれ、パール・バックという人物に対して関心が湧く。さしあたり、長老主義教会との軋轢について、英語版 Wiki からコピペ。

 When John Lossing Buck took the family to Ithaca the next year, Pearl accepted an invitation to address a luncheon of Presbyterian women at the Astor Hotel in New York City. Her talk was titled “Is There a Case for the Foreign Missionary?” and her answer was a barely qualified “no”. She told her American audience that she welcomed Chinese to share her Christian faith, but argued that China did not need an institutional church dominated by missionaries who were too often ignorant of China and arrogant in their attempts to control it. When the talk was published in Harper's magazine, the scandalized reaction led Pearl to resign her position with the Presbyterian Board. In 1934, Pearl left China, never to return, while John Lossing Buck remained and later remarried.

 「中国の民衆と信仰を分かち合いたいのはやまやまだが、宣教師たちはあまりにも中国を知らず、そのくせ中国をコントロールしようとする傲慢さを備えており、そんなものに主導された制度的教会を中国は必要としていない」ぐらいの感じですか。

 ここまで明言する度胸も大したものだが、自分の内面は中国人であると自己規定する彼女にとって、黙っていられないものがあっただろう。きわめてファリサイ的な一面をもつ長老主義教会の中から強い反発が起きたことは想像に難くなく、彼女は宣教師を辞することになる。せいせいした面もあろうと思うが、宣教団体の後ろ盾を失ったことは、彼女が中国を再訪する道を著しく狭めた。結果的に1934年の帰米を最後として、ついに中国を訪れずに終わることになる。1972年のニクソン訪中時に同道する計画があったが実現せず、当時の中共が『大地』を「反革命的」と断じたためらしい。パステルナークの件が連想される。翌1973年、パール・サイデンストリッカー・バックは80歳9ヶ月の生涯を閉じた。

 トリビア①  『大地 The Good Earth』によるノーベル文学賞受賞には、瑞典の探検家スヴェン・ヘディンの推薦があったという。『さまよえる湖』などで知られる、あのヘディンである。ヘディンは1948年には賀川豊彦をノーベル文学賞(!)に推薦したらしい。『黄金の土』では探検家の底意をあげつらったが、ナンセンやアムンゼン(諾威)、リビングストン(蘇格蘭)などを見ても、探検家の中にしばしば真のコスモポリタンを見ること希ならず。ヘディンもその例かしらん。

 トリビア②  パール・バックが中国(の民衆)びいきであったことは当然で、これは日本に対する感情にはネガティヴな作用を与える理屈だが、そう図式的なものでもないらしい。1927年に中国の民衆暴動をからくも逃れて日本に難を避け、一年ほども滞在した期間に彼女の執筆活動が本格的に始まった。この滞在を通して「日本人が皆、軍国主義者であるわけではない」ことを知ったという。そんなことも来てみなければ分からないし、来てみれば一目でわかるのだ。戦後は、被爆者でありノーモアヒロシマ運動の創始者である谷本清牧師(1909-86)の支援にも関わっている。

  1932年 "The Good Earth" 出版の頃。きれいな人だ。


『黄金の土』 ~ 50年後の解題

2015-07-23 17:23:26 | 日記

2015年7月23日(木)

 分かっていなかった。つい今朝まで、気づいていなかった。

 「感動的な物語を思い出した、帰宅後に記す」と書いたとき、僕の記憶にあったのは黒い肌の王龍たち、素朴なアフリカ人がどれほど「土」を大事にするかについての、微笑ましい例証であった。

 読んでの通り、そんなものではない。

 

 遠いところにある、ヨーロッパの強い国からやってきた二人の探検家が、エチオピア全土を隈なく踏破して、地形はもとより道々や貴金属資源など国情を事細かに記載している。何のために?よし譲って彼ら自身に害意がないとしても、帰国後にその情報はどのように用いられる?

 侵略と植民地支配の下準備、それ以外に考えようもないだろう。少なくとも、そのような警戒心を抱かない者に王たるの資格はない。だからこそ、ネグース王は「しばらく、この人たちのした仕事について考えた」のである。

 記録を没収し、持ち帰らせないという強硬手段も、王の脳裏に浮かんだことだろう。しかし王は自重する。強硬手段がヨーロッパ人にかえって介入の口実を与えることも、考えたに違いない。思慮を重ねた王の苦肉の策が、感動的な場面を生み出した。王は探検家たちを歓待し、御馳走し、高価な贈り物までも与える。いよいよ出発の時にヨーロッパ人の靴から土を丁寧に拭わせ、いぶかる相手に訴える。

 「エチオピアの大地は、わたしたちの父であり、母であり、きょうだいなのです。エチオピアの土は、わたしたちのもっているものの中で、一ばんたいせつなものなのです。ですから、たとえ、ひとかけらの土でも、さしあげることはできません。」

 『大地』で学んだことを早速援用する。最後の「土」を land と訳し、そして「土地」と訳し戻したらどうなるか。

 「たとえわずかな面積の土地といえども、さしあげることはできません。」

 

 王は来るべき嵐を明瞭に予見している。他ならぬ土地と人民を奪い取るべく、ヨーロッパ人が圧倒的な力をもって迫ってくる、その日は目前に迫っている。これに対する懸命の抗議であり警告だったのだ。歓待もする、贈り物も与える、しかし土地だけは断じて渡さない。この決意を同胞らに伝えよかし・・・

 かくも悲痛なメッセージが伏せられていること、幼年期には気づくよしもなかった。本の奥付に1963年発行とある。50年後の気づきである。この物語を採集したハロルド・クーランダーとウルフ・レスローについて何も知らないが、むろんヨーロッパの一員に違いない。どうせ書くならこういう仕事がしたいと思う。

  

 

 

 

 


黄金の土

2015-07-23 16:59:02 | 日記

2015年7月23日(木)

 全文を転記する。

***

 むかし、ヨーロッパから、ふたりの探検家が、エチオピアの国にやってきたそうです。

 ふたりの探検家は、北から南にむかって探検して、ひろぅい国のすみずみまで歩きまわりました。ふたりは、どこへいっても、その地方にある山と道と川の地図をつくりました。

 このふたりの探検家のうわさが、ある時、ネグース王の耳にはいりました。

 地図をつくりながら歩いている、探検家のうわさをきいて、ネグース王は、この人たちに協力するために、ひとりの道案内人をおくってやりました。

 何年かたって、探検家たちの仕事がすむと、道案内人は、アジス・アベバ(エチオピアで一番大きな町)にかえり、ネグース王に、じぶんがみたことを、ほうこくしました。

 「ふたりの探検家は、みたものはなんでも書きとめました。ナイル川のはじまるタナ湖へもいきました。そこから、ナイル川にそって山をくだりました。金や銀のでる岩もしらべました。平原の道も、山の道も、ぜんぶ地図に書きこみました。」

 ネグース王は、しばらく、この人たちのした仕事について考えました。そして、ある日とうとう、このふたりがエチオピアからしゅっぱつする前に、あってみようと、よびよせました。

 ふたりがごてんにやってくると、ネグース王は、これをこころよくむかえ、ごちそうをふるまい、いろいろめずらしいおくりものをおくりました。そして、ふたりが、いよいよ海岸から船出をするときになると、めしつかいたちを見送りにつけてやりました。

 探検家たちが、船にのろうとすると、王さまのめしつかいたちは、ふたりをとめて、くつをぬがせました。

 めしつかいたちは、くつについた土をていねいにこすりおとして、ふたりにかえしました。

 ふたりは、おかしなことをするものだ、とおもいましたが、それがエチオピアのしゅうかんだろうと、考えました。そこで、

 「それにしても、どうしてこんなことをするのかね?」とききました。

 すると、ネグース王のつかいのものがこたえました。

 「王さまは、おふたりの航海無事をいのっております。それから、こうつたえるようにおっしゃいました。

 あなたがたは、とおいところにある、強い国からやってきました。そして、エチオピアが、世界で一ばん美しい国であることを、じぶんの目でごらんになりました。この美しい国の土は、わたしたちにとって、なによりもたいせつです。この土の中にたねもまけば、なくなった人もうめるのです。

 わたしたちは、つかれたときに、その上によこたわって休み、また、平原では、その上でウシやヤギをかうのです。谷から山の上につづいている道も、平原から森の中に通じている道も、みんなみんな、わたしたちの祖先の足と、わたしたちの足と、そして子どもたちの足でふみかためたものなのです。

 エチオピアの大地は、わたしたちの父であり、母であり、きょうだいなのです。

 わたしたいは、あなたがたを、あたたかくもてなしたし、めずらしいおくりものもさしあげました。

 けれども、エチオピアの土は、わたしたちのもっているものの中で、一ばんたいせつなものなのです。ですから、たとえ、ひとかけらの土でも、さしあげることはできません。」

(クランダー、レスロー文/渡辺茂男訳『山の上の火』(岩波おはなしの本)から 最終話「黄金の土」)

 


『大地』のこと、もう少し

2015-07-23 06:53:59 | 日記

2015年7月23日(木)

 Wan-Lung と O-lan、二人の主役は「音」で名が記されている。隣家の陳 Ching も音、してみると漢字の意味をとって英語に移し替える方式は、女たち限定である。阿蘭は女性だが、これは別格でもあるえ、ここでいう意味の「女」ではない。

 蓮華が Lotus、梨花が Pear Blossom、杜鵑 がCuckoo。前二者はいかにもぴったりだが、それに負けずに最後のもの、自身も美人であるけれど、それ以上に欲の皮が張って口の立つ遣り手女に「杜鵑/Cuckoo」というネーミングはあまりにも見事である。このあたり、英語読者向けの一種のサービスであることは、気の利いた読み手にはすぐわかる。何というのかな、大衆社会段階に入ったアメリカの作家らしい如才なさを感じたりもするのだ。彼女自身は自分の内面を「中国人」と規定したようだけれど。

 ところで Wiki の記載を見ると、パール・バックはピューリッツァー賞を受けた1932年に紐育で講演し、その内容がきっかけで長老派教会の伝道担当者から非難を受けて、宣教師を辞したとある。何を語り、何が非難されたのか、うすうす想像も働くが、ぜひ正確なところを知りたいものだ。

***

 王龍の土に対する愛情は真摯なものである。そこには経済的な動機もあるが、それは一面でしかない。彼自身が大地の一部であるとしか言いようのない、根源的で生理的で無条件の愛着といったものだ。そして、何を偉そうなと言われそうだけれど、こうした土への愛着はたぶん僕自身の中にも存在している。先祖代々、土とともに生きてきた農民の出であることを、情報として知っているからでもあるけれど、たぶん、おそらく、それだけではなくて。せっせと帰省しては庭だの畑だのをいじるのは、親孝行という動機ばかりでもないのだな。土が呼ぶ、血が騒ぐというlことが、多少なりともあるみたいなのだ。

 不思議なのは、僕だけでなく圧倒的多数の日本人がそうした感覚を共有してよいはずなのに、この国ではどうしてこれほど「土」や「農」が軽んじられるのかということである。

 ふと思い出した、感動的な一文がある。帰宅後に記す。