散日拾遺

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『大地』を読み直すこと

2015-07-22 07:35:16 | 日記

2015年7月22日(水)

 わけあって『大地』を読み直している。少なくとも第一巻に関する限り、激賞に値する名作である。『身体の零度』はこれを面白い角度から丹念に扱ったが、僕はまた少し違う角度から見てみたいのだ。

 その件はあらためて書くとして、この翻訳はたぶん名訳である。いつも翻訳の悪口やあら探しばかりしているようだけれど、そんなことない、良いものは良いよ。新潮文庫の小笠原豊樹訳チェーホフも名訳だと思ったし、今でも思っているが、例の「雑役のおばさん/女労働者」の件で手放しにはいかない難しさを感じた。『大地』は新居格(にい・いたる)訳、中野好夫補訳とある。訳と補訳の実際の分担は不明ながら、新居氏(1888-1951)、中野氏(1903-1985、伊予松山産の偉大な知識人!)の世代を考えてもかなり古い訳業のはずで、そのくせ古さというものを全く感じさせない。このうえなく品が良く、しかもこなれている。比べて悪いが、『バラバ』とはかなり違う。丁寧に見れば「雑役のおばさん」的な問題はあるのだろうが、そのレベルの問題なら真剣に論じる意味があるからね。

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 名古屋からの帰途に第一巻を読み終え、翻訳に関してふと思ったことが二つ。

 第一巻の主人公である王龍(ワン・ロン)は骨の髄からの百姓で、土に対する愛が彼の波乱の生涯を野太く貫いている。飢餓のために南方の街へ逃れたときも、裕福になって街の女にうつつを抜かすようになっても、彼の底には土への愛が脈々として生き続け、時至って彼を呼び戻し、覚醒させ、立ち直らせた。

「春は幾度も過ぎた。年ごとに、王龍には、来る春がおぼろげになっていった。しかしどんなに年老いても一つのことだけは生き残っていた。それは土に対する愛情だった。彼は土を離れて町へ移り、そして富豪になった。それでも、彼の根は土の中に張っていた。」(P.405)

 「土」の原語は何だろうか?それが知りたくて、さっそく Kindle の原著を購入した。僕の推測というか疑いは、「土 = earth = 大地」ではないかというものである。

 外れた。

"Thus spring wore on again and again and vaguely and more vaguely as these years passed he felt it coming. But still one thing remained to him and it was his love for his land. He had gone away from it and he had set up his house in a town and he was rich. But his roots were in his land and (以下略)"

 原語は land であった。そして早くも訳者の決断をここに見ることになる。言うまでもなく、land を「土地」と訳すことも可能であり、「その方が正しい」という主張もあり得るだろう。「土」は物理的な実体であり、それを大きくは出ない。「土地」は売買可能な経済財であり、王龍は一面では最も確かな財としての「土地」を自身の支えともしてきたのである。原語の land にはこの二面性があり、現著者はその二面性をきわめて有効に使いながら王龍の生涯を活写する。王龍の「愛情」にも当然この二面性が内包されている。

 訳者はこれを訳し分けなければならない。上記の引用部分では、「土地」に対するのではない「土」に対する愛情であると、訳者は判定する。原著を読む際には、読み手に委ねられていた判定の作業であり、読み手はそれを行わない自由さえもっていた。「翻訳」という作業が根本的に不可能であり、不可能を強行することにおいて裏切りであるという事情がここにも見て取れる。新居/中野訳はこれ以上ないほど適切に「土」と「土地」とを訳し分けるが、それはどこまでも訳し分けでしかない。作品そのものの本来の醍醐味を知るには、どうしても原著を原語で読むしかない。何てことだろう。バベルの裁きの重さと、その果実の複雑な豊かさよ!

 land をこれほどの中心テーマとして全編を語りながら、そのタイトルが earth であって land ではないことにもあらためて驚くが、もうこれは「朝飯前」のブログの中には到底収まらない。earth も land も研究者辞書の語源記号は OE、つまり古来の英語であって、いわば生粋のヤマトコトバであることだけを付記しておく。

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 もう一つは、登場人物名の英語表記である。原著では Wang Lung、翻訳では王龍となっている。同音異字という可能性を排して、この字を確定することができたのだろうか。

 パール・S・バックは宣教師の娘として生後3ヶ月から中国で育った。数年にわたって日本で宣教しながら、「なぜ日本人は面倒な漢字を使い続けるのか、ひらがなカタカナで用が足りるのに」と本気で訊ねる呆れたアメリカ人もいたが、その手合いとは志の次元が違うこと、作品そのものもの参与観察/共感的な姿勢が明らかに示している。バックの命名には漢字の根拠があったはずだと確信するが、一般の英語読者には見えない話だ。そこを掘り起こす資料があったのかな。

 殊に原著を斜めに見ていて「ほう!」と唸ったのは、女たちの名前である。O-lan が阿蘭、これは分かりやすい。Lotus は蓮華、Pear Blossom は梨花、Cuckoo って誰だ?やり手の杜鵑か! 訳は丁寧にも、中国語の発音を漢字の後に併記している。阿蘭(アーラン)、蓮華(リェンホワ)、梨花(リホワ)、そして杜鵑(トーチュエン)。くどいようだが、これらは原著には記されていない。Lotus や Pear Blossom の意味から蓮華、梨花を推測し、その中国語発音を付記したものか。あるいは原著者の創作ノートか何かがあって、これらの綴りが根拠づけられているのか?

 いずれにせよ、驚嘆に値する労作である。原著も翻訳もね。