散日拾遺

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6月4日 ピカソ 「ゲルニカ」を完成(1937年)

2024-06-04 03:18:47 | 日記
2024年6月4日(火)

> 1937年6月4日、20世紀を代表するスペインの芸術家パブロ・ピカソは、モノトーンの作品「ゲルニカ」を完成させた。「ゲルニカ」は同年4月26日にスペインのバスク地方の町ゲルニカが、ドイツ空軍の「コンドル軍団」に無差別爆撃を受けたことに対する抗議として描かれた。3.5m × 7.8mの巨大な作品は、彼の他の絵が色彩にあふれているのに対し、当時の絵としては珍しいモノトーンで、凄惨な戦争の場面が描かれている。
 ピカソはスペインのマラガの生まれで、バスク人の血を引いている。ゲルニカ空襲の報は、二日後、暮らしていたパリで知った。独裁者フランコ率いる反乱軍とそれを支援するドイツ軍が、資源の豊かなバスク地方制圧を目指し、通信基地のあったゲルニカを空爆の目標にしたと言われている。犠牲者は一般市民1600人にのぼり、人口7000人の町の主要部は数時間で壊滅した。
 この空爆の報道写真を見て、ピカソは強い衝撃と怒りを覚え、取り付かれたように「ゲルニカ」の制作を開始したという。制作期間は五月一日から六月四日までのひと月余りだった。当時ピカソの愛人だった写真家ドラ・マールがその制作過程をつぶさに記録している。
 フランコ独裁政権成立後、ピカソは二度と故国には戻らなかった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.161

  


 上掲書がゲルニカを取り上げるのは二度目である。大事なことは先に書いたので繰り返さない。
 ⇒ 4月26日 フランコ将軍の要請でゲルニカが爆撃される(1937)
 
 「ゲルニカ」という言葉を初めて知ったのは「鉄腕アトム」だった。
 いまインターネットで検索すると、まずテレビ版の『ゲルニカ』が出てきて、「強大なモンスター集団『ゲルニカ』によって次々に都市が陥落してゆく。アトムは人々のために、このゲルニカと戦う」などと解説されているが、これではない。
 さらに検索を続けると、漫画版の中に「突如東京を襲ったゲルニカと呼ばれるカタツムリの化け物、それは食糧事情を好転させようとしたある研究者(アルベルト)が作り上げた変種だった。なす術もない人間達だったがアトムは…」とある。こっちだ。
 カタツムリの化け物に「ゲルニカ」という名前はピッタリで、子どもの記憶にたちどころに定着した。その後、少年期に至ってピカソの「ゲルニカ」を知った時、なぜこの絵にあの名前が付いているのかわからず、ポカンと口を開けて立ち尽くす一瞬があった。
 バスクの人びとが住み続けてきた街の名であってみれば、こんな使い方は不穏当とも言えようが、ピカソが絵の中に固定したその出来事を思うとき、これはこれで良いのだと腑に落ちる。カタツムリの化け物は醜怪きわまる人喰らいで、しかも人間が作り出したものだった。
 つまり「ゲルニカ」である。

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